4話
木戸川隼大に歴史的な敗北を喫した翌日、いつも通りの時間に板垣柑奈は登校した。
席に座って教科書を取り出し、カバンを机の横にかけてから、彼氏になった男の姿を探す。自分から見て左に6つ、後ろに2つの席。彼の席はちょうど窓際の後ろから二番目の位置にある。
昨日の一件があって、昨晩はなかなか寝付けなかった。
彼女は小さい頃からすでに近所でも評判の美少女だったので、そのやっかみを受けてか小学校から中学校の九年間を通して友達らしい友達は一人もできなかった。近寄って来る女子はいても、たいてい自分が思いを寄せる男子を引き付けるための触媒程度にしか思ってもらえない。撒き餌じゃないんだぞ、と板垣は思う。そんなに好きならば搦め手を使わず直球勝負をすれば良いのに。どうせ男子なんぞボディータッチと上目遣いでイチコロなのだ。とにかく、男子には遠巻きにされ、女子には嫉妬まじりの仲間外れを食ったまま、孤独と失望の内に彼女の15歳の冬は終わった。
だからこそ、同級生に自分の水着を見せる機会など学校の授業以外になかったのだ。しかもスク水ではなくお洒落な水着を、それもいきなり同性ではなく異性に。それなのに木戸川は大したリアクションも興味も見せなかった。「綺麗だね」「かわいいね」「素敵だよ」と気の利いた言葉ももらえなかった。ムカつく。
木戸川はすでに登校して、本を読んでいた。ブックカバーがかかっているので何を読んでいるのかは分からない。どうせ昨日チラっと会話に出していたヤバめのライトノベルか推理小説だろう。両耳には白いイヤホンがつけられており、ケーブルは黒いスマートフォンにつながっていた。
何を聴いているんだろう。板垣は気になった。彼氏とはいえ昨日の今日で話し始めた男の趣味なんて知るはずもない。アニソンだろうか。彼ならありえる。それともJポップだろうか。それもありえそうだ。間違ってもヘヴィメタやKポップを聴くようなタマじゃない。
そんな板垣に一人の女子生徒が近づいた。
新田千尋。親友にして自分の彼氏のストーカー被害に遭っている少女。最も彼女はそういうあたり鈍いのか、彼に自分がつけ回されていることを知らないらしい。知っていればとっくにあの窓際の席は空席になっている。
新田が木戸川に話しかけた。名前を呼んでいるのだろうか、と板垣は思った。何回か新田が呼びかけると、ようやく気付いたように、木戸川が慌ててケーブルをつかんで乱暴にイヤホンを引き抜いた。あれではすぐに駄目になってしまいそうだ、と板垣は呆れた。今日も木戸川のテンパり具合は健在である。
耳をそばだてる。まだ生徒があまり登校していない時間帯なので、聞き耳を立てれば彼らの会話は十分に拾えた。
「木戸川、おはよう」
「お、おおおおはよう新田」
「昨日」
「え?」
「昨日、楽しかった」
「あ、ああ、それはよかった……ご、ごめんな。急に鼻血出してぶっ倒れちゃって」
「ううん、気にしてない。それよりもこれ」
「これって――」
新田は一冊の本を木戸川に差し出す。
「昨日、話したやつ」
「ああ、ミステリーか。か、貸してくれるのか?」
「うん」
「……あ、ありがとう! 大事に読ませてもらうよ!」
「読み終わったら、感想聞かせて」
「もちろん! あ、そうだ」
と言って木戸川は、さっきまで読んでいた本を新田に渡した。
「せっかくだし、俺もこれ貸すよ」
「いいの? さっき読んでたのに」
「何回も読んでるからな。いいよ」
「ありがとう。今日中に読むから」
「きょ、今日中って……結構長いぞ、それ」
「問題ない」
「そ、そっか」
そして二言三言交わした後、新田は木戸川から借りた本を両手で大事そうに抱えて席に戻った。戻る際、彼女の顔が板垣の方から見えた。
笑っていた。
これ以上ないくらい、すごく。
板垣は嫉妬にも似たような感情を抱いた。
チヒロとは出会ってからまだ二、三か月しか経っていないが、それでもあのストーカーを除けば学校の誰よりも長い時間を一緒に過ごした自信がある。二人でいろんな場所で遊んだし、昨日三人で入った喫茶店だって、彼女とつるむようになって初めて二人で入った喫茶店なのだ。その間チヒロとはいろんな話をした。ミステリーが好きであることもとっくに知っていた。小学5年生から陸上を始めたことも、6年生で早くも短距離で県大会を制覇したことも、学校の近くにある「麺麺亭」の野菜たっぷり辛みそラーメン税込850円が好きなことも、将来は医者になりたいことも、実は料理が下手なことだって知っている。チヒロは中学時代友達がいなかったと言っていたから、ここまで知っているのは自分だけのはずだ。チヒロを一番理解しているのは自分であると思い込んでいた。
でも、彼女があんなに楽しそうに笑う顔は、初めて見た。
それが悔しかった。あんな美少女の笑顔が、自分ではなくあろうことか彼女のストーカーに見せていることにとてつもない敗北感を覚えた。
――あたしだって、本の貸し借りくらい……。
机の中を漁ると出てきたのは、数Ⅰの教科書と問題集、コーヒーをこぼしてページの半分が茶色になった現代文の教科書、コンビニで買ったソーセージパン、小学生の頃から使っている筆入れ。小説は一冊もない。
チヒロが本を読むことは知っていたけど、まさか誰かと貸し借りをするだけであんなに幸せそうな笑顔を浮かべるほどとは思ってもみなかった。その事実だけで彼女の親友失格のアナウンスが脳内で流れるような思いだった。
認めるものか。
自分はチヒロの一番の親友だ。だからといって彼女の全てを知る必要はないが、少なくともあの男よりは多くを知っている必要がある。
板垣は決意した。そして再びイヤホンを装着して新田から借りた本を読み始めた木戸川の席へ向かった。
「ねえ」
「……」
「ねえ!」
「……」
「ねえったら!」
「うおっ! びっくりした!」
イヤホンを無理やり引き抜いて、耳元で叫ぶ。
「なんだ、お前かよ」
「何聴いてたの?」
そう言いつつイヤホンをつけると、耳からは聴くだけでゾワゾワっと鳥肌が立つような甘ったるい声がきこえた。
「アニソンだよ」
「へ、へえ。普段こんなの聴いてるんだ……チヒロも聴くの?」
「馬鹿言うな。新田はそもそも音楽を聴かない」
「そう」
それも初耳だった。やはりこのストーカー、伊達にチヒロと四年間交流していない。もしかすると自分よりも多くのことを知っているのかもしれない。
となると、やはりこの男を足掛かりにするべきなのだろうか。はっきり言って、こんな影の薄くてしかも何を考えているのか分からない犯罪者の後塵を拝するのは彼女のプライドが許さなかったが、背に腹は代えられない。チヒロは初めてできた友達と呼べるような友達なのだ。だから、彼女のことをもっと知りたいという思いは本物。そのためならば、この男に頭を下げることくらい造作もない。
「ね、ねえ」
「なんだ」
「その、あたしも読書初めてみよっかなー、って」
「そうか。頑張れ」
「――ど、どんな本がいいのかなーって!」
「どんな本って言われてもなあ……」
木戸川は困ったように腕を組んだ。
「ちなみに、お前は文章を読むのは得意か?」
「あ、あまり……」
「じゃあライトノベルなんかいいかもな」
「ら――ライトノベルって、あの表紙がやたらえっちなやつでしょ!? 信じらんない! 女の子にそんなの進めるなんて馬鹿なの!?」
「誤解だ! 確かにそういうものもあるけど健全でカッコいいラノベだってある!」
そう言って、彼はバッグから一冊の本を出した。
「それは?」
「『半分の月がのぼる空』。ラノベだけど、この作者は一般小説も書いてるんだ。この本だってそこらの文芸には負けないくらい面白いと俺は思ってる」
「ふーん……」
板垣は本を手に取って表紙を眺めた。雲の浮かぶ青空を背景に、紫がかった黒髪を長く伸ばした少女が一人描かれている。確かに肌の露出なんかもない。
「ありがと、これ読んでみる」
「おう。てか急に読書始めるって、なんかあったのか?」
「な、なんでもないから!」
チヒロと本の話や貸し借りをしたいから、けどチヒロから読む本を教えてもらうと対等じゃなくなる気がして嫌だから、と言えばこの男は笑うに違いない。
板垣の嫉妬は本当は誰に対して向かっているのでしょうか。