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3. 二人の新居



それからのことは、夢を見ているようで、正直あんまり覚えていない。


入国管理のゲートを通過し、シュロさんの尾を掴んだまま、街を歩いた。自分がすっかり子どもになったみたいだった。



アルハンゲリスク共和国の入り口、カンテアスと呼ばれる都市。人間の世界の首都なんかよりも遥かに発達しているように見えたけれど、これでも辺境の都市なのだと言う。びっくりだ。


ここに住む人々の生活をもっと見たかったのだけれど、その暇はなかった。


——なぜなら、シュロさんが私を横抱きに抱えたかと思うと、いきなり空を飛び始めたからだ。


「しゅ、しゅ、シュロさあん!? 落ちるっ、落ちますッ!」

「おーちーなーい。僕のお嫁さんになるんだから、空を飛ぶのには慣れて貰わないと」

「慣れ、ますかね!?」

「慣れないと出勤が辛いと思うよ? 僕んちから入管まで、歩くと二時間くらいかかるからね」

「にじかん!」


シュロさんの首にすがりついて、目をきつく閉じ、凄まじい浮遊感と胃がぐうっとせり上がってくるような吐き気をこらえる。


——出勤のたびに、これは、しんどいかも……!


人間の最も誇るべき性質、順応性に望みをかけて、歯を食いしばりながら堪えること、二十分。


シュロさんが大きく翼を広げて風を受けると、減速を始めた。辺りの様子を伺う余裕のなかった私だが、減速のおかげでようやく景色が見えた。

大きな木の側の、大きな家。扉は高く、シュロさんでも楽に通れそうだ。


「あ、もう朝なんですね……!」

「そうそう。人間界とは時差があるからね」


向こうの山の方から、太陽がしらじらと輝き始める。美しい光景のはずなのに、体の奥にくったりと重い疲労のせいで、なかなか染み込んでこない。


シュロさんについて家の中に入る。


「うわっ」 


淑女的にはよろしくない第一声だったかもしれない。

でも。

でもですよ。


「床……どこです……?」

「いいかいアイノ、道は自分で切り開くもの、床は自分で確保するものなんだよ」

「名言ぽく言ってますけど全然名言じゃないですからねそれ!」


言いながらシュロさんは、紙切れだのがらくただのを尻尾でかき分けながら(庭師の見事な雪かきを思い出した)奥の方へと進んでゆく。

私は崩れ落ちてくるたぬきの瀬戸物や、いきなり鳴り出すオルゴールにびっくりしながら、彼についていった。


シュロさんの家はニ階建て。

一階部分はシュロさんの書斎と寝室、それからキッチンとダイニング、リビングルームがある。大きな暖炉は、私が楽に入れる大きさで、竈で焼かれるにわとりの気持ちになりかけた。


「二階はね、手を入れていないんだ。本をおいとくと床が抜けそうで怖いだろ?」

「それは分かります! いくら本好きでも、圧死はごめんですからね」

「たまに本で溺れ死ぬ夢とか見ちゃうよね……。えと、バスルームは二階にある。僕のサイズだから、君には少し大きいかもだ。何か不自由があったら言うんだよ」


きみは僕のお嫁さんだからね!


弾んだ声で言うシュロさん。

私はどことなく居心地の悪さを覚えた。お嫁さん、というのがどこまで本気かわからないし、シュロさんの口ぶりは、お嫁さんというよりはペットを迎えた人のそれに近い。


――ま、いいか。

ともあれ森の中で狼に食い殺される末路は免れた。

これからどうするかは、神のみぞ知る。


シュロさんは楽しそうに家の中を案内してくれて、最後に二階のこぢんまりした客室を見せてくれた。


「ちょっと狭いかな? でも今のところ、ここが一番綺麗で日当たりの良い部屋なんだ。だからここを使ってよ」

「あ、ありがとうございます……」


狭いと言っても、あくまで龍人基準。私からしてみれば十分すぎる広さだ。

シュロさんは清潔なタオルとシーツを私にくれた。ほんのりレモングラスの香りがする。


「今日はもう休んだらどうかなあ。僕はこれから仕事だから、お腹が空いたら適当にキッチンにあるものを食べていいよ」

「……でしたら、私の立ち入っていい場所を教えて下さい。触ってはいけないものも。ご不在中に掃除をしておきますので」


そう言うとシュロさんは、苦笑するように口の端を緩めて、そうっと手を伸ばしてきた。

ずっしりと重い手が、加減をするように、恐る恐る私の頭を撫でる。亀のお腹のところみたいな、ちょっと硬くてすべすべした感触。


「無理して役に立とうとしなくていいんだよ」

「……でも」

「お嫁さんは家で僕を待つのが仕事! しっかり休んで、それから色々案内するから」

「で、でも! それを言うなら、旦那さんが気持ちの良いように、家を整えるのも、奥さんの務めです!」


むむう、と押し黙るシュロさん。


「そういうもの? 僕も初めて旦那さんになるからなあ……。いや、でも、きみはまず体力回復が先だ」


シュロさんは私を部屋に押し込むと、にっこり笑ってみせた。


「僕もきみも、夫婦は初めてだろ? だからまず、その青い顔をなんとかしてから取り組もう。……おやすみ、アイノ」


優しく言い残すと、シュロさんは静かに扉の向こうに消えた。

一人きりになった私は、はふう、と長いため息をつく。


知らない家のにおい。いつもより反響する自分の吐息と衣ずれの音。

背負っていた荷物を下ろして椅子に腰掛けると、どっと疲れが押し寄せてきた。箪笥の上にあった鏡を覗き込むと、確かにやつれてひどい顔の自分がいた。


「あんまりにもいろんなことがありすぎたもんねえ……」


元・婚約者をぶん殴って。

勘当されて。家を追い出されて。森へ走って。

……一日足らずの間に起こったことだ。


それが、どうだろう。今私は、龍人の花嫁になって、あのアルハンゲリスク共和国にいる。なんなら明日からは働く場所もあるという。


「……ラッキー、なのかな?」


幸運なのか不運なのか、嬉しいのか悲しいのか、あまりよくわからない。わからないまま、貰ったシーツをベッドに敷いた。

やわらかそうなベッドは、私の自室にあったものの軽く三倍はあるだろう大きさで、枕も馬鹿でかい。

シーツの海をそれこそ泳ぐようにして掛け布団にたどり着き、それを頭からひっかぶる。


知らないにおい。知らない布団の柔らかさ。

ここは、異国だ。


「……ッ」


ああ、ほんとうに疲れてる。

――意味もなく泣いてしまうくらいに。


「……私、ほんとに、家を追い出されたんだなあ……」


ぼろぼろと勝手に涙がこぼれてくる。


十八年も一緒に暮らしていたのに。なのに、私が少しあの人の機嫌を損ねたくらいで、あんなに、あっさりと家族じゃなくなるものなんだな。


一人ぼっちのよるべなさ。シーツは広く、すがるものは何もない。


――あるとすれば、あの美しい鱗を持つ、ちょっと間の抜けた龍人が、私にくれた役割くらいだろうか。


「龍人の、花嫁」


どうして私なんかを拾ってくれたのかはわからないけれど、こうして部屋を与えてくれた以上、明日明後日に私を放り出す……なんてことはなさそうだ。


もしほんとうに、花嫁の役割を期待されているのならば。

全身全霊で、それに応えてみせよう。


「……だってもう、それしかないんだもの」

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