3話
今回は若干長めです。どうかお付き合いください。
放課後、木戸川と板垣と新田の三名はすぐに校舎を出て最寄りの駅へ向かった。
木戸川は早くも困惑した。
彼女である板垣が隣を歩くのはまだしも、なぜか新田までが板垣とは反対側の隣に歩いていた。まさに両手に花である。今まで人生でこんな時間を送ったことは一度としてない。
「で、今日はどこ行くの?」
「え、俺が決めんの?」
「今日はあんたがエスコートしなさいよ」
「って言われてもなあ……あ、に、新田はどこか行きたいとこある?」
「別に……」
「そ、そっか……」
三人で行く当てもなく歩く。駅から外に出てとりあえず遊び場やレストランが多いところを歩いていたが、いつの間にかため池を片手に見るオフィスビルの立ち並ぶ区画に来ていた。「も、もどろっか」と木戸川の一声で元来た道を戻るも、今度は中学校のある住宅街までノンストップで来ていた。「ぶらりお散歩デート作戦」失敗の音が脳裏に響く。
「ちょっと、なんでさっきから歩いてばっかなのよ」
「しょ、しょうがないだろ! 普段駅前とか来ないんだよ!」
「はあ? 普段どこで遊んでんの?」
「遊ばねえよ、その……直帰だ直帰」
まさか新田の前で「あなたのことをつけ回しています」などとも言えないのでお茶を濁す。板垣も今の会話は悪手だと分かったのか決まり悪そうな顔を浮かべたが、すぐに「寂しい男ね」と高慢な口調で返した。
「望んで直帰してるんだよ。こんなところで金なんか使わねえし」
「何に使ってるの?」
新田が会話に割って入る。
「げひっ!? え、えっとー……本とか?」
「そうなの? 私も本が好き」
「そ、そうなんだ」
知ってた。
割と高頻度で本屋に足を運んでいるのを見てきたから。
そもそも中学時代にも聞いたことがあるような気がするが、新田は忘れてしまったのだろうか。
「新田はどんな本読むんだ?」
「ミステリー」
「へ~、なんかチヒロらしいかも」
板垣は新田を眺める。
ミステリアス。
最初に彼女を見た時に抱いた感想がそれだった。ミステリアスだからミステリー好きそう。人物に例えれば、連続殺人事件の鍵を握っている人物。たいてい美貌で痴情のもつれを引き起こす。そして最後には事件の真犯人へのレクイエムを歌うか探偵役とのロマンチックな恋を経るかして舞台を退場するのだ。
木戸川も新田に対して同様の印象を抱いていた。
「俺もたまに読むよ、ミステリー」
「そうなの?」
ぐい、と新田が顔を近づけてくる。彼女の人形のような精巧なつくりの顔立ちを間近に見て正気を保てる木戸川ではない。しめて五分ほど黙る。呂律どころか思考も回らない。ミステリー? ミステリアス? 神秘主義? スーフィー? イスラム原理主義? 推理小説。
「――あ、ああ。三津田信三とか綾辻行人とか」
「私はヴァン・ダインとかディクスン・カーみたいな海外のミステリーが好き。今度、貸す」
「え、いいの?」
こくりと頷く。
「同じ本のこと、語りたい」
「じゃあ俺も、なんか貸すよ。あっ、つってもミステリーよりは恋愛の方が多いかなあ」
「どんな本?」
「えーっと、ある日突然美少女と家族になったり、ヤンデレのブラコン妹に殺されそうになったり……コホン」
しまった。ついうっかり自分の性癖をさらけ出すようなことを言ってしまった。
新田は首を傾げ、板垣はさげすむような目をしている。それ、チヒロにおすすめするタイプの本じゃないでしょ。ごもっともです。
「……というのは冗談で、純文学が好きかな。最近は電子書籍で全集が200円くらいで買えちゃうから。もちろん紙でも持ってるから、後で貸すよ。」
「ありがとう、嬉しい」
直球な感謝をされ、木戸川はドギマギしてしまう。しょせんはストーカー、想い人の前に出れば一気にあたふたするものである。
「あたしもチヒロと同じ本読みたいな~」
板垣が新田の肩に両手を載せる。
「もちろん。でも……木戸川の本も読んであげて?」
「え゛」
板垣は引きつった笑みを浮かべた。
木戸川はニヤリと笑って彼女の耳元に囁く。
「おうおうそうだぞ。なんたって彼氏なんだからな。後で俺厳選のおすすめ萌え萌えライトノベルを貸してやるからな」
「うええ……」
分かったことが一つ。
板垣は新田の頼みに弱い。
* * *
またしばらく歩いてから、木戸川は昨日二人が訪れていた喫茶店に寄ることを提案した。新田はやや驚いた様子で「木戸川、あの店知ってるんだ」と言ったが、家族がどうたらこうたらで知ってるんですと言って早足で入店した。板垣は声を押し殺して笑っていた。覚えてろよ。
「さあ、遠慮なく注文してくれ。俺のおごりだ」
「マジ? やったー!」
「でも……」
奢り、と聞いた二人の反応は対照的だった。木戸川的には新田のリアクションの方が嬉しい。奢りと言って喜ぶ奴は次に一緒に出かけても奢らせようとしてくる気がする。それに社会では男が女に奢るのがルールらしい。冗談じゃない、誰が好き好んで自分を脅迫している女に奢るものか。新田みたいに優しい女の子になってから出直してこい。
とは口が裂けても言えず、ニコニコと取り繕った笑みを浮かべる。彼の今後の人生は現状板垣柑奈という少女に握られているのだ。
「いいんだ。気にすんなって」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
ちょっと笑った。
心臓が跳ねる。
胸の奥がこそばゆくなって、自然と表情がだらしなくなってくる。
「何笑ってんのよ、キモッ」
「うるせえよ」
木戸川はオムライス、新田はナポリタン、そして板垣はハンバーグステーキを食べた。やはりこの店の料理は美味い。昨日はチーズケーキしか食べなかったし、急いで口に詰めたからあまり味も覚えていない。だが今日のオムライスは実に美味だった。
木戸川が悦に浸っていると、
「で、この後どうするの?」
と板垣が尋ねた。
時計は17時30分を指している。
まだ帰るには少し早い時間だが、もう飯も食ったしどこかに行く気力もない。
そう言おうとすると、
「水着」
「え?」
「水着、買いたい」
絞り出すような声で、新田が言った。
水着。
確かに今は6月で、定期試験が終われば夏休みで、そうすればクラスのリア充グループに所属する新田のことである、海やプールに行く機会だって一度や二度ではない。好きな人のためにちょっときわどい水着を買うのも、フリフリのかわいい水着を買うのも一つの醍醐味だろう。
合法的に、新田の水着姿を見ることができる。こんな機会は世界がバク宙してもそう巡り合えるものではない。木戸川が飛びつかない理由などなかった。
「水着か……でもなあ、俺がいていいのか?」
「うん、むしろいてほしい」
「え、え? マジ?」
「調子に乗んな」
板垣が木戸川の頭をはたく。
「でも水着かあ。確かにあたしもそろそろ新しいの欲しいかも。せっかくだし行こっか」
「うん」
新田がうなずく。ほとんど無表情のままだが、嬉しそうにとことこ板垣の背後についた。
木戸川にとって女子の水着は縁遠いものだった。
中学までは男女混合の水泳の授業ということで、股間のきわどいスクール水着を着た女子たちの群れる間をそれは大喜びで泳ぎ回って筋骨隆々の教師に叱られたものだったが、中学二年生から徐々に水泳の授業が減り、それと同時に女子の水着を見る機会も減った。今では海開きのニュースで流されるビキニ姿の日焼けしたチャンネーを見るのが精いっぱいというところだった。
だから、こんな四方八方を撥水性の布に囲まれた経験など久しくなかった。
新田と板垣にのこのこついてきたはいいものの、店の外で待っているつもりがなぜか店内に無理やり引っ張り込まれた。「男子の目線から見たアドバイスがほしい」ということだったが、彼に水着の良しあしなど分かるはずもないし、新田や板垣のような目も覚めるような美少女であれば、全身タイツのようなよほどひどいセンスでもない限り褒めない男などいないのだ。
そして現在、新田と板垣のご両人は己の欲するところに従って水着を選び、試着室に入った。木戸川は無論外に待たされることとなる。
その間に浴びる視線、視線、視線。
そもそも最初に入店した際、放課後に好きな女子をストーカーしてそうな冴えない顔立ちの男子高校生が、片や銀髪碧眼の浮世離れした美少女、片やライトブラウンの髪を揺らすウェーイ系っぽい美少女を従えていたのだ。目立たないわけがない。あからさまな舌打ちや囁き声こそ聞こえなかったものの、好奇の視線は痛いほど感じていた。
――早く終わんねえかなあ。
女子の着替えは思ったよりも時間がかかるらしい。木戸川は足踏みをしてしきりにあたりを挙動不審に見回していた。
カーテンが開いた。
「どうよ?」
最初に着替えたのは板垣の方だった。彼女は黒のビキニというともすれば扇情的な水着を身にまとっていた。試着室の前を通っていたカップルの男が思わずその姿に見とれる。そして彼女に思い切り頬をつねられしょっぴかれていく。女学生の集団が彼女の姿を見て「何あの子、すごいかわいい!」「アイドルかな?」などとコソコソ話をしている。つまりは、それほどまでに彼女の水着姿は絵になっていた。
あくまで客観的に言えば、の話だが。
「ああ、いいんじゃないか?」
木戸川はちらりと視線をやっただけで、すぐに手元のスマホに視線を落とした。画面には某巨大掲示板のまとめサイトが映っている。板垣は愕然とした。とどのつまり、板垣の水着姿はくだらない議論の飛び交う文字列に負けたのである。
男子に水着を見せるのなんて、初めてなのに。
同年代の男の子にこんなに肌を晒すのなんて、はじめてなのに。
板垣は屈辱的な思いだった。勢いに任せてここへ来たはいいものの、思えば彼女は異性の前で素肌を晒した経験など皆無だった。水着を選んで試着室に入ったところで、彼女の羞恥心は限界突破した。顔が沸騰して湯気が出た。鏡を見ればゆでだこのようになった自分の顔が映った。
恥ずかしい。
今から「ごめーん、やっぱあたし水着持ってたわ」なんて言ってここから出て行きたい。だがそれは同時に己の敗北を意味する。木戸川に対する敗北。こんなストーカー男に素肌を晒すことが恥ずかしいだなんてことがあっちゃいけない。むしろもっと扇情的な、それこそマイクロビキニみたいな必要な場所以外何も隠れていない水着を着て見せ彼に「うわわわお前なななんてもん着てんだ」と壊れたスピーカーのように言わせるくらいの気概がなくちゃいけないのだ。こんな黒いビキニ程度で何を恥ずかしがる必要があるというのだ。
そう自分に言い聞かせてカーテンを開けた。本当はカーテンの端を三回くらい握っては離したし、彼の前に出るのも身体にダイナマイトを巻き付けて敵地へ飛び込むような勇気が必要だった。
なのに、「いいんじゃないか?」とはなんだ、「いいんじゃないか?」とは。しかもすぐにスマホいじりに戻って。今すぐ外に出て彼のムカつく横顔を思い切り蹴り飛ばしてやりたいところだった。けど、分かっていたことじゃないか。彼の興味は最初から新田にしかないのだ。自分に魅力がないのではなくて、彼の頭がどうかしているのだ。
彼女の怒りが踏みとどまると同時に、隣の新田の入った試着室のカーテンが開いた。その瞬間、板垣にも分かりすぎるくらい分かりやすく木戸川の顔が変わる。
ほんの少しイラっときたので、試着室から出て友人の姿を見に行く。そして固まった。
彼女はフリルのついた花柄の上下を着ていた。
過剰な装飾もない。金の刺繍もなければ華美な色使いでもない。多分海に行けばごまんと見られるようなありふれたデザイン。
なのに美しい。
なのに眩しい。
シンプルなデザインでも、新田千尋という天使が身にまとうだけで、それはどんなドレスよりも高貴になり、清潔になり、そしてかわいくなっていた。
女の自分が見とれるほどなのだ。男の、まして恋焦がれている男子が正気でいられるはずがない。
木戸川は毒でも盛られたかのように目をかっと見開いて新田を凝視した。それが何分も続いたかと思うと、つう、と彼の鼻から口にかけて鮮紅色の縦線が入って、やがてそれが顎まで達してぽたぽたと地面に滴り落ちて、彼は糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
結局、それが騒ぎになって今日の三人デートはお開きとなった。
幸せそうな顔を浮かべて血の海に横たわる木戸川とおろおろとする新田を見ながら、板垣は釈然としない顔をしてその場に立っていた。