9. いるだけで、いい。
「……という経緯です」
私は元・婚約者を殴った経緯を話し終え、はふうとため息をついた。やっぱり何度思い出しても許しがたい。あんなやつ、年中腹痛で悶え苦しめばいいんだ。
「そうかあ。……話してくれて、ありがとう」
「辛気臭い話ですみません。せっかくこんな素敵な贈り物を下さったのに」
「きみのことを一つ知れたから構わないよ。そういう意味では、僕にとってはこれが一ヶ月記念の贈り物かも」
「だめですよ、こんな感情を受け取っちゃ。そうですね、お夕飯はポテトとアンチョビのグラタンにしましょう。ポテトスープとフライドポテトもつけますから、こっちを受け取って下さいね」
「やったあ」
くふ、と嬉しそうな音を喉で鳴らしたシュロさんだったが、ややあっておずおずと私の左手を握り込む。
ちょっとだけ冷たくて、亀のお腹のようなすべすべした感触。シュロさんが鱗に塗り込むミントの香油が微かに香る。
「きみがお姉さんを頼らなかったのは、どうして?」
「……姉は敏い人です。私の顔を見れば、私が元・婚約者に手を上げた理由を知ってしまうでしょう。それは姉を二度侮辱することになる」
「でも、お姉さんはきっと君に死んでほしくはなかったと思う。あんな森の中で、一人きりで」
「姉は優しいですから、そうだと思います。……でも姉にはもう、愛して、面倒を見てくれる人がいますから。私はお役御免です」
姉さんと暖炉の距離を調節するのは、もうクレイさんの役目だ。
私がいなくても、大丈夫。
――つまり、私に役に立てることは、もうない。
「ただでさえ婚約破棄された妹がいるということで、評判が落ちてしまってるんです。そんな女を家に置けば、クレイさんの顔に泥を塗ることになる」
「それは、お姉さんがそう言ったの?」
「いいえ。でも、元・両親はそうなるだろうと言いました。私もそうなると思いました」
「……お姉さんはね、アイノ。旦那さんの顔に泥を塗るとか、もう自分の面倒を見てくれる人間はいるからいいとか、そんなこと、かけらも思っていないと思う」
シュロさんは低い声で、子どもに諭すように言う。
「もう役に立たないからいらないとか、価値がないから追い出すとか……そんなのは違う。違うんだよ、アイノ。そんな価値観できみがすり潰されてしまうのは変だ」
「すり潰されてはいません」
「けれどきみは夜の森にいた。獣に食い殺されてもおかしくない森で、僕に会って、殺してくれと言った」
そう言われると、自分の小心が恥ずかしくなる。
「確かに、今の私は、死ぬなら自分で潔くやればいいのにと思っていますが……」
「ちっがーう! そうじゃないの! きみはね、きみとしているだけでいいんだよ。婚約破棄されたからって、周りのことを考えて、自分を傷つけることなんてないんだ」
「はあ」
「ああ〜響いてない。ぜんっぜん響いてないね!」
「昔から醜女醜女と言われ、醜いならばせめて役に立てと言い続けられましたので。役に立てないなら、いる意味なんてないとも思いますし」
シュロさんが、それ! と叫んで私を指差す。
「アイノがちょくちょく言ってる、自分は醜いっていうの、なに? どこが醜いっていうの? 僕には全くそう見えない!」
「龍人の価値観では醜くはないのかも知れませんね。でもまあ、この枯れ草色の目とか、面白みのない黒髪とか……綺麗ではありません」
姉さんのきらきら輝く青い目。
ヴィクトリアさんの、豪華にたなびく金色の髪。
シュロさんの、見るも鮮やかな緋色の鱗。
そういうのを、綺麗と言うんだ。
「そお? 僕はきみの目の色好きだよ。枯れ草じゃないよ、それは古い本の色だ」
「古い、本」
初めて言われた。枯れ草と同じくらい地味な言葉なのに、シュロさんがそれを口にすると、不思議と嫌じゃない。
「黄ばんでますか?」
「違う違う。こんな感じ」
シュロさんは傍らの本を引っ張り出し、ページに触らせる。それは確かに、黄ばんでいるというよりは、薄柳色に染まっていて、不思議だった。
「ああそうか、紙に使ってる植物が人間のものとは違うんですね」
「そう。岩の近くに生えるソマヤナギって植物から紙が作られてるんだ。ね、この色だよ、わかる?」
「はい」
「こんな色に変わるのは、年月が経って、たくさんの人の手に触れられ、たくさんの人にその叡智を惜しみなく与えたからだ。時間を経た書物を大切に扱い、守った人たちがいるからだ。だからこんな色になる。古い本の色は、深い知性と、愛情と忍耐と、そういったものから生まれる色だ」
ね? とシュロさんは笑う。
「きみの目の色は、そういう色だろう?」
「……そう、ですね」
お腹の奥がじんわりと暖かくなる。
こんなふうに言ってもらったことなんてない。いつも生気のない目だと言われ、睨むな、とも言われていた。
それを、シュロさんは大切なものに例えてくれた。
体が軽くなって、なんだかどこまででも行けそうな気分になった。シュロさんのためなら、面倒なじゃがいもの皮むきをいくらだってしてあげられそうだ。
「初めて言われました。……嬉しいです」
「わーっよかった! ハッ!? でも確か、女性を何かに例えるときは、花とか宝石とかにしないといけないんだっけ!?」
「そうなんですか? 誰が言ったんですか?」
「『初めての夫婦マニュアル』に書いてあった! でもさ、花とか宝石とかって、よく分からないんだよねえ〜」
「シュロさんこの間、薔薇とカメリアの区別ついてませんでしたもんね……」
「むしろどこが違うのか……」
しおしおと翼を垂らしてうなだれるシュロさん。
くすっ、と思わず笑ってしまう。
「そんなにしょんぼりしないで。お花の区別は私ができればいいんです。だって私たち、……ふ、夫婦なんですから」
「……うん! そうだねえ!」
たったそれだけの言葉で、シュロさんの翼はぴんと伸び、目尻が優しそうに垂れる。
いい人だな、と思った。
「さて、では私はこれからここで本を読みますので」
「ん! 僕は昼寝するね〜下のハンモックにいるよ」
ゆっくりと部屋を出てゆくシュロさんの背中を見送りながら、私は今日の読書プランを見直す。
「シュロさん。私にもその『初めての夫婦マニュアル』貸してくれませんか?」
こんなに優しい龍人のことだ。きっといつか、ほんとうに愛する人を見つけて、私は出てゆくことになるだろう。
でも、それまでは。
それまでは、この人が幸せだと感じられるような――。そんな夫婦でいる努力を、しよう。
次こそ!次こそ働きます!





