2話
翌日教室へ行くと、すでに板垣柑奈と木戸川隼大が付き合い始めたという噂が広められていた。
彼が教室へ入ると級友の加藤泰河がニヤニヤ笑いながら歩み寄ってきて、「おいおい、お前やるなあ。学校の二大美少女の一角を落とすなんてさ」と声をかけてくる。木戸川は「まあ、いろいろあってな」とのみ言い、自分の席へ着く。窓際の後ろから二番目の席。朝の風が心地よい。
普段であれば、勉強道具を取り出して宿題を進めるところなのだが、彼は気分転換に音楽を聴くことにした。クラス中の視線が集まっているなんてことはないが、それでもおそらく板垣とかかわりのあった連中からは品定めをするような不躾な観察をされた。それを拒否するように一昔前のアニメの主題歌を流し、ぼんやりと机の木目を見る。改めて見るとこことここが目でここが口だな、などと思っていると、不意に右肩を叩かれた。
新田千尋が立っていた。
息をのむ。
深呼吸。
すう、はあ。
よし。
「お、おはよお゛、新田っ」
変に力んだ。
「おはよう、木戸川」
新田は涼し気な声で答えた。
実に、高校に入って初めての会話だった。
それこそ中学時代は朝会えば「おはよう」、昼には一緒に弁当を食べて昨日の刑事ドラマがつまらなかったのなんのと喋り、放課後には勇気を出して一緒に帰ったりなんかもしていた。間違っても「おはよお゛」なんて発声はしなかった。
「ど、どうしたんだ?」
無言。
そのまま持ち主が外している席に座る。
身体ごと木戸川に向けてくる。ジイ――――――――ッと顔を見てくる。その不可思議な引力に逆らえず、まともに目を合わせる。
サファイアのような瞳だ。
この瞳に見られると、彼の心臓はいつも狂ったように早鐘を打ち始めるのである。
「……昨日」
「え?」
今度は別の意味で心臓がドキドキしてきた。
もしかして、アイツ言ったのか?
昨日、散々脅してきたくせに。
判決を聞くような面持ちで待っていると、
「柑奈と、付き合い始めたの?」
「……あ、ああ。そうだよ」
よかった、ストーカーのことはバレてない、いやよくない、中学からずっと好きだった新田に交際報告なんてしたくなかった。
「どうして?」
「どうしてって……む、向こうから告白してきたんだ、『付き合ってください』って。俺も彼女いなかったし、いいかなって」
一つ一つ言葉を選ぶように言うと、新田は無表情のままうつむいた。
沈黙。
新田が何を考えているのか分からない。
親友がこんな影薄い奴と付き合い始めたことがよっぽど不服だったか?
一発くらいぶん殴られる覚悟を決めると、
「そう」
それだけつぶやき、新田は自分の席へ戻った。
それが木戸川には、どこか寂しさを感じさせた。
* * *
あの後すぐに板垣が登校してきたかと思うと一気に女子を中心に人だかりに囲まれ、「木戸川隼大と付き合うことになった」件について怒涛の質問攻めを食らっていた。クラスでも影の薄い木戸川に聞くのは憚られたからだろうが、板垣は流石に若干引いていたし、木戸川も木戸川で避けられているという事実にひとしきり打ちひしがれていた。
そして昼休み。
「付き合ってんだから周りにアピールするわよ」という板垣の発案もとい命令に従い、二人は教室のど真ん中の板垣の席で向かい合って弁当をつついていた。「明日は学食だからね」とくぎを刺され、妹の弁当を食べられない日ができることに木戸川は落胆する。
「でもまっ、いい感じじゃない?」
教室を見渡しながら、板垣が満足げに言う。クラスメイトは昨日までなら決して木戸川に向けなかったであろう好奇の視線を二人に投げかけている。板垣の友人などはぜひとも馴れ初めを聞きたくてソワソワしていたが、得体のしれない木戸川に気が引けているようだった。
「ああ……」
「これで告白されることもなくなりそうだし」
「ああ……」
「やっとあたしの快適なスクールライフが来るのね!」
「ああ……」
「ちょっと」
ぐいっと頬をつねられる。
「痛い痛い痛いです板垣さん」
「無視すんな」
引っ張られた頬を撫でる。
「なんか心ここにあらずって感じだけど」
「……当たり前だろ! 新田の前で直接『板垣と付き合います』って言ったんだぞ! なんで自分で自分の首を締めなきゃならないんだよ!」
「あんたがストーカーなんてしたからでしょうが」
ぐうの音も出ない。
木戸川は弁当に入っている卵焼きを口に入れた。店や他人が作るよりもしょっぱい。彼の濃い味志向に妹がしぶしぶ付き合った特注品である。「もー、お兄ちゃんもそろそろ健康に気を使ってね?」というおまけ付きで。
「まあ、あたしだって何も一生それで強請るつもりもないし、それにあんたの恋路だって踏みにじろうと思ってるわけじゃないから」
「ほんとか?」
「ほんとよ。誰かの恋愛に口出しする権利なんてないでしょ」
「ならストーカーのことは忘れて俺と別れてくれ」
「それは無理。他に使いやすい男もいないし。あんたってチヒロ一筋だから変にこじれてあたしにゾッコン、って展開もなさそうだし」
「当たり前だろうがあ痛っ! お前脇腹はマジでやめろ!」
「ふーんだ。デリカシーってものを学びなさいっての」
そう言って一通りすねた後、板垣は木戸川の四角い青色の弁当に目を落とした。
「あんたもしかしてその弁当箱、チヒロの目と同じ色だからって理由?」
「んなわけないだろアホか。たまたまだよ」
「ふーん。あ、唐揚げもーらいっ」
「あっ!」
無情にも、お楽しみの茶色い物体が板垣の口に消える。
「――なにこれ、うまっ。冷凍――じゃないよね」
「……ああ、倫子の手作りだよ」
「誰それ?」
「彼女――いたたたたたたたたいたあいいもうといもうと妹だから」
「へえー」
板垣は感心したように手を離す。
「妹さん、料理美味いんだね」
「まあな、自慢の妹だよ」
「仲いいの?」
「ああ、俺はそう思ってる」
「向こうはそう思ってない――っと」
「おいなんでそうなる。……てかお前、俺の弁当からおかずとったんだから俺にも一つよこせよ」
「いいよ」
そう言って、ピンク色の容器に敷き詰められたおかずを突き出した。
「じゃあこのハンバーグを――いや、アスパラのベーコン巻きにしようかな」
ハンバーグをとろうとして泣きそうになる板垣を見て慌てて緑と肌色の食材をつかんだ。
「美味いな。これ、お前がつくったのか?」
「ううん、お母さん」
「へえー。美味いな。お前は料理しないのか?」
「たまにするけど、朝起きらんないんだよね」
「なるほどな。自慢じゃないけど俺はたまに料理するぞ」
「それってカップ麺にお湯入れて3分測る料理?」
「ちげーよ! ちゃんと生姜焼きくらいつくれるっての!」
「へえー、意外。あんたストーカーだしそういうの無理そうだと思ってた」
「関係ないだろ……将来、新田と結婚した時主夫にも対応できるように頑張ってるんだよ」
「割と関係あるじゃん……」
ドン引きする板垣の冷たい視線を無視して、彼は新田の方を見た。
彼女は相変わらず6、7人くらいの男女に囲まれて座っている。彼女は自分から喋ることはあまりないのだが、周囲の人間が適宜話題を振っているらしい。新田もそれに無難に答えている。時折周囲がばっと笑いに包まれることがあるも、かすかに目を細めるだけで笑わない。
目が合った。
すぐに逸らされた。
「はあ、結婚してえ」
「……仮にも目の前に彼女がいるのに言うセリフじゃないよねそれ。誰かに聞かれたらどうすんのよ……そうだ、いいこと考えた」
「なんだよ、いいことって」
木戸川の疑問には答えず、板垣は離席する。
向かった先は――、
新田の席だった。
「ねえ、チヒロ」
交わしていた会話をやめ、新田が板垣を見る。
「どうしたの?」
「今日の放課後、部活ある?」
「ない」
「じゃあさ、遊ばない?」
新田は目を丸くする。
「でも……木戸川が」
「アイツも含めて、三人で」
ガタッ。
木戸川が一瞬立ち上がり、またすぐに座る。
「何やってんのよ」と板垣は目で非難し、すぐにスマイルを浮かべて新田に向き直る。
「三人で――」
「そ。チヒロはあたしの友達だし、彼氏のこと紹介しようと思ってね」
「……」
新田は考えるようなしぐさを後、こくりとうなずいた。
「よし、じゃ決定ね」
板垣が肩を叩くと、新田は喜んでいるような泣いているような、複雑な表情を浮かべた。
「どういうことだよ、オイ」
木戸川は戻ってきた板垣を詰るように言う。
「どうもこうも……三人で今日遊びに行くってだけよ」
「どうしてだよ!? 普通俺とお前か、お前と新田かの二択だろうが!」
「鈍いわね」
「はあ?」
「あたしがせっかくチヒロと合法的に遊べる機会を設けたのよ。あんたはちゃんとこれを活用しなさい」
「活用ってなあ……普通、彼女持ちの男子には必要以上に近寄らないもんじゃないのか? 気まずいだろどう考えても」
「……」
「考えてなかったのかよ!」
「うっさいわね! でもチヒロは来るって言ったじゃないの! 少なくとも何か考えてるんじゃないの?」
「確かに……」
普通なら「あ、デートの邪魔はしたくないから」と言って断るものだろう。自分だってそうする。しかし新田は了承した。彼女のことだ、何も考えず――なんてことはないだろう。単に板垣と自分の馴れ初めやどこまでいったかを聞きたいだけだとしても、この機会に距離を少しでも縮めておくのは悪くないだろう。
木戸川はそう考えた。
「そうだな、お前の言うことも一理ある」
「じゃ、決まりね」
かくして、木戸川は新田千尋と板垣柑奈という学校の二大美少女と放課後遊ぶことになったのである。