第二百七話
***クルル***
ヨリノブやファルオーネたちが、寄ってたかって合成魔石を練り上げていく。
無意味だと思われていた魔法陣を手掛かりに、大規模魔法陣を「折り曲げて」いく。
苦心して大規模魔法陣の箱を作り終える頃には、すっかり陽が落ちていた。
だが、誰ももうやめようとは言わなかった。
確認しなければ、きっと夜も眠れないだろうから。
「クルルさん」
最後の紋様が刻み終わった後、ヨリノブが呟いたのはその名前だ。
誰も異を挟まないし、大規模魔法陣を確認しているファルオーネやゼゼル以外の、全員の視線がクルルに向けられる。
クルルはその視線の中に、イーリアを見つけた。
目が合うと、待ちくたびれたのか少しあくびを挟んでから、にこりと微笑まれた。
ノドンを倒すために合成魔石を試したあの夜は、魔法を試すことになんの恐怖心もなかった。
今は知識があるせいで、かえって怖い。
「おい、クルル」
そこに声をかけてきたのは、ゲラリオだ。
「なにが起こるかわからんし、魔石の大きさからして、完全に起動させるのはまず無理だが、注意しろよ」
「はい」
ゲラリオもいつものだらしない感じではない。
クルルは弟子として返事をし、ぎゅっとこぶしを握り締める。
「けどな、起動せずとも、穴が開いてるかどうかは感じ取れるはずだ」
「ん……ん、はい」
「穴が開いてるのがわかったら、無理に入れずに、表面を撫でる程度にしとけよ、いいな」
身振り手振りを交えた師匠の話は、相変わらずどこか卑猥で、クルルはしかめっ面になる。
でも、言わんとすることはわかる。
クルルは深呼吸をして、右手で左肩の後ろを触った。
左肩には、へなちょこに開けてもらった、魔法の通り穴がある。
「じゃあ、いくぞ」
クルルが右手を魔石に当てるのと、左手を誰かに掴まれるのは同時だった。
驚いて見やると、手を掴んできたヨリノブもまた、驚いていた。
そして、つい掴んでしまったという感じで手を離そうとしたので、逆に掴み直してやる。
「入れ墨をいれてないのに、良い度胸だ」
魔法を使っている魔法使いに触れると、その人物の体にも、魔法のなにかが通り抜ける。
そのなにかをうまく流すのが入れ墨であり、入れ墨を入れていないのに魔法の流れに触れると、出口を求めて魔法が体の中で荒れ狂う。
竜を倒す時のことを思い出したのか、ヨリノブは曖昧に笑った。
でも、手は離さなかった。
「死なば諸共です」
膝を震わせながら言われてもな、とクルルはおかしく思う。
それに、その言葉は正しいようで、正しくない。
「運悪く完全に起動したら、多分ここにいる全員が死ぬんじゃないか?」
この大規模魔法陣が、古代帝国を滅ぼした特大の火炎魔法でない保証はない。
クルルの軽口に、ヨリノブは言った。
「自分の経験からですけど、死ぬのも悪いことばかりじゃありません」
アホの鉱山帰り。
ゲラリオたちが手を叩き、イーリアは獣人たちと共に呆れ、ファルオーネたちは目をらんらんと輝かせている。ルアーノは妙な面倒見の良さからか、獣人の子供たちに懐かれていて、今は尻尾の毛を膨らませて不安そうにしている彼らを抱きかかえていた。
クルルは息を吸い、整え、巨大な合成魔石に手を当てた。
魔法を使うのは、その中に手を沈め、なにかを掴むことに似ている。
クルルはそのなにかに触れようと一歩前に出て――。
その瞬間、魔石に飲み込まれた。
暗い闇に包まれた直後、真っ白な世界のただなかで、世界の真理を知り、神に出会い、永遠の時を生きた。
少なくとも後世に書かれた年代記には、そう記されている。
◆◆◆◇◇◇
「……ん、あ?」
クルルがぱちっと目を覚ますと、これまでにない清々しい寝覚めだった。
が、直後にベッド脇にいたイーリアが仰天し、飛びついてきた。
遅れて扉付近にいたバダダムが転がるようにして部屋から出ていき、ほどなくわらわらと健吾やマークス、それにゲラリオたちがやってきた。
泣きじゃくるイーリアからのとぎれとぎれの言葉で、十日間近く寝ていたらしいことを知ったクルルは、部屋にいる面々の中に、知っている者がいないことにざわついた。
自分が魔法の反動で十日間も意識を失っていた。
なら、入れ墨を入れていない、あの間抜けは……。
「イーリア、様」
クルルは恐ろしかったが、聞かないでいるのはもっと恐ろしかった。
「その、ヨリ、ノブは……」
イーリアはその言葉に、顔をこわばらせ、目を逸らす。
クルルは喉の奥がつまり、指先から足のつま先まで冷たくなった。
口を開いたのは、ゲラリオだ。
「お前が倒れたことに信じられんほど取り乱して、ばたりと寝込んじまった。けど、寝込んで三日目にイーリアちゃんが怒り出してな。そんなになるならさっさと手を出しておけばよかったし、今からでも遅くないからって、この部屋にヨリノブを閉じ込めたんだよ」
「え……?」
「ほら、おとぎ話にあるだろ。口づけで目が覚めるってやつ。なんなら下の口にも入れちまえばいいって、俺たちでも恥じらうような下品さでけしかけてたぜ」
呆気にとられるクルルの横で、目元を赤くしたイーリアが、顔を背け続けている。
なけなしの備蓄だった蜂蜜を、全部舐めてしまったのがばれた子供の時のように。
「で、ヨリノブの野郎は閉じ込められて二日目に、部屋から出てきた。その時には幽鬼のようにげっそりしてて、その後はなぜか海に入ったり出たりを繰り返すようになっちまった。俺は」
と、ゲラリオは言葉を切って、訳知り顔にうなずく。
「お前にきちんと手を出したんだと思う」
「え?」
がばっと音がしたのは、イーリアが顔を上げた音だ。
「違うわよ! ヨリノブは絶対、自分の腑抜け具合に耐えきれなかったのよ! せっかく二人きりにしてあげたのに!!」
「う? え?」
「俺は、さんざん悩んでちょっと手を出して、その罪悪感に耐えきれずだと思うんだがなあ」
そう言ったのは健吾。
事態に頭が追いつかないクルルの前で、各々が好き勝手なことを話している。
クルルはようやく理解が追いつくと、顔を真っ赤にして怒鳴っていた。
「全員部屋から出て行け!」
その場にいた全員が頬を張られたように身をすくめて、すごすごと部屋から出て行った。
ただ、イーリアだけはむくれたようにベッド脇にいたままだし、クルルもイーリアは追い出そうとしなかった。
「……だって、本当に死ぬと思ったんだもの」
むくれたイーリアは、子供のころそっくりの顔で言い訳をした。
「でも、寝たきりになった怪我人とは全然違うってゲラリオさんたちは言うし、確かに普通に寝てるだけにしか見えなくもなかった。寝相は悪かったし、歯ぎしりもするし、ぐっすり眠ってるように見えてきて、だんだん腹が立ってきて……それであなた以上に病人みたいだったヨリノブを見てたら、つい……」
つい、なんなのか。
クルルは詳しく聞きたいような、聞きたくないような、呆れと諦念の混じった感情を持て余し、ため息をついた。
「大規模魔法陣は、本物だったんですね?」
永遠に長い夢を一瞬で見たような、不思議な感覚がまだ残っている。
そこで得た大切な知識があったような気がするが、思い出せないし、夢ではままそういうことがあるものだ。
とにかく今大事なことは、間違った紋様を刻まれた魔法を起動させても、こうはならないということ。
つまり、あれは、起動したのだ。
「みたい。でも、ゲラリオさんたちも試してみたけど、あなたのようにはならなかったのよね。なにか、深遠な穴にちょっとだけ土を放り込むような感覚って言ってたわ」
クルルはその言葉を口の中で転がし、肩をすくめる。
「なんとなくわかります。私は多分、未熟なので、距離感を間違えてその穴に落ちてしまったんでしょう」
相手は大精霊が生み出したと言われる大魔法だ。
命まで飲み込まれなかったのは、本当にいるのかわからない神の思し召しなのか。
クルルは毛布から足を抜き、ベッドから降りようとする。
するとイーリアが慌てて止めてきた。
「ちょっと、平気なの?」
「ええ。体の調子はすこぶる良いです。久しぶりに思いきり寝た後のような気がします。こんなのは――」
クルルはつい、苦笑してしまう。
「合成魔石が本物だと判明した後、何日かぶりに眠った時以来です」
「……」
イーリアはなにか言いたげな顔をしていたが、すぐに顔を緩め、クルルの手を取って立たせてくれた。
そして立ちあがったクルルは、ぼんやりと自身の体を見てしまう。
「クルル? 平気? やっぱりまだ寝てたほうが……」
心配するイーリアに、クルルは意地悪な笑みを向ける。
「ヨリノブになにかされてないか、気になるんですよ」
ぴんと犬耳を立てたイーリアは、たちまちむくれてみせた。
「絶対に保証するわ。ヨリノブは腑抜けよ。玉なしよ!」
お節介を焼きたいのか、それともたんに面白がっているのか、その割合は七対三くらいだろうが、クルルにとって有難迷惑なのは間違いない。
けれど昏倒したクルルが死ぬのではと思ったのは本当だろうし、大丈夫そうだとわかった後でも、一向に目を覚まさなくて不安になったからこそ、イーリアはベッド脇にずっといてくれたはず。
厄介なご主人様だと、クルルは愛しく思う。
なのでクルルは、看病してくれたお礼に、こう言った。
「多分、ケンゴが正解ですよ」
イーリアの目が見たこともないくらい真ん丸になって、それから口を両手で押さえると、尻尾の毛が好奇心でぱんぱんに膨らんでいく。
「え、え、え? どんなこと? え、どんなこと??? 寝てる合間になんとなくわかったの? 夢に出てきたの? ねえ、クルル、ねえったら!」
「わかりません、なんとなくの話です」
「うそ! ねえ、クルルったら! もう!」
腕の中で喚くふわふわのイーリアをいなしながら、クルルは右の犬歯で、小さな笑みを軽く噛む。
大規模魔法陣が本物で、その起動も確認できた。
多分それは、ヘレナを島に連れ帰るより、とてつもないことに違いない。
でも、目を覚ましても世界は業火に包まれておらず、皆相変わらずだった。
クルルはそのことに、ほっとするような、どこか拍子抜けするような気持ちでありながら、世の中そんなものなのかもしれないと、少し悔しい気持ちがないわけではない。
世界はそうそう変わらないし、あの間抜けとの関係も、きっとそう。
クルルはまとわりついてくるイーリアの肩に手を置いて、尋ねる。
「イーリア様。あのアホはどこに?」
イーリアはぴんと耳を立て、クルルの手を握り直す。
「こっち」
そう言ってクルルの手を引くイーリアの姿が、子供の頃のイーリアと重なった。
そして実際に、あの頃と同じように面白がっている。
クルルはイーリアの手に引かれながら、小さく笑っていた。
自分たちは、多分ものすごい歴史の岐路に立っている。
でも、クルルは純粋に楽しみだった。
あの間抜けなへなちょこがこの新しい事実を前に、自分たちをどこに連れて行ってくれるのかと。
それと、本当のところ、寝ている自分に対してなにをしたのかと。
「イーリア様、盗み聞きしていたら、本気で怒りますからね」
ヨリノブが伏せっているという部屋の扉の前で、クルルは言った。
イーリアはものすごく不満そうに頬を膨らませて、ぽかぽかクルルの肩を叩いてから、大股に廊下を歩いて行った。
その気配がなくなってから、クルルはようやく扉に手をかける。
その後にどんなやりとりをしたのか。
大魔法使いドラステルと呼ばれるようになってからも、クルルはそのことだけは、決して口にしなかった。
単に覚えていないのだとクルルは年代記作家に答えたし、少なくとも相手が納得するくらいには、それから忙しくなった。
ジレーヌ領には帝国からの偵察が送られつつあったし、帝国の中枢には悪魔が巣食っているのだと主張する悪魔だっていた。
敵を迎え撃つための準備によって、ジレーヌ領は猛烈な勢いで作り替えられようとしている。
そして、大規模魔法陣が本物だと判明した。
そんな巨大な事件を前にしたら、自分たちのいかに小さなことか。
……。
…………。
いや、本当に小さいのはあいつの肝っ玉だと、クルルはその点だけ、イーリアに深く同意したのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。第六部はここで終わりです。
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