7. 静かに回る二人の生活
朝は強い方だ。
ぱっちりと目を覚まし、だだっ広いベッドの上を這うようにして起床する。
顔を洗って身づくろいをして、階下へ。
するとシュロさんが作業台の上にかがみ込んで、虫眼鏡で何かを凝視していた。
昨日なじみの古書屋から、四百年前の粘土板を手に入れたと言っていたから、それだろうか。
だいたいシュロさんの方が早起きだが、必ずしも「早起き」とは限らない。
「おはようございます、シュロさん。徹夜でした?」
「おはようアイノ~。んん、結果的に、徹夜だねえ……」
眠たげな声を上げたシュロさん。今日は「遅寝」の方か。
「今日はお休みですよね? 今からベッドに入られるなら、お風呂とか準備しますけど」
「んーん、今寝ちゃうと夜寝れないから、起きてる」
くあふ、と大きな欠伸をすると、綺麗に生えそろった牙が見えて面白い。
ワニに似ているけれど、草食動物のような臼歯をしている。定期的に抜け落ちるというが、どうやってケアしているのだろう?
「……むう。だからそんなに見ないでってば」
「すみません。化石研究において、歯は情報の宝庫と言うくらいですし、つい」
「僕まだ生きてるから!」
――私がここで花嫁として生活し始めてから、もうすぐひと月。
シュロさんが欠伸をしても、しっかり口の中を観察できるくらいには慣れてきた。
むしろ、欠伸するたびに歯を凝視しているので、シュロさんが恥ずかしがるくらいだ。
入国管理局の方でも、少しずつ書類仕事を任せて貰えるようになり、シュロさんの横で暇を持て余すことが少なくなった。
家に帰ってからすることも決まってきて、色んなことが少しずつスムーズに回るようになった。
しかし、油断大敵。こういう慣れかけた頃に疲れが出たり、失敗したりするものだ。
今日みたいな爽やかな陽気の日にお休みを貰えたとしても、しっかり体を休めなければならない。
……というのは、外に出たがらない人間の体の良い言い訳で、煎じ詰めれば私の目的は一つである。
即ち、積読の解消。
――だって、読みたい本や読まなきゃいけない本や読んでおくべき本が山のようにあるんだもん!
私はキッチンに入り、今日の朝ごはんの献立を考える。
ライ麦パンにチーズ、だけだと物足りないので茹で卵も添えようか。それにハーブティで簡単に済ませよう。
龍人であるシュロさんは、けっこう人間に近いものを食べる。お肉にも火を通し、ひと手間かけたご飯を好む。
生肉を食べるのかなと漠然と思っていただけに、意外だった。もちろん量は人間の比ではないが。
今日の読書プランを立てながら、裏庭に繋がる小さなドアをくぐる。
「何読もうかなあ。小説を読みきって、それからアルゲン語の参考書を読んで、あとはこの国の文化の本もいくつか読んでおきたいところだよね」
シュロさんの家には、人間の言葉で書かれた本が結構あって、アルゲン語が分からずとも読めるものはたくさんある。今度図書館にも連れて行ってくれるというし、今から楽しみだ。
裏庭で育てているハーブに水をやる。葉の上で弾ける水滴が、朝日できらきら光って綺麗だ。
ハーブは魔術に欠かせない代物だ。人間世界でもよく許可を受けた魔女たちが、ハーブを用いた薬を作ったり、害獣避けの結界を施してくれたりすることがある。
シュロさんは龍人なので、ハーブになど頼らずともより威力の高い魔術を使えるはずなのだが『植物を育てるのは楽しい』と言って、この大きな庭にせっせとハーブを植えている。
キッチンの小窓からシュロさんが尋ねる。
「アイノ~、お湯沸かしておこうか」
「お願いします! 卵は五つ茹でといて下さい」
りょうかーい、と間延びした声で応じたシュロさんは、裏庭に出てくると、隅っこに積まれている薪を幾つか手に取った。この家では人間の世界と同じように、薪で火を起こしているためだ。
魔術で火をおこすことは、むろん容易い。
けれどシュロさんは家の中で魔術を使うことをあまり好まない。
私の翻訳魔術に力を割いているせいかとも思ったけれど、そういうわけではないらしい。単純に主義の問題のようだった。
絶対に魔術を使った方が楽だと思う。龍人のように、魔力が無尽蔵に湧いてくる種族ならば特に。
――奴隷は持たないとか、魔術は使わないとか。シュロさんはかなり変わってる。
「むー。やっぱりアイノが育てる方が、ハーブが元気な気がするな……?」
「気のせいじゃないですか?」
「いやいや。龍人は植物育てるのが苦手、ってのを差っ引いても違いは歴然だよ」
「苦手なんですか」
「細かい水やりや虫とりとかが苦手……っていうのと、魔力の質的に植物と反発してしまうから」
魔力の質、というのは、考えたことがなかった。
それを正直に告げれば、シュロさんは丁寧に教えてくれた。
「魔力というのは自然から借りるものだけれど、どこから借りるかによって魔力の質が変わって来るんだ。僕ら龍人は炎や氷から魔力を借りるけど、植物はそれらを嫌う。だから反発しあう」
「自然から借りるというのは、人間と同じですね。もっとも人間の魔術の威力は、アルハンゲリスクの方々に比べればはるかに劣りますが」
「獣人と人間とじゃ、魔力の受容器の構造が違うからね。じゃあ、どこから借りるかによって魔術の種類も違って来るんじゃない?」
「私は門外漢なので、よく分かってはいないのですが……。確かに一族によって得意魔術は異なると聞きますね」
「獣人もそうだ。炎や氷を用いて戦闘するのが得意な一族もあれば、治癒や育成が得意な一族もいる」
「なるほど」
おもしろそうな話だ。もう少し前に聞いておけば良かった。
「人間はどうやって魔術を使うの?」
「自然の魔力を増幅させる装身具があるんです。魔女や魔術師の方々は、代々家に伝わる装身具を身に着けて、自然災害への対処や、害獣処理を行っているのだそうです」
「そうすると、その家に生まれなかったら、魔術は使えないってこと?」
「ええ。魔術を使える一門は限られています。特権階級ですね」
へんなの、とシュロさんは子どものように言う。
「皆使えたら便利なのにね。アイノも練習してみたら?」
「ええ? 無理ですよ、魔術って才能が必要なんでしょう」
「別にそんなことはないよ。火をともしたり、水を呼んだりするくらいなら、アイノが一か月も特訓すればできるようになると思う。やってみたかったら教えるよ」
「人間に教えても問題ないんですか?」
「あっはは! 秘匿魔術ならともかく、火をともす魔術を教えたくらいで、何か問題が起きるとは思えないね?」
それもそうだ。
――魔術。魔術か。自分が使う側になるとは思ってもみなかった。
「考えときます。さて、ミントもレモングラスもとれたし、朝ごはんにしましょうか」
「僕のにははちみついっぱいいれてね」
「はいはい」
*
巨大なポット、というかもはや鍋で淹れたハーブティを、シュロさんが手ずから私のカップに注いでくれる。最初の頃は私が自分で注ごうとしたものだが、重すぎて無理だった。今ではお茶を注ぐ役目はシュロさんのものになっている。
シュロさんのカップは、酒場でビールを入れるような巨大なジョッキだ。大量に淹れたハーブティのほとんどは、シュロさんのジョッキに吸い込まれてゆくのが常で、いかにも豪快に酒を飲んでいそうな様子でありながら、中身がはちみつたっぷりハーブティというのはちょっと面白い。
ちびちびと美味しそうにお茶を楽しんでいたシュロさんが、はっと私の方を見た。
「そうだ。今日って君が来て一か月の日、だよね?」
「正確な日付は覚えていませんが、まあそのくらいだと思います」
「だよね! あのねあのね、龍人にはね、一か月記念日をお祝いする習慣があるんだ!」
「一か月? ってことは、二か月目も同じことをするんですか?」
「次の記念日は一年後かな? 別に毎月やってもいーけどね!」
「どうして一か月目でお祝いするんですか?」
「ちょうどお互いがいる生活に慣れてきた頃だから、じゃない?」
……一理ある。
私がふむふむと頷いていると、シュロさんが立ち上がって、恭しく私に手を差し出した。
「それでは僕の花嫁さま。二階へどうぞ」
そうして二階の、簡易物置として使われている部屋へと案内してくれた。
掃除用具とか、貰った記念品とか、そういうものを収納してある小部屋だ。すずらん型の小さなランプがひっそりとあったり、細工の細かい本棚があったりして、なかなかかわいらしい。
自室を思い出す狭さで居心地が良かったので、よくここの隅っこのカウチに座って本を読んでいた。
その部屋の窓辺には、今まで見たことのなかったスペースがあった。
「わあ……!」
出窓のところに作られた腰掛け場。クッションが置かれ、ちょっと一休みするのにちょうどいい。
小窓から風が差し込み、レースのカーテンを揺らしている。
「僕からのプレゼント。君がこの部屋を結構気に入っているようだったから、ここにアルコーヴもどきを作ったんだ。ここでくつろぐといいよ」
「ありがとう、ございます……!」
晴れた午後、ここで座って本を読んだらきっと集中できるだろう。窓の近くの木々が落とす木漏れ日が、白とブルーのストライプもようのクッションにちらちらと映って綺麗だった。
――そのもように、ふと、姉さんを思い出した。
「……」
「ありゃ。あんまり嬉しくなかったかな?」
「いえ、いえ! すごく嬉しいです、これからここに入り浸っちゃうかも」
「じゃあどうして、ちょっと悲しそうな顔してるの」
「……悲しそうな顔、してますか」
「ちょっとね」
私はむう、と唇を引き結んだ。
「姉を思い出したものですから」
「元婚約者さんが侮辱したっていうお姉さんだね」
「うちにもこういう出窓があって、姉はいつもそこにいました。ちょうどあのクッションみたいな、白とブルーのもようのドレスを着て、そこで……」
シュロさんは優しく笑って、私の手を取ると、出窓のところまで導いてくれた。
二人で並んで腰かける。ふかふかのクッション、柔らかな日差し。
「姉さんはいつも私の味方をしてくれました。優しくて、綺麗で、勇敢で。半年前に、ちょっと怖いけど、とても優しそうな学者様のところへお嫁に行きました」
「君に似てる?」
「ちっとも。だから私は姉さんがすごく好きでした」
私はちょっと迷ってから口にする。
「姉さんの足が不自由なことなんて、何の問題にもならないくらい」
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