6話
「ここが俺の家だよ」
放課後、掃除をさっさと終わらせ退散してきた三人は、途中のコンビニでお菓子やジュースを買いながら国道沿いを歩いた。焼き肉屋や本屋の林立する街並みから、やがてシャッターの閉まったラーメン屋やいつも休業している定食屋などに様変わりしてゆく。田舎にはままあることだが、繁華街から10分も歩けば瓦屋根の葺かれた古代建築が姿を見せ始めるのだ。
木戸川の家は国道から引っ込んだ住宅街にある。二階建ての一軒家で駐車場付き。縁側からは一面の田んぼが見える。夜になると蛙と虫の大合唱が始まるコンサート会場だ。おかげで夜中にたびたび目を覚まし、慢性的な寝不足に悩まされるのも夏の風物詩。
「へえー、結構普通ね」
「当たり前だろ」
木戸川と新田は自転車をとめ、彼の先導で玄関を潜る。すると、「あ、おにい、今日すごく暑いからアイス買ってきて可及的速やかに今すぐに」と後半呪文のように唱えながら、奥のリビングから肩のあたりで黒髪を切りそろえた小柄な少女が出てきた。
「もちろんチョコミント味ね。夏はあれ食べないとやってられな……」
そして、兄の後ろに立つ二人の超ド級美少女を目にした途端に固まり、
「今日は友達と勉強会するから行けないんだよ。あ、そうだ。こちらが板垣柑奈でこちらが新田ちひ」
「嘘――――――――――――――――――――――――――――――!!!」
六月の空に特大シャウトがこだました。
「……さっきは大変お見苦しいところをお見せしました」
リビングに座る新田と木戸川の両人に向けて頭を下げる芽衣。普段からは想像のつかない礼儀正しさである。実の兄を顎で使う妹とは思えない。
「いやいや、大丈夫大丈夫。あたしらだっていきなり今日お邪魔しちゃってごめんね?」
「と、とんでもないです! むしろよく来てくださいました!」
恐縮する芽衣の相手は板垣が務めている。新田は何やらしきりに家の中を見回し、そして木戸川は冷えた麦茶を人数分コップに注いでいた。
「じゃあ俺らは部屋で勉強するから」
「え? なんで?」
「なんでって――」
「ここでやればよくない?」
芽衣は床を指さした。
「お前はいいのか? 観たいドラマとかないの?」
「うん。わたしも新田さんと板垣さんとお話ししたいし」
「柑奈でいいよ」
「私も、千尋でいい」
「ほんとですか! 柑奈さん、千尋さん!」
女性は余所行きには外面を取り繕う。電話に出れば声が1オクターブ上がるし、なぜか笑顔が張り付いたままになる。以前母に聞いたら「そんなものよ」と端的に言われたので女性はそういうものだと思っていたが、今実際に妹にそうした姿を見せられると、なんだかんだコイツも女の子なんだなと木戸川は思った。
「じゃあ、ここでやるか。適当にテーブル片付けるから待っててくれ」
「わたしがやる」
そう言って、芽衣は率先してテーブルの上にあった飲みかけのコーヒーカップやパンくずのついた皿を片付けた。木戸川は相も変わらず不審そうな目でその姿を見ながら、お盆に麦茶とお菓子を載せて台所から運ぶ。
「さて、俺は今回数学Aが不安なんだけど、新田はどうなんだ?」
「私は古文」
「へえ、俺結構古文得意なんだよ。遠慮なく質問してくれ」
「分かった。木戸川も気軽に聞いてほしい」
「助かる」
「あたしは英語やろーっと」
そうして各々自分の勉強道具を取り出して、黙々とペンを走らせ始める。芽衣もちゃっかり中学数学のワークを出して勉強を始めていた。
結論から言うと、今回の勉強会は大成功だった。
中学時代首席という肩書は伊達ではなく、新田はすべての科目がまんべんなくできていた。特に数学や化学などの理系科目は強かった。もう勉強する必要ないんじゃないのと木戸川に思わせるほどだった。彼も現代文や古文などの文系科目にはめっぽう強いと自負していたが、うかうかしていれば新田にすぐに追い越されそうだった。
二人の学習は良いとして、問題は板垣。学校で見せた体たらくは健在で、英語は文法も単語も知識が無ければ数学も基本的な計算からおぼつかない。暗記科目の現代社会や生物は前日一夜漬けでなんとかなるにしても、これらの教科はとうてい間に合いそうにもないと木戸川は思っていた。
だが、新田のおかげでその不安も払しょくされた。
ただ自分で問題を解けるだけではなく他人に教えることにおいても頭一つ抜けていた。木戸川の指導にはハテナを浮かべていた板垣も、新田に教えてもらうと「なるほどー」とか言ってすらすらと問題を解けるのだ。それを見て感心もすれば嫉妬もする。俺もまだまだ未熟ものだな、とひとりごちる。
懸念材料だった芽衣も、逆に驚くくらい静かに勉強していた。中学二年生といえばまだ受検も遠いし、自分には何かただならぬ力が秘められているとか思い込んでマントを羽織り眼帯をつけて手に包帯を巻いて月に吠えるお年頃だが、妹は違うらしい。新田に教えてもらう時も実に謙虚なものだった。無駄な会話もほとんどしなかった。
なんだ、やればできんじゃねえか。
勉強がひと段落つき、オレンジジュースを飲みながら時計を見ると、午後7時を回っている。
そろそろ解散時だろう。
そう思っていると、玄関の戸が開いてバタバタと足音が聞こえた。
「ただいま~」
母が帰ってきたのだった。今日は高校時代の部活の友達とお出かけすると言っていたが、昼から今までというと随分と楽しめたようだ。
リビングに入ってきた母さんは両手にレジ袋を抱えていた。そこからはねぎの青い頭が見える。
「お客さん? ……あら、あらあらあらあら」
そして、リビングにいる新田と板垣を見て、急激に面白そうに顔をニヤつかせる。
「おかえり、母さん」
「あ、お邪魔してまーす」
「お邪魔してます」
「はーい。はじめまして、ハヤタの母の美奈子でーす。いつもうちの馬鹿がお世話になってます! それでお二方、これからの予定は?」
「え? いや、帰るだけですけど――」
「なら、ご飯食べていかない?」
「え!?」
「木戸川家だとこの時間帯に夕飯だからな。せっかくだから食べていけよ」
「いいの?」
「母さんがいいって言ってるから、いいだろ」
「じゃあ、お言葉に甘える」
「チヒロが食べていくなら……あたしも」
「決まりね!」
台所にいる母はたいそうご機嫌だった。
夕飯を囲んで食べ終え、団らんのようなものをすることしばし。気がつけば時計の針が午後9時を回っており、夏の日脚の長い太陽も沈んで、雲一つない夜空に種々の星座が乱舞する時間となった。
木戸川の驚いたことに、新田と板垣はすっかり母と妹に気に入られていた。普段よくしゃべる板垣が同性の母娘に気に入られるのは頷けたが、新田も母の気に入ったことは少々驚いた。「口数の少ない子ってなんか庇護欲をかきたてられるのよ」というのは母の談である。分からなくもない。ともあれ、それで思いのほか母と妹と二人の美少女の話が弾んだものだから、帰らなくていいのかと木戸川も聞くに聞けなかった。
「あら、もうこんな時間ね」
コーヒーをすすりながら美奈子がつぶやく。それでようやく両名も外がすっかり暗くなっていることに気が付いた。
「あ、ヤバッ! 流石に帰らないと」
「うん。お邪魔しました」
カバンを手に取りながら帰ろうとすると、
「そうだ、ハヤタ、あんた送っていきなさいよ。夜道に女の子だけだといろいろ危ないでしょ。最近物騒だし」
「ええ……母さんが話しすぎたせいだし、母さんが車で送っていけよ」
「千尋ちゃんは自転車でしょ? わざわざ明日取りに来させるのも悪いじゃない」
「分かったよ……」
しぶしぶ靴を履いて外に出る。6月は夏の入りとはいえ、まだ夜は春の名残をとどめている。
車の通りも街灯もない道を、三人横に並んで歩く。月明りでわずかに照らされている程度の道はやはり暗い。なるほど、乱暴を働くにはあつらえ向きの舞台である。そんなことを考えていると、「送り狼にはならないでよ」と板垣にくぎを刺された。新田をどうこうする勇気などない。
先に電車通学の板垣を駅まで送る。遠回りにはなるが、万が一彼女の身に何かがあれば、流石にやりきれない思った末のことだった。
彼女が電車に乗るのを見届け、木戸川と新田は二人で道を引き返す。日頃つけ回しているから新田の家の場所くらい知ってはいるが、家まで迷わず送り届けると不気味がられること必定なので、知らないふりをしながら隣を歩く。
比較的栄えた町から、再び暗い田舎道に戻る。
木戸川は隣を見た。新田の銀色の長髪が夜目にも見える。やっぱり綺麗だ。髪の毛のせいで彼女に惚れたというわけではないが、恋する者にとっては、好きな相手の全てが輝いて見えるのだ。それが欠点だろうと何だろうと。
「木戸川」
「え?」
いつしか街並みは田んぼへと変わり、そして今は川の土手を歩いている。
「どうして、高校になってから話しかけてくれなかったの?」
「……それは」
ごくり、とつばを飲む。
それは、お前が高校になっていろんな人に囲まれて、なんだか遠いところに行った気がしたから。
そんなことは口が裂けても言えない。
「ごめん」
「謝らなくていい。けど、これからはもっと普通に話しかけてほしい」
「そうするよ」
沈黙。
新田の自転車のチェーン音だけが聞こえる。既にまた住宅街に入っていたが、動くものは一つもない。
「ねえ」
「ん?」
無言。
その先を言うべきか躊躇しているらしい。空気を通して動揺が伝わってくる。
規則正しいチェーン音が止まる。その際、手が引っかかって甲高いベルの音が鳴った。
新田が口を開く。
「――木戸川は、どうして柑奈と付き合おうと思ったの?」