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1. 辞書の角で殴っただけなのに

どこか遠くで狼の遠吠えが聞こえた。


ろうそくの明かりは頼りなく、足元さえおぼつかない。夜の暗闇にぼうっと浮かぶ木々のお化けじみたシルエット、足裏に感じる舗装されていない土の感触に、どこか夢を見ているような気持ちになる。

けれどこれは夢でもなんでもない。背負った本の重みだけが、私を現実に縫いとめている。


――私は、家を追い出された。私が私であるがゆえに。


勘当を言い渡され、とりあえず荷物に断腸の思いで厳選した本を二十冊ほど詰め込み、森の方へ駆けてきたのはいいけれど、何しろ行くあても頼る場所も、今晩の寝床もない。

泣き喚くことができれば良かったのかも知れないけれど、私の頭はいかにして死ぬかということでいっぱいで、それどころじゃなかった。


たぶん、死ぬことで頭をいっぱいにして、自分の身に振りかかったことを忘れようとしているのだろう。


そう自己分析しながら、私はひたすら前へと進む。


「……だって、家族からも見放されたなんて、信じたくない」


父さんも母さんも、メイドのシルフも執事のダンも庭師のヒューイも、私を見放した。全員、例外なくだ。


「たしかに、他人の頭を辞書の角でぶつのは悪いことかもしれないけど」


でも、だからって、勘当まですることはないと思う。


そもそも、不美人は結婚してもらえるだけ有り難く思え、という言いぐさが気に入らない。

不細工は平身低頭して夫の足元に身を投げ打ち、感謝の涙で目を曇らせていろって言うのか。どんな理不尽にも黙って耐え、言い返すことも我慢しなければならないと言うのか。


「なんか、思い出したら腹立ってきた……!」


元・婚約者様がどれほど偉いのか知らないが、私は姉さんを馬鹿にされて黙っていられるほど間抜けじゃない。


辞書の角で元・婚約者様の頭をぶん殴ったのは事実だが、辞書といっても礼儀作法が纏められたぺらぺらのマナーブックで、怪我するほどでもなかった。

私の部屋に常備してある外国語辞典であれば、一撃で昏倒させられただろうに。チッ。


怒りのままにずかずかと進む。このまま疲れ果てて倒れるまで進むつもりだった。そうじゃなきゃ、眠る場所を探す心細さにやられてしまいそうだったから。


心なしか、狼の遠吠えが近くで聞こえた。

近くの草むらががさりと動いた。私はぎくりと足を止める。


風か、さもなくば何か――生き物か。


どうか前者であってほしいと祈る私の耳に、がさがさ、と断続的に生き物が動く音がする。せめてウサギのような小動物であって欲しいと願うけれど、私は知っている。

この森のウサギは昼行性だから、こんな時間に活動しているはずがない、ということを。


さっきまでの怒りはどこかへ行ってしまった。誰何の声を発するのさえ難しい。


「……ッ、だれ、なの」


喉から絞り出せたのは、自分でもびっくりするくらい微かで弱弱しいものだった。あ、こわい、と思ってしまうともうだめで、急に足が震えだす。


草むらが激しく揺れ、そうしてそこから唐突に大きな影が現れた。

ぬっくりとしたシルエットは、狼なんかよりはるかに大きい。


たぶん、私なんて、ひとのみだろう。


「ひ……!」

「わーっラッキー! 人だ人!」


私の身の丈二倍ほどもあろうかというその生き物は、思わず脱力してしまうほどの腑抜けた声を上げ、私の明かりの届く場所へ進み出た。


それは、龍人だった。


不夜城の国、アルハンゲリスク共和国に住まう長命の種族。

滑らかな鱗を持ち、二足歩行をし、人間と同じくらい上手に手を使いこなす賢者。

きらきら輝く真緋(スカーレット)の鱗、ワニのような顎から覗く真珠色の牙。こうもりみたいな大きな翼には、ネックレスみたいに細い金の鎖が幾重にも巻かれてあって、とても綺麗だった。


「わあ」


初めて見る。なんといっても龍人は、異界のいきもので、人間を死ぬほど憎んでいるというから。


それはもう、見つけ次第女子どもでも容赦なく殺すくらいに。


「いやあもうほんとにどうしようかと思った! 暗くなるし、東の洞窟はどこへ行ったって見当たらないし……! あ、そうだお姉さん、東の洞窟ってどこにあるか知りませんか」

「東ですけど」

「その東に向かってるつもりだったんだけどなあ」

「反対側ですよ」


そう言うと、ありゃ、と間抜けな声をあげて、龍人は笑った。牙をむき出しにして、目を細めたから、たぶん笑ったんだと思う。威嚇の表情、かもしれないけど。


優しげな龍人。この人なら、私のお願いを聞いてくれるかも。


「あ、あの。殺すんなら、その、爪でお願いできますか」

「うん!?」

「分かっています分かっているんです、龍人が武勲を重んじる気高い種族であるということは! ですが、今まで龍人の牙の標本はとれても、爪の標本は取れていないんです。私の死体に爪痕が残れば、少しは役に立つかも知れませんので」

「ええと、あの、殺さないよ?」

「ああそうですよね、私なんて殺すにも値しない人間ですし……。ですがそこを何とか。そうだ、私の背中に背負ってる本は、売ったら結構な金額になるんですけど、それを対価として頂くことは、」

「ストップストップ! あのね、さっきから前提がおかしいよ。僕は君を殺さない」

「……でも、龍人は、人間を憎んでいるって聞きます。見つけ次第女子どもだろうと容赦なく殺すって」

「ああ、まあ一部の龍人はね。けどそんなの一握りで、大体は友好的ないきものだよ」


そう言うと龍人は私の顔を覗き込み、再び笑みのようなものを見せた。


「僕はシュロ。きみは?」

「あ……アイノといいます」

「アイノ。きみみたいな若いお嬢さんが、どうしてこんな夜中に森にいるのかな」

「ええと、話せば長いのですが、家を勘当されまして」

「ありゃ」

「二度と家の敷居をまたぐな、と言われましたので、ありったけのものを詰めてここまで来たのですが、行くあてもなく……なので、森の養分になろうかと思いまして」

「言い方柔らかいけどそれって消極的自殺だよね? まあいいや、頼る親戚もいないの?」

「どうでしょう……。私が元・婚約者様をぶん殴って怒らせてしまったことは、恐らく周知の事実になっているでしょうから、誰も私を受け入れてはくれないでしょうね」

「大人しそうな見た目で、意外とやるねえ」


くふふとなぜか嬉しそうに笑ったシュロさんは、でも、と小首を傾げた。大きな体なのに、小動物じみた動きがやけに似合う。


「でも、元・婚約者さんとやらをちょっと殴ったくらいで、勘当までされちゃうものなのかな」

「相手が国一番の大成金だったのが災いしましたね。傾いたうちの台所事情も一気に解決してくれる素晴らしいお相手を、こともあろうに辞書の角で殴るなど言語道断、とのことで」


私を勘当することで尻尾切りをし、大成金様との縁をつなぎとめようとしたのだろう。不届き物は追放しました、今後ともよろしく、というところだろうか。弱者の悲しい生き方である。


「辞書の角。やるねえ」

「パン程度の厚みしかなかったのが悔やまれます」

「どうして殴っちゃったの?」

「姉を侮辱されたものですから」


詳しくは言うまい。彼が放った心無い言葉を思い出すだけで腹が立つ。

私の腹でまだぐつぐつと煮えている怒りを察したのだろう。シュロさんは微かに声をひそめて、尋ねた。


「後悔してる?」

「殴ったことを?」

「ううん、家を飛び出してきたことを」

「……後悔はしていません。どのみち家にいたところで針のむしろです。でもあの蔵書を手放してしまったのは、ちょっと、惜しかったかも」


ちょっとじゃない。だいぶ惜しい。曽祖父の代から受け継いだ写本に美本に巻物(スクロール)。あれをいつでも手に取ることのできた環境は、正直、すっごく惜しいけれど。


でも勘当を言い渡されて、のうのうと家にいられるほど、無神経でもないのだ。

シュロさんはうんうんと頷いて、


「なるほど。大体事情は呑み込めたよ! それじゃあ、行こうか」

「へ? ああ、そうですよね、ここは暗すぎます」

「言っとくけど、君を殺すのに暗すぎる、ってことじゃないからね」

「えっと、じゃあどこへ?」


そう尋ねると、シュロさんは翼を大きく広げて叫んだ。


「東の洞窟へ!」


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