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苦手な方はご注意ください。

先輩のおへそ

作者: でもん

1.


 目の前には染み一つ無い綺麗な肌色。

 毛穴はどこにあるのかというくらいのきめ細かさと、そこに薄らと浮かぶ汗。

 引き締まった薄い腹部の中央に、ちょこんと可愛らしい窪み。

 その見覚えのある光景に、僕は誰のおへそを凝視していたのを気が付いた。


「先輩ですね」

「ケイ君?」

 

 頭上から聞こえる声は、我が社の若手ナンバーワンパイロット、僕の同僚で今や敬愛以上の感情に満ち溢れてしまっている先輩だ。どういう経緯でこんな幸せな状況に陥っているのかは理解できていないが、僕はどうやら先輩の太股の上に、左頬を下にした状態で頭を載せ、じっとおへそを鑑賞できる権利をゲットしているらしい。

 

「その位置から私だと解った理由は聞きたくないけど、とりあえず正解よ」

「やっぱり」

 

 僕が先輩のおへそを間違うなどあり得ない話だ。

 だが、問題はなぜこんな状況になっているかというところだろう。

 心当たりは全くないがお礼は言っておくべきだ。

 

「ごちそうさまです」

「ケイ君が何をいただいたのかは知りたくないけど、緊急事態よ」

「そうでしょうね」

 

 こんな幸せな状況は、まさに緊急自体と言うしかないだろう。

 

「動ける?」

「動きたくありません」

「冗談は抜いて」

「はい、すみません……正直、ピクリとも身体が動きません」

 

 さすがにお巫山戯(ふざけ)はここまで。

 僕の願望は抜きにしても僕の身体……正確には首から下がピクリとも反応をしていないことには最初から気が付いていた。これでは、この先の桃色展開は期待できそうにないな。


「何があったんです?」

「視線は動かせる?」

「はい」

 

 僕は横目で先輩の顔を見上げるように視線を動かした。おへそから胸にかけて露出している先輩の肌。それは残念なことに胸の膨らみが始まった所で終わっている。その先は見慣れた我が社の制服だ。


 なぜ先輩はおへそから下乳まで素肌を露出しているかと言うと――


「事故ですか?」

「多分」

「そうですか」

 

 先輩の左腕は肘のすぐ下で綺麗に切断されていた。

 右脇腹にも大きな傷跡がある。どうやらおへそ周りの制服ごと何かが先輩を斬り裂いたらしい。

 

「出血は?」

「ほとんど無かったわ。ナノちゃんのおかげね」

 

 僕らパイロットには医療用ナノマシンが数億単位で注入されており、病気の予防、緊急止血、さらには欠損部位の再生などを受け持つ。

 人類の叡智に感謝だ。

 

「それで僕の方は?」

「昆虫の標本ね。腰に鉄骨が刺さっているわ」

「麻痺はそのせいですか?」

「上半身が動かないのは、ナノマシンの麻酔が効いているだけだと思う」


 そうですか。

 ところで下半身は?

 ちょっと怖くて聞けない。

 

 とはいえ脳に回復不能なダメージでも受けない限り、僕らは寿命まで死なせてもらえない。パイロット育成費用を回収するためという経済的な事情と医学の進歩のコラボレーションの賜物だ。

 脊髄損傷による麻痺でも、我々パイロットならナノマシンとリハビリで回復できる。

 

「先輩は動けます?」

「物理的に拘束されてしまったわ」

「僕が邪魔ならどかしてください」

「違うの。どうやらセーフティベルトの開放機構が壊れたみたい。今ならケイ君に襲われても右手と足で、辛うじて抵抗できるだけ……瞬殺するけど」


 知っています。若手ナンバーワンは操縦技術だけの話じゃないですからね。

 勿論、同意なしで襲ったりしませんが。

 

 いずれにしてもこの状況は乗り越えないとならない。

 

「AI?」

 

 僕は操船やコックピット環境を管理するAIに先輩のベルトを開放するよう呼びかけたが――

 

「AIもダウンしたみたい。反応は無いわ。コンソロールを見る限り自己修復が動いているけど復旧時間は未定ね」

「そりゃ、お手上げですね」

 

 こうなってしまっては、もうできることは何も無い。ここからは先輩のおへそ鑑賞タイムだ。そのうち助けもくるだろう。

 

「ケイ君、落ちついて聞いて」

「落ちついていますが、先輩のおへそを見ているので、ちょっとモヤモヤしています」

「そう。ならゆっくり見ていてもいいわ。それでも聞いて欲しいの」

「はい」

「目下、わたし達は地球へ落下中」

「そうですか……って、それは大変だ! 痛い!」

 

 先輩の衝撃の告白に僕は慌てて身体を起こそうとして悲鳴を上げた。ナノマシンによる麻酔の効果で、むりやり動かそうとすると激痛が走る。絶対安静モードというやつだ。


「無理しないで」

「……しません」

「機体の方は無理して欲しいわ」

「そうですね」

「ということで機体がアンコントローラブル。船長権限により緊急事態を宣言。規定により緊急マニュアルモードに切り換えます」

「副船長権限でも緊急事態を宣言をします。ダブルコールにより緊急事態は成立しました。緊急マニュアルモードでいきましょう」


 僕らが搭乗している貨物機は月面上のステーションから地球周回軌道上にある軌道エレベーターまでの物資宅配業用だ。操縦は基本的に人工知能による自動操縦統合機構、通称AIが担当し、船長兼操縦士と副船長兼運航士の2名体制で機体の状況をモニターする。もちろん厳しい訓練を積んできたパイロットであるので、僕らはどちらであってもマニュアル操縦が可能である。

 そして先輩は我が社における若手ナンバーワンのパイロットなのだ。

 

 それでも実務において操縦する状況に陥るなど聞いたことがない。

 基本的に三重に安全機構が備えられているし、安全機構が働かないような状態というのは通常、コックピットの致命的破壊を伴う事故のため、操縦する人は残っていない。


「緊急マニュアルモードへ移行。モードチェンジ」

「モードチェンジ。AI反応なし。リトライを実行してください」


 先輩の声を復唱するが、AIの反応は相変わらずない。 

 それでも規定どおり、再実行を試みる。

 

「緊急マニュアルモードへ移行。モードチェンジ」

「モードチェンジ。AI反応なし。リトライを実行してください」

「緊急マニュアルモードへ移行。モードチェンジ」

「モードチェンジ。AI反応なし。3回の実行に失敗しました」

「ケイ君、切り替えレバーによる緊急マニュアルモードへの移行を行います」

「了解です」

「……切替レバーを倒せる?」

「無理ですね、先輩は?」

「文字通り腕が無い」

「確かに!」

 

 僕は先輩の失われた左腕を見つめる。

 いくらナノマシンが欠損部位を補うからといっても四肢欠損なら数ヶ月から年単位はかかる話だ。

 

「右腕は?」

「届かないわ」

 

 非常用の操縦系統切替レバーは機長席と僕が座っていた運航助手席の間のコンソールにある。ちょうど先輩が身体を少し斜めに倒し左腕を伸ばせば届く位置に――

 

「僕のことは気にせず、手を伸ばしちゃってください」

 

 シートベルトに加えて先輩を邪魔しているのが僕の身体だ。僕の身体を押し出せば先輩の身体は多少自由になる。僕の傷が拡がることを気にしてくれたのだろう。だが、そんなことを言えるような状況ではないのだ。

 

「やってみた」

「やったんですか!」

「傷がかなり拡がったけど、無理だった」

「傷つきますよ」

「文字通りね」

 

 実行済なら、今の(くだり)は必要だったのだろうか。

 

「そもそも何が起こったんです?」

「多分デブリ。航宙管制の見落としだと思う。レーダーにも反応はなかった」

「そんなことって現実にあるんですか?」

「ステルス性をもったデブリの存在は稀少ながらも確認されている。確率的にはゼロじゃない。運が悪かった」

「そんな……」

「ケイ君が」

「僕がですか!」


 宇宙空間には無数のデブリが飛んでいるが、月面ステーション、軌道エレベーター、そして宇宙空間を航行している全ての機体が相互に情報を連携し、膨大なデブリデータベースを構築、自動管制機構により衝突の可能性を事前に察知し回避しているのだ。衝突事故が起こる確率は限りなくゼロに近い。

 

 希少性の高いデブリと衝突するなど、どんな日頃の行いが原因なのだろうか。


 絶望的な状況に僕は横目で先輩を見上げた。胸があまり邪魔にならないので整った綺麗な顔がよく見える。先輩は何かを堪えるように眉間に皺を寄せて目を閉じていた。

 

「先輩?」

「ケイ君。落ちついて聞いて欲しい。本機は目下、地球に向かって墜落中」

「さっきも聞きました」

「人生最期の瞬間を私はあなたと一緒で後悔しないか悩んでいるの」


2.


 計器の鈍い音だけが響く。

 とりあえず今の話は聞かなかったことに――



「あと時間はどのくらいありますか?」

「多分30分くらい」

「そうですか」

「その30分をケイ君と過ごすことに……」

「その話はいいですから! 泣きますよ、そろそろ」

 

 そんなことを言いつつも、先輩は僕の頭を優しく撫でてくれた。僕は少し恥ずかしくなり、

 

「大丈夫ですから。まだ助かる方法があるはずです」

 

 と、強がってみた。


「諦めないのね。しつこい男は嫌いだわ」

「しつこいのが僕の売りですから」

「ストーカー?」

「ぐっ」


 確かに先輩のことをいつも目で追っていたし、目一杯のアピールはしてきたけど、そんな言い方をしなくてもいいじゃないですか。


「30分……」

 

 先輩が大きく溜息をついた。

 

「イヤなんですか!」

「長いわ」

 

 確かに宇宙空間での墜落は、地表のように短い時間での話ではない。周回軌道上で徐々に高度を下げながら大気圏に突入するのだ。

 

「角度はどうなっています?」

「計器が正常なら最終的には、ほぼ垂直に落ちるはず」

「すぐに燃え尽きますね」

「ええ」

「困りましたね」

「そうね」


 我々がのっている機体は、宇宙空間を航行するためだけに作られた宇宙船であり、当然、大気圏に突入する運用は想定していない。だが、万が一を考えコックピットそのものが脱出ポッドとなる安心設計だ。例えば、今回のような事故でコックピット内が多少破壊されていても、その外殻を包むような風船構造の保護膜が自動的に生成され気密を維持したまま地表におりることができる。まぁ、設計者もこういう状態でコックピット内に生存者がいるというのは想定外だったのだろうけど。


 だが、その安心設計も突入時に燃え尽きなければの話だ。

 大気圏突入のスピードと角度、これが少し変わっただけで大気圏にぶつかった際に発生する断熱圧縮により機体は耐えられないレベルの高温に包まれる。保護膜と外殻が燃え尽きれば中の人間など一瞬で蒸発してしまうだろう。


 大気圏に垂直に突入するというのであれば、事態は絶望的だ。


「回避手段は何があると思う?」


 まるでOJTのように先輩は僕に問いかける。


「逆噴射。前方斜め方向へ数秒間逆噴射をして機体の速度と角度を調整すればいいはず」「正解、さすが優秀な後輩だわ」

「はい、先輩と一緒にアサインされるくらいは優秀な自覚がありますよ。しかし、計算はできますか?」

「AIの支援がないから、いつ、どのくらい噴射すればいいのか解らない」

「ですよね……」


 AIが死んだ。

 マニュアルへの切り替えができない。

 噴射時間が解らない。


「死にますかね」

「多分……」

「結婚してください」

「まだ早い」

 

 このまま死ぬくらいだったらと思ったプロポーズだったが「まだ」だそうだ。これは脈があるかも!

 

「もう少し後ならOKですか?」

「40分後なら」

「死んだ後ですね」

「死が二人を分かつまでは別々で過ごしましょう」

 

 脈は無かった。

 

「それならタイミングと噴射秒数を計算して助かりましょう」

 

 意地でも40分後を迎えてやる。

 

 周回軌道上で地球の周りをグルグルまわっているのだ。

 突入角度と速度を調整できれば後は何とかなる。

 速度を落としすぎたら地球の重力に対し垂直方向に引き込まれ蒸発。

 速度を上げすぎて角度が浅くなれば大気圏に跳ね返され、永遠に宇宙の闇に吸い込まれてる羽目に。


「できる?」

「なかなかハードですが、やりましょう。諦めないがモットーのスペース運輸㈱ですよ!」

「そうね」

「助かったら結婚してくれますか?」

「余計なフラグは立てない」

 

 死亡フラグは都市伝説ですよ、先輩。

 

「独身のままでは死ねませんから」

「私は死ななければ独身のままでもいいけどね」

「ちっ! なら、今すぐ結婚しましょう」

「嫌」

「そんな! もう先輩のおへそを見ちゃったんですよ。是非、僕に責任を取らせてください」

「別の形で責任を取って」

「別の形?」

「二人で生き残って、お互いのリハビリに付き合う」


 なるほど。

 それは良い未来だ。

 下半身がどうなっているか解らないけど、リハビリにはそれなりの期間が必要だろう。


「それでいきましょう」

「ええ。まだ諦めない」


『機長、自己修復モード完了、システムリブート、3秒後……再起動する』


 女性の声を模したAIが突然動き出し、コックピット内の全ての照明が落ちた。


3.


 闇の中に包まれたコックピット内に二人の浅い息づかいだけが響く。僕の頭を再び優しく撫でる感触。

 

「ケイ君、助かるかも」


 先輩の言葉に呼応するかのようにコックピット内の照明が戻った。


『再起動、終了。ステータスチェック。完了。現在地チェック、完了。第一種アラート発令。緊急回避を実行――失敗。リトライ……失敗。リトライ……失敗。規定回数の失敗を確認。本機は地球へ落下します。直ちにマニュアルモードへの移行を進言します』

 

「AI、コックピット内破損のためマニュアルモードへの変更ができない」

 

『非常事態宣言をしますか?』

 

「非常事態を宣言する」


『副船長?』


「非常事態を宣言する」


『ダブルコールによる非常事態宣言を受領しました。全チャネルに非常事態宣言を通達。人命優先アルゴリズムにより軌道の計算します……完了。本機の脱出モードへ切り換えを進言します』


「許可する。直ちに実行して」


『コックピット切り離し……失敗。リトライ……失敗……リトライ……失敗。規定回数の失敗を確認しましたので、本機は切り離しをせずに突入を行うことを進言します』


「許可する。逆噴射のタイミングと時間を制御できる?」


『テスト試行実施……失敗。リトライ……失敗……リトライ……失敗。規定回数の失敗を確認しました。緊急逆噴射のマニュアル実行を進言します』


「許可する」

 

 先輩がテキパキとAIとやりとりをした。

 

「ケイ君、聞いての通り。マニュアルで逆噴射を試みる」

「助かりそうですね」

「そうね」

 

『計算終了。姿勢制御用バーニヤを16分21秒後に4秒間、下方へ噴射、さらに13秒後に同方向へ2秒噴射。噴射タイミング、噴射時間ともに誤差は5%まで許容可能』 

「了解した、逆噴射はどのコンソールに割り当てた?」

 

『操縦コンソールの反応がありません。緊急マニュアルモードへの移行は完了しましたので、導通が確認できた操縦系統切替レバーへ逆噴射制御を割り当てました』

 

「駄目! 操縦系切替レバーではなく私の右側コンソールを使いなさい……AI? AI?」


 返事は無い。

 再び沈黙がコックピットを包む。そして響く無情な宣告。

 

『音声認識ができません……音声認識モジュールの再起動……失敗……再起動……失敗……再起動……失敗。規定により音声認識モジュールを切り離します。自己判断によりカウントダウンを開始します。機長、幸運を祈ります』

 

「そんな」

「先輩! 大丈夫です。AIのカウントダウンがあれば、あとは逆噴射をするだけじゃないですか」

「……そうね。ごめん、少し焦っていたみたい」

 

 マニュアルでコンマ何秒の制御をするのは難しいが、僕も含めパイロットは体内時間を秒単位で正確に合わせる訓練を積んでいるのだ。

 

「それに僕がいます!」

「そうね」

 

 先輩の声がどこか遠くなった。死にたくなるのでもう少し優しくしてください。

 その時、ピシャリと音がする。

 どうやら残った右手で頬を叩いたようだ。

 

「後輩に慰められるとは情けないわ。やるだけやってみる」

「それでこそ愛しの先輩です」

「馬鹿」

 

 軽く頭を叩かれた。

 

「操縦系切替レバー……じゃなかった、逆噴射レバーを触ることはできないんですよね」

「私の位置からは届かない」

「僕が動くしかないですね」

「動けるの?」

「まだ動けませんね……きっと先輩の膝枕が気持ち良すぎるのが原因です」

「魅力的な太モモの勝利ね」

「今回は勝っちゃ駄目ですよ。それに可愛らしいおへそも攻撃力が高いです」

「自分でも仕上がっていると思う」

「ダイエットも頑張っていましたし」

「なぜ知っているの!」

 

 先輩が昼食をもう一口食べようとしては我慢していたのを横目で見ていたのは内緒です。

 

「でも、そのおかげでこんな素晴らしい光景が見られたんですからダイエット大成功ですよ」

「そういうことにしておく」

「ついでなんで、その素晴らしいおへそ、舐めてみていいですか?」

「……話の展開が見えない。私はいつ桃色展開のフラグを立てたの?」

「麻痺を解除するついでに、ほんのすこしくらい堪能をしてみようかと」


 僕に言葉を先輩も理解してくれたみたいだ。

 

「届く?」

 

 ナノマシンが怪我の痛みをブロックするために発生している首から下の麻痺。それを強引に動かすことは命の危険を伴うため、ナノマシンが痛覚を刺激する神経信号を送る。これが激痛の原因。だが、この激痛が一定レベルを超えると、痛み自体が命の危険となるため、ナノマシンはその信号を止めるのだ。

 

「努力と根性がモットーのスペース運輸㈱ですし、ご褒美次第で頑張れます」

「一生懸命育てた後輩の命がけの努力がこんなこととは……」

「エロは世界を救いますしね」


 冗談を言いながらも僕は先輩のおへそに必死に舌を伸ばす。ナノマシンから送られる痛覚のパルスで神経が悲鳴を上げる。だがその痛みを無視し、強引に首を前に出そうと動かす。

  

「いいわ」

「ふぁい」

「ほんの数センチ。頑張りなさい」

 

 愛しい先輩の可愛らしいおへそ。

 先人達は言った。

 そこにへそがあるから、舐めるのだと!


 口からダラダラとヨダレがこぼれるのも構わず僕は必死に舌を伸ばす。

 あと4センチ……3センチ……2センチ……

 

「動いている」

「ふぃけぇぇぇぇぇ!」


 ペタ……

 

「ひゃっ」

 

 先輩の可愛い声。そして僕の舌先にほんの少しだけ感じられる薄い塩味。

 

「届いた……」

「届いたわね」

 

 僕は少し首を動かし先輩を見つめた。強引な動きに呼応したナノマシンが痛覚への刺激を止めた。上半身の麻痺がわずかだが薄れていく。

 

「なんとか首と右腕は動かせそうです」

「本当にエロは世界を救いそうね」

 

 先輩の顔に笑みが拡がった。


4.


 身体の下に入っている左腕は諦め、僕は右腕を少しずつ動かし、先輩の腰を抱いてみた。


「先輩の肌、すべすべして気持ちいいですね」

「……」

「すみません、調子に乗りました」

 

 いかん、見下ろす目がマジだ。


「先輩、僕を押し出せますか?」

「どういうこと?」

「僕の上半身を押して身体を反らすことができれば、僕の右腕でレバーを動かせると思います」

「死ぬわよ?」

 

 僕の腰に深く刺さっている鉄骨。ナノマシンがなければ致命傷だったのだろう。そのため、強引に僕を前に押し出すということが先輩にはできなかったのだ。

 

「死なない程度に押してみて下さい。どうせ痛覚は遮断されているので多少のことなら平気です」

 

 ナノマシンによる麻痺が弱まったことにより、実際には腰に痛みを感じていたのだがそれは無視すると決めた。このまま燃え尽きて死ぬよりはマシだろう。

 

「失血死は……まだしないはずです」

「わかったわ」


『残り7分』


 AIのカウントダウンが進む。


「先輩、ゆっくり急いで始めましょう」

 

 AIが宣告するラストチャンスまでの時間。

 

「いくわ」 

「はい……っ……ぐっ」

 

 全身を貫くような痛みが走った。いや、実際に鉄骨が貫いているのだが――


「大丈夫? 痛い?」

 

 痛い!

 その叫びは気合いでねじ伏せた。

 やがて突き刺さった部材を中心に僕の身体が先輩の膝の方へ押し出されたが――


「ここまでね……もう無理。さすがにこれ以上は私の精神が耐えられない」


 僕のこめかみが先輩の膝にあたるくらいまで押し出されたところで先輩は僕を押す手を離した。

 

「どうなっています?」

「千切れそう」

「上と下が?」

「ええ、具体的には三角形の形をした鉄骨が突き刺さったまま身体を動かしたので、ちょっとずつ傷が大きく拡がっていて、あと少しで千切れるわ。拡がった穴をそのままにしてナノちゃんが出欠を塞ぐもんだから……しばらくハンバーグは食べたくないわね」

「大好物だったのに……」

「いつか作ってあげるわ」


 喜んでいいのか。

 でも、いつかは期待したい。

 

「来月の5日でお願いします」

「その、『いつか』ではないわ」


 傷口を大きく拡げたことにより、ナノマシンが上半身の麻痺を強化したようだ。

 それでも動いた分、レバーへ届く可能性が増えた。

  

「それじゃあ、やってみてもらえますか?」

「そうね……」

 

 先輩が僕の右腕をもってレバーの方へ誘導しようとする。シートベルトに押さえつけられながらほんの少し前に倒した先輩の決して豊かとは言えないが、しっかりとした柔らかい感触が僕の頭に伝わる。

 

「ありがとうございます」

「え、ええ? 何が?」

「何も聞かずに感謝の気持ちを受け取って下さい。これで僕には思い残すことは何もありません」

「無事帰還できた暁にはハラスメント窓口に通報するわ」

「先輩に押しつけられましたと僕は主張するつもりです」

「……そう、どうせならもう少し押しつけることにする」

「痛い、先輩、肋骨が当たって痛いです」

 

 不意に先輩の身体が離れ、一発殴られた。

 

「失礼な。美乳として評判がいい私の胸なのに」

「誰かに見せたのですか? 嫉妬で気が狂いそうなんですけど……」

「この状況で溢れる想いをぶつけてくるのはやめなさい。妹が慰めてくれただけよ」

「ああ、妹さんですか。先輩に似ずグラマラスな」

 

 また殴られた。

 

「やっぱりあなたもキョヌー教の信者なのね」

「僕は先輩一筋です」

「……知ってる」


 そう言って先輩はどこか遠くを見つめた。

 そうか――


「届かないんですね」

「無理ね」

「僕をもっと押し出しても?」

「千切れるわ」

「……構いませんよ」

 

 下半身が千切れた場合でもナノマシンは頑張ってくれるのかな。

 

「さすがにナノちゃんでも、もう無理よ。もう止血が追いつかなくなってきた。本当にあと少しなのに」

 

 体内にあるナノマシンも万能ではあるが有限だ。

 出血による流出もある。

 止血が追いつかないという事は、そういうことなんだろう。

 

 先輩が深く溜息を吐いた。

 

「でも仕方無いわ……可愛い後輩と最後まで一緒だったし。それなりに悪くない人生だったと考えて来世に期待するわ」

「来世でも一緒だといいですね」

「神様……どうか聞き分けがよく素直な後輩でお願いします」

 

 先輩はそう言って、本当に楽しそうに笑った。


『残り3分』


「長いわね。良い感じにまとまったのにダレてしまうわ」

「ちなみにその後10分ほどは爆散しませんよ」

 

 地球の重力の影響が大きくない場所で逆噴射を行い突入角度を制御するわけなのだから、成功しても失敗しても大気圏突入までは10分程ある。

 

「ラストシーンのあとの後日談がダラダラしているドラマよりも、ちょうど良い余韻で終わらせて後は視聴者の心の中で……というスタイルがいい」

「僕としてはラスト1分で大逆転みたいな展開の方が好きですけどね」


 そう、だからもう少し粘ってみるか。

 待っているのは先輩とのハッピーエンド。

 

「それで後何センチでした?」

「5センチくらい」


 そうか。

届かないか。今のままでは、このわずかな距離は埋められない。これ以上、傷を拡げて出血したら僕は失血死。ならば――


「折りましょう」

「何を?」

「……」

 

 僕の視線で先輩の目に理解の色が見えた。

 さすがに若手トップと言われるパイロットだ。決断したら早い。

 先輩は残っている右腕で、もう一度、僕の右腕を持ち上げた。

 

「一気に折る」

「脱臼させる感じで。関節から外せば数センチは伸びるはずです!」

 

 中途半端な位置で折ってしまうと長さが足りない

 先ほど腰の鉄骨に気を遣って僕をゆっくり押し出していた時とは比較にならない力で、先輩は僕の右腕を持ち上げ、稼働しない方向へ押し出した。ナノマシンの補助が入ったのか、先輩の腕の筋肉が膨張する。それは可愛くないので見なかったことにしよう。

 

「そのまま!」

 

 麻痺のおかげで痛みは無い。

 太いゴムが切れるような筋肉の破断音、続いて骨の折れる鈍い音がコックピット内に響き――


「折れたわ」

「……はい。初めての二人の共同作業ですね。これで僕も男になりました」

「できればケーキ入刀まで取っておきたかったのに」

「一緒にやってくれるんですか?」

「検討だけしてみる」

 

 それは文字通り骨を折った甲斐があったというものだ。

 

「ただ、骨折り損のくたびれもうけという言葉もあるわ」

「それは嫌だなぁ……届きます?」

「拳を握れる?」

「無理ですね。麻痺したままです」

「そうなると届いても逆噴射ボタンをうまく押し続けられるかが微妙かな」

「まぁ、やってみましょう。ダメだったら最後の10分間、先輩のおへそと胸の感触を堪能させてください」

「絶対成功させるわ!」

「あれ? ケーキ入刀は……」

「初めては綺麗な海辺か、地球の見える月面の高級ホテルって決めているの」

「それじゃあ……絶対成功させましょう」


『残り30秒、29、28、27……』


 残り27秒で唐突にAIのカウントダウンが止まった。

 

「AI?」

「大丈夫です! 続けます。24、23」

 

 先輩の悲痛な叫びに覆い被せるように僕は声を出した。どんな状況にも備える。それが、スペース運輸㈱の社是だ。


「ケイ君……任せた!」

「任せてください」

「信じる!」

「はい!」

「失敗したら、呪う!」

「もう黙って下さい。解らなくなります!」


 僕は目を閉じ、身体に染みこませた秒の感覚を頼りにカウントダウンを続ける。


「10」

「9」


 先輩が僕の右腕を持ち上げ、


「8」

「7」


 先輩が少しでも僕を押し出すように身体を前に倒す。

 再び柔らかい感触が僕の頭に触る。


「6」

「5」

「4」


 先輩が僕の右腕の、


「3」


 位置を調整し、


「2」


 思い切って、


「1」


 逆噴射レバーに押しつけた。前方へ飛ばされるようなGがかかる。シートベルトに押さえられている先輩は少しでも僕を守るように胸を押しつけてきた。逆噴射は4秒。先輩と僕の声が重なる。

  

「1、2、3、4」


 すかさず先輩がレバーから僕の腕を持ち上げた。


「次は31秒後!」


 先輩の声に僕はカウントダウンを再開する


「12、11……」


5.


「成功した?」

「どうでしょう」


 AIが死んでしまっては、逆噴射が成功したのか、失敗をしたのかすら解らない。残念なエピローグだ。それでも――


「成功していると思いますよ」

「そうね。物語はハッピーエンドがいいわ」

「ですよね」


 成功したかどうかはどうせ10分後には解る。


「先輩、好きです」

「生き残るから今は聞きたくない」

「結婚してください」

「フラグは立てないで! ケイ君も死なない。私達は、やれるだけのことはやった。最後まで諦めたりしないの」

「僕もですよ。でも……ここまでしてしまったので責任を取らないと」

「ここまで?」

「先輩の身体が押しつけられたタイミングで、ちょっとだけ上を向いてしまいました。先輩の美乳、堪能させていただきました」


 殴られた。


「責任……とりなさいよ」

「任せて下さい」

「馬鹿」


 先輩が僕の頭に顔を寄せる。


「先輩?」

「しばらく……このままで」

「はい」


 先輩が僕の後頭部に優しくキスをした。僕は首を動かし先輩を見上げる。

 先輩は徐々に唇をずらし僕の――


「届かないわね」

「もう少し何とかなりませんか?」

「締まらないわ」

「こんな人生のエンディングは嫌ですね……まるでコメディだ」


 せっかく気分が盛り上がったのに、僕を押さえつける天井の部材と先輩を拘束しているシートベルトが無情にも僕らの行く先に立ちはだかる。先輩は頭を上げ僕の背骨辺りを見つめた。


「完全に折れば届くかしら……あるいは千切るか……」

「どこをですか! もうナノちゃんは足りなくなっているんですよね。死んじゃいますよ、僕が」

「ちっ」

「舌を打ちましたね? 僕、何を血迷ってプロポーズまでしたんだろう」

「返品不可よ」

「返品はしませんけどね」

「生き残るわ」

「そうですね」

「生き残って続きをするわよ。その先も、もっと先も……」

「興奮して鼻血が出そうです」

「それ以上出血したら死ぬわよ」

「鼻血くらいで?」

 

 それは相当やばい。

 

「私を残して死んだら呪う」

 

 あれ、デレてくれたと思ったら雲行きがおかしいぞ。

 

「そうね、私は重いのよ」

「だからダイエットを?」

「私は重いの」

「……はい。頑張って受け止めます」

「もう離れない」

「はい。僕も離しません」


 やっと先輩の心を掴んだことを確信できたのだ。離すわけなどない。

 

「……それにして10分は意外と長いわね」

「そうですね」

「やっぱりラストシーンが無駄に長いのは好みじゃない」

「演出に文句をいいましょう!」


 先輩は僕の髪を優しく撫で再び顔を寄せてきた。


「折らないで下さいね」

「折らない」

「千切るのも無しですよ」

「千切らない」


 そう言って再び僕の後頭部に優しくキスをした。


「ケイ君、実は好きなの。結構前から」


 耳朶を打つ甘美な言葉。


「薄々知っていました」

「馬鹿」


 僕は顔を少し動かし、ナノマシンが動くなと警告のために発する激痛を無視しながら、先輩の可愛いおへそにキスをした。

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