(二)
平岡秀司がその日、N市郊外にある自宅アパートに帰宅したのは、朝の六時過ぎだった。
オフにしてあったスマホの電源を入れた。友人の寺崎祐司からSNSで連絡が入っている。
《国家試験も終わったことだし暇だろう? 昼飯でも食べにいかない?》
秀司は疲れていたが、誘いに乗ることにした。いつも明るい寺崎と話をすれば、気がまぎれると思ったからだ。
《いいよ。じゃあ、十二時半にオルフェで》と、M大学近くの喫茶店を指定した。
「ところで、秀司、試験の手ごたえはどうだった? まあ、M大医学部の医師国家試験合格率は、全国でもトップスリーに入るし、同期で一番優秀な秀司が通らないことはないと思うけど」
「通ったよ。間違いない」
「相変わらず自信満々だな。まあいいや。終わったことだしな。三月十八日には結果が出るし。でもさぁ、本当に秀司は偉いよ。これまでかかった学費だって、全部自分で稼いで払ったんだろう? 医学部といえば、大学内で最も勉強が忙しいのに、よくバイトしながら勉強が続いたよな。しかもお前のバイトは建築現場での超重労働だし。すごいよ。俺なんか開業医の息子で、苦労知らずで、頼めば親がどんどん金を送ってくれて。申し訳ないと思うよ」
寺崎は真顔でそう言った。
「そんな風に思う必要はないって。重労働だって慣れてしまえばなんということはないよ。医者でうまくいかなくても、建築現場の仕事でも食っていける自信がついたよ。なーんて言うのは、冗談だけどね。いずれにしろ、どういう家庭に生まれるかっていうのは、巡り合わせなんだよ」
秀司はそう言いながら、窓の外の遠い冬空を見やった。
秀司の記憶の中で最も古いものは、どこかの店内でソファの間を走り回っている自分だ。たくさんの、きれいに着飾った女性が、
「秀ちゃん、だめよ、走り回っては。転んで怪我をするわよ」
「あとで、ママに叱られるわよ」
などと、秀司を微笑みながら、たしなめている光景。今でもそれが目に浮かぶ。
秀司の母親は、N市の歓楽街でクラブ勤めをしていた。この記憶も、どこかのクラブで、営業が始まる前に遊んでいた時のものだろう。
営業中はクラブの上階にある一室で、ホステスの子供を預かってくれていた。秀司もそこで、閉店まで過ごした。毎夜半、《秀ちゃん、起きなさい、帰るわよ》と母親に起こされ、抱きかかえられながら帰宅するのが常だった。
幼少のころの記憶といえば、どれも劣悪なものばかりだ。特に、あの忌まわしい男、杉谷正吉の記憶。正吉は、秀司の母親のいわばヒモだった。彼女にお金をたかっては、ギャンブルにいそしんでいた。この男は、ことあるごとに秀司に暴力を振るった。
「お願い、正さん、秀司に暴力を振るわないで!」
「あいつの俺を見る目つきが気に入らねえんだ! しかも、俺の気にしている頬の傷ばっかりじっと見やがって。あんな奴、お前の実家にでも預けてきな!」
「実家からは、勘当扱いにされているの。今更のこのこ帰ることはできないわ」
「じゃあ、どこか児童相談所にでも置いてこいよ!」
「秀ちゃん、おじさんに叩かれるから、みゆきちゃんのところへ行こうね。おじさんの機嫌が直ったら、お母さんが迎えに行くから」
そうは言うものの、母親が迎えに来たためしはなかった。いつもみゆきの母親が秀司の手を引いて、送り届けるのだった。
「ちょっとあんた、いつまであんな男といっしょにいるの。おせっかいだとは思うけど、早く別れなさいよ。私も男じゃ散々苦労したからねえ。ああいう男の性根は、一生変わらないんだから。秀ちゃんだって、あんな男と一緒じゃ可哀想じゃないの。それに、いつも私のところで、秀ちゃんの面倒を見る訳にはいかないよ」
「ごめんなさい。いつもご迷惑をお掛けしてしまって。時機を見て彼とは別れるつもりです。もうちょっとの間、助けていただくと・・・」
「秀ちゃん、おじさんに逆らっちゃだめよ。また、叩かれるから。そいじゃおばさん、帰るね」
秀司の母親は、その後も正吉と別れることはなかった。彼女は異常なほど男に対する依存心が強かったからだ。正吉は彼女の依存心の強さを見抜いていた。《こいつは、俺から離れることはできない》と絶対的な自信を持っていた。そこがヒモになるような男特有の、狡猾さであったろう。たまにやさしい言葉の一つもかけてやると、目に涙をためる。いつも愛想をつかされそうになると、この手を使った。効果はてき面だった。
正吉の秀司に対する虐待は、日増しに激しくなった。ある日、テーブルに置いてあったサングラスを、正吉が誤ってフローリングに落下させた。レンズにひびが入った。たまたま近くにいた秀司に向かって、
「お前、俺の大事なサングラスを割ったな!」
言うなり、秀司を蹴った。
「僕じゃないよ、おじちゃんが自分でやったんだよ」
「うるせえ! このガキ、お前がやったんだよ!」
更に秀司の背中を拳で殴った。しかも、あろうことか自分の吸っていたタバコを、秀司の首に押し付けた。
「ぎゃっ」
声とも悲鳴とも判別がつかない音が、秀司の口から漏れた。異変に気付いた母親が、
「正さん‼ あなた! なんてことをするの‼」
彼女は言いながら、秀司の頭を両腕で抱え込んだ。正吉は、
「ちぇっ、ガキが! 俺のサングラスを割るからいけねえんだよ!」
そう言って外に出て行ってしまった。幼い秀司は母親に火傷の手当てをしてもらいながら、しばしの間泣きじゃくった。
体中あざだらけになった秀司を見るにあたり、みゆきの母親は秀司を児童養護施設に連れて行った。彼女の独断だった。秀司の母親にその旨を告げると、《正吉が警察から事情聴取を受けることにならないか》と心配した。ここに至って、みゆきの母親は、このどうしようもない女を見限った。
秀司はこの児童養護施設で五歳から高校卒業の十八歳までを過ごした。施設にあずけられた頃から、彼はいつも一人でいた。他の子供たちに交わろうとはしなかった。そうかといって、いじめの対象になったという訳ではない。逆に、自分より年上の子供に対しても、言い負かすことが多かった。それだけではない。大人でさえ秀司の弁にかなわないことがあった。
ある時、同じ施設の女の子が、お小遣いをもらい、近くのコンビニにお菓子を買いに行った。その女の子は、二十分もすると、泣きながら帰ってきた。
秀司がその子に事情を聴くと、店主に返してもらったおつりが少なかったらしい。それを店主に言うと、
「冗談じゃない。ちゃんと返したよ。よく確かめてごらん。だから、施設の子は困るんだよ。しつけがされていないんだから」
と逆切れされたと言う。
秀司は、女の子が持って行ったお小遣い、レシート、残金を確認した。どうも店主の言が正しいようだ。しかし、秀司はコンビニに行って少ないとされたおつりだけでなく、支払った金額を全て取り返した。
コンビニで店主に、《施設の子供だってしっかりしつけはされている。されていないというのは偏見だ。前言を撤回してほしい》という趣旨の主張をした。それも大きな声で。店内にいた客がこれを聞かないはずがない。店主は大いに困惑した。
「わかったから。レシートをみせてごらん。もらったお金は返すよ。だからとっとと帰ってくれ」と小声で懇願した。妙に大人びたところのある子供だった。
小学校に通い出す頃になると、他の子供たちとの学力の違いが際立ってきた。小学校二年で受けた知能検査で、ずば抜けた成績を修めた。知能指数は他のどの生徒をも凌駕した。小学校の関係者は、秀司が児童養護施設から通っていることを知り、二度驚いた。小学校の教師も養護施設の職員もそれ以来、急に秀司への接し方を変えた。秀司は子供ながらに、自分の能力の非凡さを知った。




