第二百八話
山の中を、獣が走っていた。
いや、それは正確ではない。
彼らは二本の後ろ足で走り、腕で木々をかき分け、仲間の肩を支えていたのだから。
その荒い息づかいの中にも、耳をすませば仲間を励ます声が聞こえてくる。
先頭を行く者は、何度も後ろを振り返る。
それは遅れがちな仲間たちを気遣っているのか、それとも、さらにその向こうから来ているはずの追手を気にしているのか。
いずれにせよ、彼らの足に迷いはない。
もはや戻ることはできず、前に進むしかないのだから。
誰も彼もがみすぼらしい毛並みで、中には地肌の浮いている者もいる。
先頭を走る最も壮健な獅子のような者でさえ、明らかに痩せすぎだ。
なにより、彼が木立ちを薙いで、行く手を遮る巨大な根っこを乗り越えるためその手を仲間に伸ばすたび、じゃらりと鎖の切れ端が音を立てる。
それが、彼らの身分をよく表していた。
手枷がこすれる手首の毛は禿げていて、昨日今日につけられたものではないとわかる。
足首も同様だ。
肩の一部もまた地肌が覗いているが、これは焼き印のせい。
彼の後ろに続く者たちにも、似たようなものが押されている。
中には背中一杯に押された者もいて、それはある種の見せしめであった。
彼らは神に選ばれなかった民であり、人の下にうずくまるべき存在なのだと、思い知らせるために。
今、山中を走る者たちの多くは、隙あらばその焼き印を己の太い爪で掻き、剥ぎ落そうとしている。
赤いものが流れ出ても気にしないのは、痛みはとっくに疲れで痺れていたからか。
それとも、魂に刻まれた烙印のほうが痛いからか。
先頭を行く者が、不意に足を止める。
後ろに続く者たちがその様子に気がつき、固唾を呑む。
冷たい山の空気の中では、彼らの体と言わず口と言わず、あらゆるところから白い靄が立ち上る。
先頭を行く者が、言った。
『川だ。この先は……』
振り向いたその顔には、もう何十年と使っていない顔の筋肉が盛り上がっていた。
『アズリア属州だ』
そしてその先にあるという、獣人が治め、獣人たちが平穏に暮らせるという町。
ジレーヌ領、と皆は聞いていた。
本当にあるかどうか定かではなく、きっと根も葉もない作り話だろうと誰もが思っている。
しかしそれが嘘であったとしても、目の前の現実よりかはましであった。
だから彼らは、走るのだ。
『あと少し、あと少しだ』
彼らは生まれて初めて、自らの望んだ歩みを、踏み出したのだから。
◇◇◇
月のない暗い夜。
宵っ張りの居酒屋でさえ、諦めて蝋燭の火を消して店じまいをするような時刻のこと。
ジレーヌ領ではちょっとした騒ぎになっていたらしい。
対岸のバードラの町が燃えている、と。
電気のない世界では、明かりといえばささやかな蝋燭か、せいぜい松明くらいしかない。
それは州都ロランのような大きな都市でさえも変わらない。
だからその日の夜、たまたま夜風に当たろうと外に出たジレーヌ領の商人が、東の空を見て肝をつぶしたのは理解できない話ではなかった。
後から聞いた話では、あまりに強い光のせいで、空に浮かぶ雲がくっきり見えたらしい。
その光景を見た人々がまず想像したのは、敵襲だった。
火が放たれ、町が燃え、暗い夜空を焦がしていく。
けれど誰かが、バードラの町が燃えているにしては、方角がおかしいと言い出した。
それに敵襲にしては、海が穏やかだと。
もしもバードラの町が焼かれるような敵襲なのだとしたら、バードラから逃げてきた船が一艘くらいいてもおかしくない。
それを受け、この島の魔法使いたちが救出に乗り出して……という話になる頃に、港での騒ぎを聞きつけたのか、領主イーリアが現れたらしい。
威厳たっぷりに、という表現を商会の人から聞いたので、多分寝ているところを起こされてものすごく不機嫌だったのだろう。
そのイーリアが港に現れ、対岸の空を煌々と照らす不気味な灯りに、目を眇めたという。
それはきっと人前でのあくびを我慢したのだろうと想像したが、人々には重厚な所作に見えたらしい。
そんなイーリアに、この世の終わりでしょうか、と信心深い誰かが、呟くように尋ねたのだとか。
イーリアはしばし沈黙し、ゆっくりと答えたようだ。
「あれは世界の終わりではなく、始まりの光よ」
面倒くさがりなイーリアにしては大仰な表現だったので、その日の夜は随分酒を飲んでいたのかもしれない。
領主様に詳細を尋ねようとする勇気のある者はいなかったが、イーリアがそれ以上なにも言わずに屋敷に戻っていったので、ひとまず物騒なことではないということで落ち着いた。
けれど黒い海の向こうを照らす橙色の灯りは、人々の心を妙に掴んだらしい。
少なくない者たちが港に留まり、商売っ気の強い誰かが温めた軽い酒やら軽食やらを売りだし、明け方まで東の空を眺めていたという。
世界の終わりではなく、始まりの光。
イーリアの表現は確かにそのとおりなのだが、ではその光の下にいた自分たちがどう思っていたか。
皮肉なことに、まさしくこの世の終わりをどうにか食い止めているような有様だった。




