第二百六話
***クルル***
魔法陣の大きさと魔石には、密接な関係がある。
威力もそうだが、魔石が魔法陣の大きさに見合っていないと、魔法は起動しない。
そして魔石で大きければ大きいほど起動させるのが難しく、魔法使いとしての力が必要になる。
クルルは明らかにその能力が低く、ヨリノブが夢中になっている大規模魔法陣の開発には関われない。
ヨリノブは他の連中と遠くに進み、自身だけが取り残される。
そう思った直後、クルルは思わず、ヨリノブの服の袖を掴んでいた。
驚いたヨリノブの顔に、クルルもまた、驚いていた。
こんな情けないことをするなんて。
でも、不安を止められなかった。
だから、気がついたら子供みたいなことを口走っていたのだ。
「こんな、大規模魔法陣なんて、必要ないだろ」
「……え?」
困惑するヨリノブに、クルルは開き直ったように言った。
「そもそも、こんな大規模な魔法陣なら、魔石も巨大になる。そして魔石が大きければ大きいほど、起動は難しくなる。どれだけ天才の魔法使いなら、それを起動できるんだ?」
ヨリノブが、クルルと地面に描かれている大規模魔法陣とを見比べるたび、クルルは自分の言葉を後悔する。
でも、止まらなかった。
「同じ大きさの魔石でも、飛躍的に威力を高める方法が、さっきの実験で分かってたじゃないか。それで十分だろう?」
これは本当だった。実験の最中に、偶然判明したことがある。
合成魔石を粘土遊びと勘違いしている節のある子どもの獣人たちが、誤って作った魔石が原因だった。
「魔石に、複数の同じ魔法陣を刻めばいい。そんな大規模魔法陣なんて、必要ない」
もちろんただ刻み込めばいいのではなく、工夫が必要だった。
同じ表面に隣り合わせて刻み込むのではだめで、裏に同じ魔法陣を刻むのだ。
こんなことをしたら、魔石工房では親方にぶん殴られるだろう。
魔石は重ければ重いほど威力が上がるため、帝国に納品する魔石は、大きさと共に重さが決められているが、魔法陣を刻めば刻むほど魔石を削ることになるので、魔石は軽くなってしまう。
さらに既存の鉱石から削り出した平べったい魔石では、裏と表から魔法陣を刻み込んでしまうと、割れやすくなってしまう。
なので、もしかしたらこの方法はすでに帝国でも知られているが、実用上の理由から用いられていないのではないか、とファルオーネは推測していた。
しかし、表と裏に魔法陣を刻み込むと、魔法の起動に関する反応が異様に高まって、わずかな力で魔法が起動し、一気に魔法へと変換することができる。
おかげで魔石は一瞬で燃え尽きてしまうが、代わりに本来その大きさの魔法陣からは考えられない威力を発揮した。
先っちょを摘まむように魔法を出せば長持ちする、の逆だ。
そしてこの特性が良いことかどうかについて、ゲラリオたちは疑問視していた。
魔法の制御が彼らでさえ難しいらしく、やはり運用の面で色々問題がある方法のため、忘れ去られたのではないかということになっていた。
ただ、威力が上がるのは間違いのないことだったし、なにより起動しやすくなるというのが、魔力の低い魔法使いにとってはなににも代えがたい利点だった。
魔法使いの能力とは、ある大きさの魔石を魔法に変えられる能力のことだから。
非力だと、大きな魔石はそもそも魔法に変えられない。
でも、魔石の起動のしやすさを高められるのならば。
「裏と表に魔法陣を刻み込めば、魔法は起動しやすくなる。私だって、もっと大きな魔石を起動できるってことだ。ロランの船団を吹き飛ばしたものよりももっと大きなものだって、起動できる。だから」
クルルは息を吸って、吐く。
「だから、そうだ。表と裏に魔法を刻み込んで、それから、側面にだって刻めばいい。刻む場所はまだ四か所も残っている! だから私でも、大きな魔法を起動できるはずだ。だから、そんな……」
そんな……とまで言ったところで、クルルは言葉が出せなくなった。
それは、ヨリノブが悲痛な顔をしてこちらを見ているから――。
――ではない。
そうではなく、クルルは自分の話している言葉に、おかしな点がある気がしたのだ。
今、私は、なんと言ったんだ?
「あの……クルル、さん?」
ヨリノブが心配そうに、覗きこんでくる。
その頃には、ファルオーネやゼゼルもこちらに気がつき、大規模魔法陣を描く手を止めていた。
地面に描かれているのは、教会などで見かけるものの中でも、特に巨大な代物だ。
それは通常の魔法陣とは異なり、全体としていびつな形をしている。
いくつもの魔法陣を適当にくっつけ、ヨリノブは蟻の巣のようだと言っていた。
そしてそのいびつな形を繋ぎとめるように、無意味とされる謎の魔法陣が点在している。
クルルは、自身の耳の毛と尻尾の毛が、どんどん逆立っていくのを実感した。
自らの獣の部分が、自分の意識よりも先に、危険に気がつく時のように。
「おい、これ、もしかして……」
クルルの目は、大規模魔法陣に囚われている。
クルルはごくりと喉を鳴らし、胸中で呟いた。
目の前にある大規模魔法陣は、いや、今まで目にしてきたすべての大規模魔法陣は、すべて、正しいものだった可能性がある。
「ヨリ、ノブ」
「は、はい?」
この世界の魔法の常識を、何度も揺さぶっている男の肩を掴む。
おどおどするヨリノブの肩を掴んだクルルは、力任せに引き寄せた。
視線だけは、大規模魔法陣に向けて。
ヨリノブの耳元に、囁くように言った。
この世界の誰にも、聞かれてはならない秘密を語るように。
「この大規模魔法の魔法陣の……正しい形は、こうじゃないんじゃないか?」
「か、形? それは、魔法陣の紋様ですか?」
「違う、形、形だ。形? ああ、くそっ!」
クルルは考えをうまく言葉にできず苛立ったし、うまく言葉にできていないのだから、もちろんヨリノブに理解できるはずもない。
クルルは頭を掻いて、歯をかみ合わせ、「それ」を追いかける。
獲物を追い詰めたと思ったのに、どこに隠れたかわからない。
血走った目で探して見つけたのは、獣人の少年たちが練り上げた合成魔石だ。
「ヨリノブ」
名を呼んで、突きつけた。
「今までの魔法は、こうだ」
粘土でできた合成魔石を、両手で叩き潰す。
魔石の表面に魔法陣を刻む関係上、魔石は基本的に平べったい。
だから大量の出力を一定時間確保する際には、ヨリノブがクウォンでつくったような、大きなチーズ塊みたいな魔石が必要となる。
その魔石には、魔法陣がひとつだけ、表面に刻まれている。
でも、今、実験で新たな事実が判明している。
魔石は、魔法陣の刻み方によっても反応の仕方を変えるらしいと。
だからクルルは、ヨリノブに置いていかれそうだとわかった時、すがりつくように言ったのだ。
――裏と表に魔法陣を刻み込めば、魔法は起動しやすくなる。私だって、もっと大きな魔石を起動できる――
その言葉からは、ある自然な発想が導かれる。
だからクルルは、あの時に夢中でこう続けていた。
――側面にだって刻めばいい。刻む場所はまだ四か所も残っている! だから私でも――
だから、私でも?
クルルは、大きく息を吸い直し、新たな視点で大規模魔法陣を見た。
その視点から見れば、魔法陣を刻むための魔石とは、本来こうあるべきではない気がした。
そして大規模魔法陣が本物なのかどうかすら確信が持てなかったのは、皆が魔石のことを、間違った形で運用していたからではないのかと思ったのだ。
ひとつずつ、大規模魔法陣の存在を疑わしく思わせていた理由を考えればいい。
まず、その巨大さだ。
それだけの魔法陣を刻めるような天然魔石が産出されたとはとても思えず、そのせいで、皆が大規模魔法の存在を疑わしく思っていた。
しかしこれは、合成魔石によって解決された。
次に、その巨大な魔石に刻まれた魔法陣を起動するために必要な、魔法使いとしての能力だ。
恐るべき天才にしか起動不可能だろうと思われ、大規模な魔法陣はただ教会が信者を慄かせるための、はったりではないかと思われていた。
でも今、これも裏と表に魔法陣を刻むことで、難易度を格段に落とせると判明した。
おまけに、裏と表に刻むと、威力が上がるのだ。
では、刻める場所がまだ四か所も残っているということは、なにを示すだろう?
そして最後の、謎の魔法陣。
魔法陣として意味をなしていない、不思議な図形。
ヨリノブが謎の理屈によって大規模魔法は存在すると確信したのなら、この謎の図形もおそらくは謎ではない。
ならば。
ならば――。
クルルは、平べったい魔石を、正しい魔石の形に変形した。
「あ……あっ……ああっ⁉」
ヨリノブの目が見開かれ、口がどんどん大きくなっていく。
反してクルルは、笑顔になっていく。
その手の中で、合成魔石はずんぐりとしたサイコロ形になっていた。
「最後の手がかりは、大規模魔法陣の、ところどころにある無意味な魔法陣だ」
クルルの言葉に、ぽかんとしていたファルオーネたちも、魔法陣を見る。
「大規模魔法陣に含まれる無意味な魔法陣は、無意味なんかじゃない。それには意味があるし、そもそも魔法陣じゃないんだ」
クルルはソレを表す適切な語彙を持たない。
でも、クルルには経験があった。
おかしな異世界人がイーリアの屋敷に来る前、イーリアとクルルは大抵のことは自分たちでやらねばならず、見よう見まねで獣の皮を剥いだという経験だ。
その時に、珍しく親切な職人が渡してくれた教本を見た。
そこには、獣の皮を剥ぐときに、どこからナイフを入れればいいのかという目印があった。
それは逆の視点から言うと、切り開かれた毛皮を、元の獣の形にするにはどうすればいいのかの目印でもある。
そして妙なことをたくさん知っている異世界の男には、通じたらしい。
我を忘れた様子のヨリノブが、異国の言葉で言った。
「テンカイズ」
展開した図と訳すらしいと知ったのは、後のこと。
無意味な魔法陣は、その折り目を示す点なのだ。
ただその時のクルルは、そんな理屈よりも、高揚感でいっぱいだった。
それは、驚かされてばかりのヨリノブを驚かすことができた嬉しさと、これだけ自信満々に言っておいて間違ってたら恥ずかしいという思いで煽られた、熱く持て余す感情の塊だ。
そこにはもちろん、もしもこの理屈が当たっていたらという、子供じみた願望もあった。
「ヨリノブ」
その名を呼んで、強張る笑顔をどうにか維持しながら、クルルは言った。
「もしも、もしもこの考えが正しかったら……私は、ドラステルを名乗っても許されるか?」
ヨリノブはぽかんとし、それから、うなずいた。なんどもうなずいた。
ほどなくゲラリオたちがなにか嗅ぎつけたようで、なんだなんだと寄ってくる。
クルルは、ヨリノブの袖をもう一度掴み、それからすぐに放し、手を掴み直した。
振り落とされないように。
置いていかれないように。
そして、歴史が永久に塗り替わったその瞬間を、決して忘れないように。
「間違いなく、クルルさんはドラステルですよ」
名詞なのか形容詞なのかわかりにくい使い方をしたヨリノブに、クルルは牙を見せて、不格好に笑ったのだった。




