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8. 殴った瞬間

アイノの過去編、です。



シュロさんに拾われるほんの少し前の話だ。







お嫁に行った姉さんが久しぶりに帰ってきている。

そう聞いた私は、馬丁に手綱を投げつけるようにして馬を預け、乗馬靴のまま居間に駆け込んだ。


「まあ、アイノったら」


姉さんは、両足を毛布でしっかりとくるまれ、暖炉の前のカウチに座っていた。

生まれつき両足が不自由な姉さん。けれどそれで心を暗くすることもなく、前向きで、明るくて綺麗で優しくて、私の大好きな姉さん。


前に見たより肌艶も良くなっていて、髪の毛もさらさらで、嫁ぎ先で大事にされているのだと分かって嬉しくなった。

けれど姉さんは、私を見るなりその美しい眉をひそめる。


「せめて靴は履きかえていらっしゃいな。クレイがいたらどうするつもりだったの」

「入る前に聞き耳は立てた。姉さん今日はどうしたの?」

「あのね、クレイの研究が凄くはかどっていて、王宮の学者の方々から小さな賞を頂いてね。その賞金で色々と食料を買い込んだものだから、おすそわけに来たのよ」

「いいのに」

「あなたの好きな無花果や林檎もあるわよ」

「わ、やった。じゃあアップルパイ作るから、姉さん持って帰ってよ」

「それじゃおすそわけの意味がないでしょ」


クレイさんは姉さんの旦那さんで、魔術関連の歴史の研究家だ。占星術も得意で、よく王宮でその占術を披露しているらしい。

姉さんとクレイさんが結婚して一緒に暮らし始めたのは、半年前のこと。

クレイさんが姉さんに一目ぼれして、毎日うちに通って姉さんを口説き、そうしてついに姉さんを手に入れたのだ。


私は姉さんの膝に触れて温度を確かめ、椅子を少し暖炉から遠ざける。このくらいの重さはどうってことないのだけれど、姉さんはすまなさそうに眉を下げる。


「ありがとう。でも、執事を呼ぶ間くらいまでは我慢できたわよ」

「それで前にのぼせて倒れちゃったのは、どこのどなたでしたっけね」

「うう……わたしですう……」


そう言いながら姉さんは、別の椅子の上の包みを指で示した。


「あれはあなたによ、アイノ」

「なあに? 本?」

「違うわよ。布地。出かけるときのドレスでも作りなさい」


包みを開けると、上等な薄紙に包まれた布地が出てきた。絹が混じっているようだから、きっと値が張っただろう。

薄いグリーンは、ちょっと私の目の色に近いなと思う。きっとこれは姉さんが選んだ。


「ドレスねえ」

「カーテンにしてはだめよ」

「し、しないよ」

「クレイが贈ったドレス用の生地を、書庫のカーテンに使ったのはどこのどなただったかしら?」

「うう……ちょうどいい厚みだったから、つい……そのことクレイさんに言ってないわよね、姉さん」

「だいじょうぶ、クレイは贈ったことも忘れているくらいだもの。でもねえアイノ、一着くらい新しいのを持ってないと、何かあったとき困るわよ」


と言われても、父さんにくっついて領地を回っている身としては、こぎれいな乗馬服があれば足りるのだ。


「もちろん、ダンケルク伯爵が下さる布地の方が、立派だってことは分かってるけど」

「あの人は私に布地なんてくれないよ」

「え?」


ダンケルク伯爵――私の婚約者様は、私に何もくれたことがない。

姉の夫だって、私に生地を贈ってくれるのに。


「私には妻の役目は期待されてないからね。私のことは歩くマナーブックか、紳士名鑑だとでも思ってるんでしょ。そうでなきゃこんな本の虫、嫁にもらおうなんて気起こさないわよ」


姉さんは何も言わない。母さんみたいに、貰ってくれるだけ有り難いと思え、というお説教もしない。

ただ、切なそうに私を見ている。


――私としては、姉さんさえ幸せなら、それでいいのだけど。


「……ともかく。もう私の面倒を見なくていいのだから、思いっきりかさばるドレスを着ちゃいなさいよ。それが最近の流行だって言うし」

「えー……あのお尻のとこがぼんっとなってるやつ?」

「袖もぼおんっとするのが良いらしいわよ」

「布地の無駄。その流行って、布の問屋が始めたんでしょ」


――それに、どんなに綺麗なドレスを作っても、中身がこんなに不細工ではつりあわない。


「ね、アイノ。あなた、ドレスを作っても自分には似合わないって思ってるでしょ」

「まあ、この顔じゃね」

「そんなことない。あなたは綺麗よ」


姉さんは優しい。


「あなたが足の悪い私の世話を根気強くやってくれたこと、皆知ってる。あなたが領民の話をよく聞いて、真面目に仕事をしてることも、夜遅くまで書類を作ってることもね。そんなあなたの心の美しさが、仕草や、顔や、体に現れるの」

「そうかもね」

「ほんとうよ。ほんとうなのよ」


ぱちぱちと瞬く姉さんの瞳。飴玉のようなブルーが、感情を豊かに浮かべて私を見ている。

私のことを愛し、心配する気持ちが疑いようもなく注がれている。


――誰をも虜にするその目があれば、きっと何もかもがほんとうになるのだろう。私の、枯れかけた草のような色をした目とは違って。


「生地は有り難く受け取っとく。ドレスにするかはまだ、分かんないけど」

「もう! 意地っ張り~」


ぐりぐりと私の肩に頭突きをしてくる姉さん。

子どもの頃と全く変わらない仕草に、愛おしさがこみあげる。


と、居間にメイドが入ってきた。


「失礼致します。アイノ様、あの、ダンケルク伯爵様から早馬が来ております」

「何と仰ってる?」

「今すぐに屋敷へ来い、と」


またか。

私は長い溜息をつき、姉さんの肩をそっと撫でた。


「ごめん、行かなきゃ」

「いいのよ。早馬ってことは急ぎよね。何かあったのかしら」

「さあね? 婚約解消、とかだと嬉しいんだけど」


このまま乗馬服で行ってやろうかとも思ったが、少し考えてまともなドレスに着替えた。相手に恥をかかせてやるのは痛快だが、父さんや母さんの顔に泥を塗るのは得策ではない。


ダンケルク家の家紋が大きく書かれた馬車に乗り込むと、馬車は結構な勢いで走り始めた。


――ダンケルク家はせっかちで有名だけど、御者までせっかちとは徹底してるわ。


そう思いながら、跳ねる座席の上でどうにか淑女らしい表情を保つ努力をした。


我が家からダンケルク家までは、馬車を飛ばしておおよそ十五分。

転がり落ちるように馬車から降りると、いかつい顔をした執事が私を案内してくれた。物凄い早足なので、私は小走りでその後をついていかなければならなかった。


客間に駆け込むと、私の婚約者殿――イヴァン・ダンケルクがイライラと歩き回っていた。金髪の髪を肩辺りまでのばし、赤いベルベットのリボンで結わえている。


「遅い! もたもたするな、早馬を寄越したらその足で乗れ」

「すみません。乗馬服だったものですから」

「次からはそのまま来い。お前の顔では何を着ていても同じことだ」


――まあ確かに、そうなんだけど。


「来月、陛下のご親戚であらせられるワイナミョイネン家のご令嬢が社交界にデビューされるそうだ。贈り物を用意したい。何か適切なものはあるか」

「そうですね……。ワイナミョイネン家は五十年前の大戦で、国王陛下のお母様のご親戚であるビヨーク侯爵を、チーズ蔵にかくまってお守りしたというお話があります。チーズ関連の贈り物はいかがでしょう」


ふむ、とイヴァンは考え込むように自分の顎をさする。まだ髭も生えていないのに、その仕草は急逝した彼の父親そっくりだった。


「さすがにチーズ蔵を贈るわけにもいかないからな。チーズナイフをはじめとした銀器一式を贈らせてもらおうか」

「ああ、あとは仔山羊なんかもいいかもしれませんね。あそこのご令嬢とはよく馬を走らせてる時にお会いしますが、ご自身で馬のお世話をされているようで、よく懐いていました」

「自分で馬の世話などするのか。はっ、存外野蛮な女だな」


嘲笑するように言うと、イヴァンは執事を呼んで指示を出した。

チーズナイフ一揃いと、上等な仔山羊。もちろんダンケルク一族の文様がついたカードやリボンで飾りたてて。


「ご用はそれだけでしょうか」

「次の晩餐会が来週に控えている。お前は俺の横にいて、客の顔と名前、好みを覚えろ」


――そして彼がど忘れしたら、すばやく耳打ちするってわけね。


頷くとイヴァンは口の端を歪め、


「何か言いたそうな顔だが?」

「いえ、何も」

「雑用扱いされるのは不満だろうが、顔に出すなよ。ったく、お前に姉ほどの器量があれば、サロンの一つも与えてやったものを」


姉ほどの器量があれば、というのは我が家で定番のフレーズだ。今更新鮮味もなく、はあ、と聞いていると、イヴァンがじれったそうに


「可愛げのない女だ。お前の姉のように、夫の職場に媚を売ろうとは思わんのか」

「……媚び?」

「ああ。夫……クレイ・アンダルシアだったか。あれが最近王宮に出入りしていられるのは、お前の姉が王宮づきの高官をたらしこんだからだろう」


たらしこむ、という言葉の汚らしさに思わず顔を歪めてしまう。

それを見てとったイヴァンが、なぜか嬉しそうに


「悔しいか? 悔しいならお前も姉のようになれ。偉い人間に媚びへつらい、犬のように尾を振れ」

「……お言葉ですが、姉さんはそんな人ではありません。もしその高官とやらが姉さんを気に入ったのなら、それは姉さんの人徳によるものでしょう」

「人徳? ああ、お前の家では足萎えを人徳というのか? 面白いな」


私は両の拳を握りしめる。

こいつが姉さんの足のことを言うのは、今に始まったことじゃない。誰かに指をさされて、笑われるのにも、慣れている。


耐えろ。


耐えろ……!

 

「……そう睨むな、アイノ。人徳、人徳だろう? 分かっているさ。クレイ・アンダルシアも、その人徳とやらに惚れ込んだのだろう」

「ええ、そうです!」

「だろうとも! だってーー。



足萎えの女が、女として夫を愉しませられるはずがないものなあ?」




意味が分かった瞬間、目の前が真っ白になった。

婚約者を殴るなんてありえないと、思った。


けれど、姉を侮辱されて、黙っている方がありえないとも、思った。


理性と感情は共に手をとって、私の体を突き動かす。

とっさに近くにあった分厚い本を掴む。うちだったら、もっと分厚くて立派な辞典があったのだが、この家にはぺらぺらのマナーブックしかない!


その本を振り上げて、イヴァンの顔に思い切り叩きつけた。白い頬が奇妙にひしゃげ、道化じみた表情になる婚約者。


殴られるなんて思ってもみなかったのだろう。間抜けヅラを晒してうろたえる男に、もう一撃、もう一発、もう一度本の角を叩きつける。


「なっ……何をする! 正気か!」

「お前なんかに言われたくない! 姉を侮辱するなら例え婚約者だって許さない!」

「上等だ! お前などもはや婚約者でもなんでもない!」


私はマナーブックを投げつけると、足早に部屋を出て、廊下を走った。

そのまま正面出口から道路に駆け出す。家まで結構な距離があると分かっていたけれど、馬車を拾う余裕なんかなかった。


心臓が燃えるように熱くて痛いのに、腹の奥底はじっとりと冷え切っていた。





そうして、私はダンケルク一族から婚約破棄の知らせを受け取り、両親から勘当されるのである。

次話から入国管理局でがっつり働いてもらいます!

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