14. 憂う花嫁
エルミタージュを名乗る獣人の出現。
怒りを覚えるほど破損された、禁書と呼ばれた本たち。
図書館はにわかに厳戒態勢となり、司書さんたちが忙しく行き交っては利用者に何か説明をしている。
それをどこか遠くで聞きながら、私とシュロさん、それからナギさんは、ぐちゃぐちゃになった禁書の山を見ていた。
「禁書だろうと何だろうと、書物をこのように扱うなど言語道断! エルミタージュとやらが何かは知らんが、地獄に堕ちろと言ってやりたいね!」
そう息巻くナギさんは、空中をかき混ぜるような仕草をした。すると、禁書の山がそのままふわりと宙に浮かぶ。紙片の一つも取り落とさず、そのまま移動させる。
「地下の修復室に運ぶ。シュロ、お前手は空いているか。手伝え」
「空いてなくったって関係ないね。その本の中にどれだけホンモノがあるか、見極めたい」
「……まあ、お前には分かるか」
「とーぜん。これは要するに、囮だもんね」
「囮……ですか?」
シュロさんはこくりと頷く。
「禁書には、門外不出の魔術が書かれている。……けどね、門外不出の技術を、そもそも文字に残しておくリスクをとる必要があるかな? ってこと」
「ああ、なるほど。文字にすれば、複写されるリスクが高まりますし、外部へ流出する可能性も出てきます」
「門外不出の魔術と、そもそも多くの人に情報を伝えるための媒介である本は、相反するものである、ということだな。……だが、それならばなぜ禁書は存在するのか?」
ナギさんの問いを受けて考えてみる。
「……門外不出の魔術の、本当の場所を教えるためでしょうか?」
「その根拠は」
「例えば禁忌の魔術を使える人がいたとして。そのやり方を文字に残せば、流出するリスクがあります。――でも、文字にすることのメリットもある。それは、その人が死んでも、その技術は誰かに伝わるということです」
「そうだね。禁忌の魔術の使い手が、そのメリットだけを欲しがった場合、どうなるかな?」
「禁忌の魔術の本当の場所を伝えるメッセージだけを、本にして残しておく……でしょうか」
何しろ専門家の前なので、自分のつたない意見を述べるというのは恥ずかしい。そう思いながらおずおずと言ってみれば、ナギさんが飛び上がって私の肩を叩いた。
「よい洞察力だ! アイノが言った通り、禁書とは、禁忌の魔術への鍵ではなく、禁忌の魔術へ至るための地図である――というわけだ」
「エルミタージュの連中も、恐らくそれを分かっているだろうね。それを踏まえて、禁書をこんなに荒らした。本物と偽物を入り混ぜて」
なんのためにそんなことを。
首を傾げる私に、シュロさんは低い声で言った。
「時間稼ぎだ。追っ手に偽の情報を与えてかく乱する間に、自分たちが禁忌の魔術へアクセスする時間を稼ぐ」
「追っ手?」
「……それが僕の弟、ダナエであり。かつての僕の仕事なわけだ」
微かなため息をつくシュロさん。
私の方を見て苦笑する、それはいつもの表情だけれど。ほんの少し、こわばっていて。
私はシュロさんの左手を両手で包み込むように握った。大丈夫ですよ、という気持ちが少しでも伝わればいいと思った。
「……ふむ。ちょっと取りに行くものがあるから、君たちは後からゆっくりおいで」
気をきかせてくれたナギさんが、一階のカウンターの方に降りてゆく。
二人きりになった。シュロさんは、私の手を小さく握り返した。まるで自分の手の中に、鳥の雛がいるみたいな柔らかさだ。
「僕の家は、その、いわゆる名家というやつで。この共和国の一つ、龍人が多く住まう王国の、王に仕える武官を輩出していた」
武官。龍人の武官がどんなものかは知らないけれど、人間の武官なら見たことがある。馬上で大きな槍を掲げ、胸を大きく張った偉丈夫たち。
あんな感じだろうか。……想像が難しいけど。
「龍人は階級や家格を重んじる種族でね。王に仕える武官たちは、龍人の中でも王に次ぐ存在だと見なされていた。かぎ爪を奮い、外敵と戦う限りにおいては」
「シュロさんはやりにくかったでしょうね」
「あはは、分かる?」
「そういうの、向いてなさそうです」
ダナエさんと組み合ったときだって、尾を振るうことにためらいがあるように見えた。相手が弟であるということがあったのかもしれないけど、それでも。
「武官である一家の、祖父の代から、僕たちは特別な任務を課せられるようになった。
――それが禁忌狩りだ」
「禁忌の魔術を、狩る仕事?」
「んー、というよりは、管理する仕事かな。門外不出の魔術が外に漏れないように。あるいは、特定の相手にのみ伝わるように」
「む、難しそうですね」
「そうなんだよねえ。力加減がさ、必要っていうか。……ある程度政治も関わってくるし」
「それはますます、シュロさんの苦手分野ですね」
シュロさんはいい人だ。いい人なんだけれど、ちょっと抜けているところがあるし、思いやりはあるけれど、お世辞はたぶん言えない。
そういう人は、政治に向いていない。
「戦闘は、まだ我慢できた。でもさすがに、色んな家との駆け引きには耐えられなくて、それで家を飛び出した。その結果、アーメア……裏切り者の名字を贈られ、それを使うよう強要されたわけだ」
「律儀にその名字を使う必要はないと思いますが……」
「けじめってやつかな。この名字、ほんとに嫌だけどさ、家に残ったまま政略結婚させられることを考えればマシだよね」
「せ、政略結婚? シュロさんには許嫁さんがいらしたんですか?」
大変だ。こんなところでのんきに身の上話を聞いている場合ではない。
「わ、私、お家を出たほうが……!? あ、だからダナエさんがあんなに私のことを敵視してたんですね、ほんとうにもう、申し訳ないです……」
「うん? あ、いや、違うよ!? 政略結婚はお断りしたんだ、僕にはまだ結婚は早いし」
その言葉を聞いて、少しだけ胸が痛んだ。
――結婚はまだ早い、ってことは、私とのこれはそもそも結婚じゃないのか。
でも、胸が痛むのはおかしい。シュロさんは優しいから、どこの馬の骨とも知らない小娘を、奴隷以外の待遇で家に置いてやりたいと、そう思っただけだ。
名ばかりの花嫁だと最初から分かっていたのだから、傷つくなんて、変だ。変なのに。
どうしてこんなに、胸の奥が痛むんだろう。
「とにかく、僕にはもうきみがいる。分かるね?」
「はい。いつでも、ほんとうの花嫁さんがいらしたときには、おいとましますので!」
「そういうことじゃなくってえ……だから、」
「あの、それで、シュロさんは色々とお家が我慢できなくなって、入国管理局で務めることになったんですね?」
これ以上婚約の話をしたくなくて先を促すと、シュロさんは渋々頷いた。
「そうだね。禁忌狩りから抜けるのは重罪、家を勘当されるどころか、殺されてもおかしくはなかった。けど、たぶん僕の鑑定眼が必要だったんだろうね」
「シュロさんのビザを見極める力、凄いですもんね」
シュロさんには真贋を見極める才能がある。
それは確かにそうなのだけれど、それだけじゃない。
シュロさんは暇さえあれば偽物のビザのサンプルを見ている。触ったり、匂いを嗅いだりして、常に努力しているのだ。
「入国管理局で働いているというのも、何かあったときに便利だと思ったんだろう。……とにかく、僕は殺されるのを免れて、あの家に暮らしてるってわけ。君と一緒にね、だけど……」
シュロさんの顔が曇る。彼は私の腕を見下ろしていた。
ダナエさんに掴まれた跡が残った腕。微かに流れた血はとっくに乾いて、固まっていた。
――優しいシュロさんは、こんな危ない目にあうのなら、自分と一緒にいないほうがいい、と言うかもしれない。
そう言われたらそれまでだ。私はシュロさんの家を出て、……出て、それから?
どこに行けばいいんだろう。アルハンゲリスク共和国にはもういられない。家には帰れないし、姉さんのところには頼れない。人間の世界では働くあてもない。
それなら、あの森に戻るしかない。一度獣に食い殺される覚悟を決めたじゃないか。なら簡単なことだ。
そうやってぐるぐると考えていると――。シュロさんが、私の体に手を回した。微かに甘く香るミントのにおいに、目を白黒させていると、おずおずと抱きしめられる。
シュロさんのほうが背が高いから、彼の肩口に顔を埋める格好になる。なめらかな鱗の下に、硬い筋肉があるのが感じられた。
「反省してるんだ。君から目を離したから、ダナエに狙われた。次は絶対にこんなことさせない。君をしっかり抱きかかえて、守るから、だから」
「……だから?」
「……家を出るなんて、言わないよね?」
シュロさんの、こんなに微かな声は、初めて聞いた。
私はもそもそと腕を上げて、それから下ろして、また上げた。抱き返そうと思ったのだけど、急に恥ずかしくなってしまったのだ。
だから代わりに、私を抱くシュロさんの腕をぽんぽんと叩く。
「言いませんよ。むしろ今、家を出ていけと言われたらどうしようか、考えていたところです」
「どうせ君はまたあの森に戻るんだろ」
「ばれましたか」
「君は……アイノはさ、自分のこと、ほんとに軽く扱うから。何でもないことみたいに、簡単に、他人を優先してしまうから、一人でなんて置いておけないよ」
「……家にまだいさせてくれますか?」
「当たり前だよ! 君は僕の花嫁なんだから!」
嬉しい言葉のはずなのに、ほんのわずか、苦しい。
それはきっと、シュロさんの言う「花嫁」と、私の望む「花嫁」が違うからだろう。
私は笑みを作って、ゆっくりとシュロさんから離れる。
「さ、ナギさんが待ってますよ。行きましょう」
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