第二百二話
***頼信(22)***
たとえばこの世界に、比熱が負となる物体がひと欠片あるとする。
それだけでこの世界は、永遠に極寒の世界になってしまう。
比熱が負の物質は、熱を与えれば与えるほど冷たくなるので、すべての熱を飲み込んでしまうから。
たとえばこの世界では円周率が超越数でないとか、ド・モルガンの法則が成立しないとなると、おそらく自分には理解しようのない、摩訶不思議な論理法則や数学的事実が乱立することとなる。
そして自分にもなじみのある物理法則や論理規則が成立するということは、関連する数えきれないほどの物理や数学や論理法則もまた、成立しているということになる。
どれかひとつでもおかしくなれば、そこに連なるすべてのことが、おかしくなってしまうからだ。
つまりこの世界で前の世界の知識を利用できているということは、魔石と魔法陣、そして魔法というものがいかにトンチキに見えようと、本当に滅茶苦茶ではないということになる。
仮に神秘的な、魔法的な要素があろうとも、それは世界を破滅させないような釣り合いを保って、上手にこの世界に割り込んでいるはずなのだ。
だが、それはなんなのだろうか?
魔法とは、火を放ち、雷を生み、風を起こして、すべてを凍りつかせるだけではない。
魔法は、人の精神に作用したり、重力みたいなものまで操ったりする。
おまけに伝説では、大精霊なるものが時間を巻き戻し、死者を蘇生し、異世界と交信までしたらしい。
そんなことを許す物理法則が、一体どこにあるのだろう?
というか魔法では作用反作用が成立していないように見えるし、多分、エネルギー保存則も同様だろう。
となれば物理学のあれやこれやが根底から崩れているとしか思えないが、今のところこの世界は安定して存在している。
それとも神がまさに全知全能で、不具合が起こるであろう無数の個所を、逐一修正しているのだろうか?
考えていくと、文字どおりに、頭を抱えてしまう。
「やっぱり、この世界には……神の御業のような不思議な力があるとしか思えません」
科学的アプローチでは到達しえない、神秘の世界。
現代文明人としていささかの敗北感をにじませていたら、ファルオーネが飄々と言った。
「ヨリノブ殿の世界のほうが、私にとっては魔法の世界だがね」
顔を上げると、錬金術師はにやりと笑う。
「特に才能のない人物でも、小さな箱を使えば簡単に火をおこせ、夏は涼しい空気を出す口を指一本で操れるのだろう? おまけに、はるか彼方に住む友人と、顔を見ながら会話ができるというではないか」
現代世界に当たり前にあるものを述べてから、ファルオーネは珍しく顔をしかめた。
「だが、驚くべきことはまだある。駄目になって止まりかけの心臓を、豚の体の中で成長させた新品の「自分の心臓」で置き換えられるという。ヨリノブ殿が私たちをからかっているのでなければ、それはこの世界の神でさえ恐れおののく、邪悪な大魔法だ」
それは魔法研究所(仮)で話している中で、興に乗って話した聞きかじりの最先端医療の話だが、確か似たようなことがすでにできていたはず。
そしてよくよく考えると、この世界の感覚で言っても、大規模魔法に匹敵する気がする。
「でも、それらはすべて種があることです。ライターは木をこすって火を熾すことの延長ですし、エアコンは空気を圧縮すると温かくなることの延長で、豚からの心臓移植は……なんかこう、色々の延長です」
ファルオーネは肩をすくめる。
「それほど奇妙なヨリノブ殿の世界でも、時間は巻き戻らず、死者は蘇らず、異界との交信はできていないのか?」
「いつかできる、と思いたくはありますが」
自分の言葉に、ファルオーネが言った。
「できないと思わせるものはなんなのだ?」
「え?」
自分はその問いに、ぴしゃりと顔を叩かれたような気がした。
「それはヨリノブ殿の世界の教義に反するからか? それとも単に、想像ができないからか?」
怒っている、と感じたのは勘違いではないだろう。
ファルオーネのような人物にとって、「わからない」は我慢の範疇でも、「できない」というのは我慢がならない言葉なのだ。
なぜなら、絶対にできないと示される事実というのは、実はすごく珍しいことに分類されるから。
有名なところでは、任意の角の三等分線や体積が二倍の立方体を、コンパスと定規だけでは絶対に描けない、などがある。
嘘つきが自分のことを嘘つきではないと宣言することを、嘘か本当かと判別する論理的な方法もない。
オタクならみんな大好きゲーデルの不完全性定理だって、おおむね嘘つきのパラドクスの凄いバージョンだ。
前の世界には、数こそ少ないが、こんなふうに絶対にできないと証明されたものがある。
だがそれは逆に言うと、絶対にできないと証明されていることは、それほどに少ないのだ。
そもそも人類の進歩の歴史とは、そんなことできないだろう、を実現してきた歴史に他ならない。
「ヨリノブ殿の世界と、我々の世界は違う。そこにはなにか原因があるはずだ。ヨリノブ殿の世界とは異なるなにかがあるのかもしれないし……あるいは」
と、ファルオーネが少し誇らしげに胸を張る。
「ヨリノブ殿の世界ですら見つけられていないなにかを、我々がすでに見つけているのやもしれない」
たとえば、魔石、とか。
自分は視線をゲラリオたちに向ける。
ファルオーネたちが魔法に関して試してみたいことと、ゲラリオたち自身が常々気になっていたことをひたすらに試して、結果を測定している。
クルルがへたり込んでいるのは、ゲラリオやヨークンたちについていけず、魔力が尽きてしまったからだろう。
そこでは、魔石と魔法というこの世界で最も目を引くことが、当たり前のように繰り広げられている。
前の世界とこちらの世界の顕著な違いといえば、魔法こそが、目下最大のものだ。
しかしそれは、物理や論理法則の埒外にあるのではないか?
ウィトゲンシュタイン大先生も、語りえぬものには沈黙せねばならないとおっしゃられている。
「ヨリノブ殿の世界も、多種多様な魔法があるだろう。魔石に該当するようなものはないのか?」
ファルオーネの問いに、自分は唸る。
「う……電気、ですかね」
「電気」
ファルオーネが顔をしかめたのは、電気の概念の説明はうまくできなかったから。
けれど、自分はその単語を繰り返す。
「電気。そうですね。電気です」
現代を支える動力の根源は電気だが、あれは物理法則に沿っているというだけで、本来恐るべき魔法的な概念だ。
なぜなら、遠く離れた場所で誰かがした「仕事」を、細い線の繋がった先で、好き勝手に取り出せるというのだから。
しかもその「仕事」は、変幻自在に形を変えられる。
現代文明は、その「仕事」という概念を生産し、分配し、コンセントから取り出して、ものすごい種類の別の「仕事」にすることで成り立っていた。
それはほぼ、魔石と魔法の関係だといえよう。
魔法も電気もプリズムに通した光のように、七色の光に枝分かれ、世界を様々な色に照らし出してくれる。
だから自分が、前の世界にあるこの世界の魔法と同等のものを探せと言われたら、電気を挙げる。
「ふうむ。となると、雷魔法を使えば、ヨリノブ殿の世界を実現できるということか?」
「ふえ?」
思わず変な声が出た。
ぽかんとファルオーネを見返してから、ようやく我に返る。
「でき……ます、ね」
なぜ自分がそんなに驚いているのか、自分でもしばらくの間、わからなかった。
産業革命を興すんだ、なんてはりきっていたし、前の世界の知識がここでも通用することを疑いもしなかったのに。
その気持ちを、ファルオーネが代弁してくれた。
「ここはヨリノブ殿の世界と、ほぼ同じように構築できるという。だというのに、ヨリノブ殿は魔法の仕組みを不可解だというのか?」
ファルオーネの指摘は、なにか妙な足場を与えてくれた。
「そうか……そう、ですね。そう。多分、なんですけど」
自分は溺れかけていた人間が水面から顔を出すように、こう言った。
「ここの世界は、前の世界よりもさらに複雑な世界なのかもしれません」
「ほう?」
「定規とコンパスだけでは描けなかった図形も、もう一つ道具があれば描けるようになりますから」
この世界は、なにかが違うのではなく、なにかが足されているのではあるまいか。
「ほほう! ではその道具がなにかを見極めればいいわけだな!」
ファルオーネは目を輝かせるのだが、水面から顔を上げた自分が見たのは、水から上がるための梯子ではない。
ただ茫洋とした、大海の海原だ。
前の世界の物理法則を概ね満足し、さらに魔法まで成立させるなにか。
その選択肢は、無限という言葉ですらなまぬるい。
文字どおりに、前の世界にとっては未知のもののはずなのだから。
そして「単純」な前の世界ですら、たくさんの科学者が、それこそ手当たり次第に外れくじを引きまくって、正解を絞り出してきた。
おまけにたどり着いたのは、物質が粒子であると同時に波でもあるというような、SF作品のプロットとして提出したならば没になるような現実だった。
おまけにどうやらそれですら、世界の根源の理解には不十分らしい。
ではその世界のさらに上をいくかもしれないこの世界の原理とは、一体なんなのか。
それは果たして、人間に把握できることなのだろうか?
「ふうむ。しかしヨリノブ殿の顔色を見るに、旗色は悪そうだ」
実験対象のモルモットを見るような目で、ファルオーネがこちらの顔を覗きこんでくる。
自分はつい、卑屈に笑ってしまう。
「魔法がない単純な前の世界ですら、その秘密の解明には、何億人分の頭脳と、何百年という時間が必要でしたから」
そして自分はただのしがないサラリーマンなのだ。
魔石を構成するものが、おそらく前の世界でいうエネルギーではないと気がついただけでも、大したものだろう。
「解明できるとしたら……この世界の優秀な人たちに、任せるほかないかな、と」
自分はそう言いつつ、その言葉の示す意味にもすぐに気がついた。
おそらく正解にたどり着くには、何百年とかかる。
もちろん、ジレーヌ領を脅かす帝国や、そこに巣食っているかもしれない悪魔を倒すための実用的な応用をするだけなら、原理の把握など不要かもしれない。
しかし教会に残されているような大規模魔法陣の解読は、力業ではおそらく無理だ。
あまりに組み合わせのパターンが多すぎて、どこか一か所でもコピーミスが起きていれば、人力では二度と正解を見つけ出せないだろう。
そこに抜け道を見出せるとすれば、原理を把握したうえでの、理論のみ。
既存のコンピュータ―では計算に膨大な時間が必要とされる巡回セールスマン問題を、アルゴリズムによって計算量を劇的に減らすことで、計算可能にするように。
こんなふうに考えていくと、地道にこの世界の文明が発展していくのを待つということは、ある種のことを諦めることでもあるとわかる。
なぜなら、仮に大精霊の魔法が存在し、異界とのやり取りが可能だとしても、それを実現する頃には、間違いなく自分たちは死んでいるから。
つまり自分や健吾が、前の世界に帰れる、あるいはせめて誰かにメッセージを送ることを実現したければ、どうにかして魔法の原理を把握しなければならないことを意味している。
異世界を繋ぐ細い蜘蛛の糸は、確かにそこにあったとしても、あまりにも遠くに垂れている。
ただ、自分はその糸に手を伸ばすことすらしないで、諦めるべきなのか?
でも、その糸を掴めるだなんて言うのは、前の世界のすべての科学者たちの上を行くということを意味している。
そんなこと――。
そう思っていた、その時だった。
「ヨリノブ殿」
ファルオーネに肩を掴まれていた。
「ヨリノブ殿にわからなければ、他の誰にわかるのだ?」
「え?」
「ヨリノブ殿は、この世界の誰よりも有利だというのに」
ファルオーネの言葉に、自分は呆気に取られていた。
だがその錬金術師の目は、明らかになにかを確信している目だった。




