前編
頭を悩ませている問題がある。プレハブ小屋に毎日、巣または網作っている蜘蛛のことだ。
俺は学生の頃からトレーディングカードゲームに興味を持ち始めた。TCGと略されるが、能力値やキャラクターの秀麗イラストがかかれたトレーディングカードをテーブルに並べて相手と戦闘を繰り広げる対戦型ゲーム。使用するトレーディングカードを買って集めなければ始まらない訳だが俺はまず、数十枚、とカードが初心者用に構築されたデッキ(セット)を購入し、それを基に各地の書店やゲームショップの片隅で行われている大会に顔を出してみた。それからというもの、大会は公式・非公式・ただの野郎集まりなど、形式に関係なく何処であろうとも積極的に参加するようになっていったのだった。
カードも始めはデッキひとつで頑張っていたのだが、やはり物足りなくなり数枚入りで売っているブースターパックを買い出すようになった。どんどんと深みに嵌められていくようで、毎月の小遣いやバイトの給料の占める出費の割合も一緒に大きく膨らんでいった。デッキケースの柄にこだわり、勿論常識だがカードは1枚1枚をスリーブと言われる外装フィルムに入れるようにして、財布の景気のいい時はブースターもBOX買いをするようになった。必要のないカードや重複したカードは試しにネットオークションで出品してみたら買い手がつき儲かったのに味をしめ、今後の小遣い稼ぎの手段のひとつになっている。旬な時は万単位で取引可能だった。気分はかなりの悦である。しかし直ぐに次なるカードへの出費へと……金は消える一方なんだがな。とほほほほ。
と、まあ。そんな学生の時分が過ぎようとする頃になってからだ。俺は将来のことを四六時中考えるようになっていた。いや、もっと昔から考えてはいた。ただぼんやりと、想像できない自分の姿を。どうなっちまうんだろうかと常々に。あっちゅう間に時は過ぎたがな。
さあこれからフリーター突入かと思われた矢先だったんだ。俺は幸運にも矢坂というTCG界じゃ帝王とも呼ばれる男と出会った。ほんのしょぼくれた小さな大会で対戦相手として出会い、俺はありったけの力で奮闘したが2回戦で惨敗し。握手した後色々と身を明かして話し、会話は弾んで意気投合した。そして。
何と店を経営することになった。
帝王・矢坂という男はTCGを含め市場では様々な実績を残している男だったようで、会社をする傍ら俺のような暇人を見つけては『どうだやってみないか』と声を掛けているんだそうだ。ははあ。
最初、右も左も訳わからん状態だった俺だが、事務の加代子さんと来さんが力になってくれて俺は大いに助かっていた。2人とも接客の方が向いてそうなほど笑顔がチャーミングな女性で、もし自分に妹がいたらこんな双子が欲しいぞと思えてしまった。普段他愛ないおしゃべりでは、にこにことしていて笑いも引っ切り無しに続くのだが、仕事となるとその様相はガラリと変わり。俺は天使から地獄の鬼にでも化けたような2人にしごかれ尻に火がつき、休まる余裕もまるでなかった。
先が全く見えず頼りなく始めた我が店の名は“カ・ミューン”。別に俺の名がカミオだからだとか、そんな理由ではない。俺の名前は澤田慧太だ。店の名前は単に英語の“カモン”をもじっただけである。
さて。このTCG専門店の店長ではあるが。実は矢坂さんや事務のお姉さん方の下っ端という素晴らしく微妙な立場にいる俺の。今一番の悩みとは。
冒頭でお伝えした。
店であるプレハブ小屋に毎日巣作っている蜘蛛のことである。
どのように巣を作っているのか。そう、普通なら。部屋の角隅や人目のつきにくい所など、蜘蛛も自らの立場をわきまえて住処を構えているもんだと思っていた。しかしだ。店の。
屋内堂々と中央に蜘蛛はどんとこせと巣作って居座っていたのだ!
レジカウンターから見て左から右からと、TCG関連商品がズラリと並んだショウケースの上、天井から近く、蜘蛛のチラチラと蛍光灯に照り光る糸はダラリと軽くしなってはいるが、長くてまるで暖簾のように垂れ下がっている。
しかしその暖簾が1本や2本の筋ならまだよかった。すぐ切れそうなものだ。だが。
困ったことにその暖簾はとびきりの芸、術、作、品、だった。
「何だとお……」
最初は誰かがペルシャ絨毯でも買ってきて洗濯し干しておいたのかと思った。それほどまでに、まさに縦糸と横糸で器用に『編みこまれ』た芸術の模様――それが蜘蛛の糸だと判明したのは少し間を置いてからだったが――の出現に、俺は度肝を抜かれてしまった。
それを初めて目にした日の朝を振り返っておこう。
いつも俺は。店を開けようと定時である朝の9時に車を飛ばしてやって来て、警備のかかったドアを開ける。それから売場へと突き進んで開店準備の開始だ。そのはずだったんだ。だがそこで……俺はいきなりアーチックな世界へいらっしゃいませと踏み込むことになってしまった。
う、美しい。
奇跡だ。
俺はしばらく呆然と、それに魅入ってしまっていた。
左右の壁の狭間でまだ照明を3分の1しか点けてはいない薄明かりの中で。この『作品』は俺に衝撃と感動を与えてくれたのだ。
時間だけが過ぎていく。何処かでカッチコッチと鳴る時計の音がよく響いている。冷え錆びた……幽玄の世界だ。いっそここには時間が存在しない……。
……なんて昇天した顔でウットリ堪能していたら。
「何やってんの、澤田君」
名前を呼ばれ俺はハッとして現実に舞い戻ってくる。背後から浴びせられた声の主を確認する前に俺は高く掛けられていたアナログ時計を急いで見ると、10時5分。「やべ……」
開店時間をとうに越えていた。ここに来たのが9時10分頃だったから、1時間近くもこんな所で突っ立っていたということか。何てこった!
「すんません加代子さん! ついあれにみとれてて……」
俺の後ろに立っていたのは事務の加代子さんだった。白のスカートスーツに白のヒールを履いている。耳元のシルバーのピアスが輝いて、微かに甘い香水の匂いが漂った。
「何なのこれ。新しい趣向?」
加代子さんもキョトンとして巣を見ていた。
「んな訳ないですよ。昨日の帰りには無かったのに、たったひと晩でこんな……」
俺は頭を掻きながら、さてどうしたものかと悩んでいた。
「まあ、とにかく邪魔ね」
加代子さんはすぐ傍の壁に立てかけてあった軽めの箒であっさりと巣を払いのけてしまった。「ああ!」
俺からつい声が漏れ出す。「何よ。だって営業妨害じゃない」
加代子さんに躊躇や情けはなかった。やがて巣は全て箒に絡みつき床にも落とされ、回収され水で洗われ最後に排水口へと消えていった。
それからというもの。
蜘蛛の糸は、毎朝毎朝と。芸術作品を俺に見せつけてくれるようになったのだった。
始めの方は曼荼羅やら幾何学模様やらベイズリー柄やらと『柄』で俺を圧倒させ攻めていたのだが、次第にモナリザやヴィットーレ・カルパッチョ、葛飾北斎と『絵』で攻めてくる。そして今度は芸能人やミュージシャンなど、『人物』を糸で表現してくれた。
素晴らしい。ただただため息をつき驚嘆するばかりだ。
思わず携帯で写真を撮り、今度金銭に余裕があればデジカメを買って被写体をちゃんと撮って収めようと思っていた。
「ふん!」
思い切る鼻息の音をさせて毎日奮闘しているのは加代子さん及び来さんだった。毎日毎日、箒で巣の撤去に励んでいる。
「見てないで何とかしなさいよ!」
時々俺も怒られる。言われて渋々、買ってきて増えていく箒の1本を手に取り撤去作業に協力する。加代子さんの言う通り、これでは営業妨害だな、確かに。
何て蜘蛛の巣発見から2週間になってようやくそれに気がついた時。
もう1つ気がついた。『奴』は、何処にいる……?
俺は初歩的なことに気がついたのだ。巣の『家主』をまだ見ていないと。会ったら会ったでこんにちは精が出ますねと挨拶の1つはしてみたいもんだと思うが、一向に姿を現さない。これはおかしい。
まさかシャイなのか。
「あーもお! 毎日毎日い! こうなったら……!」
ある日ついにキレた加代子さんは、その細い腕で隠された所に仕舞われていた必殺凶器を持ち出してきた。グレー色のスプレー缶。商品名は『ムシ・コロース』。ネーミングに捻りもなく殺虫スプレーだ。
「何処に潜んでいるのかしらね……?」
加代子さんの目の奥が妖しく光る。何処か芝居がかっている加代子さんの風体。「イーヒッヒッ……」素でないことを祈るばかりだ。
「こら加代。今そんな物を振りかけちゃ、臭いが付いて商品が傷んじゃうでしょ。とにかく、澤田店長。このままでは迷惑ですので、今夜何とかして下さい」
後から出勤してきた来さんが俺にそう言ってきた。
「へ? 今夜?」
「だって閉店後に活動してるんでしょ蜘蛛。だったら待ち伏せて、話つけてきて下さい」
蜘蛛と?
俺の目に映っているのは、ムシ・コロースを片手に店の隅々にまで目を行き届かせて獲物を探している屈み込んだ加代子さんの背中と、とっとと必要な書類を持って持ち場へと戻って行こうとする来さんと。フォトフレームに入れられ毎日1つずつ増えていく蜘蛛の糸作品を撮影しプリントされた写真が飾られた壁。
これが俺の店長ライフなのか。……何で。
今日は木曜日。発注した新商品がどっと勢いよく届き、接客傍ら朝から商品の整理と陳列とに追われ大忙しだった。客の年齢層は主に子ども。プレハブ小屋という、こじんまりとした店でもあったので、たった十数人の人間が来ただけで屋内はもう満員だ。金銭的に人も雇えない自分とあっては、基本ひとりで頑張るしかない。事務の加代子さんと来さんが開店当初から応援に手伝ってくれているのでかなり助かってはいるが、本当にひとりだけでしようものなら相当の覚悟を用意しておいた方がいいだろう。とても好きでないとやっていかれない。
午後からは公認の大会だったが、特に問題はなく時間は過ぎていった。
さあこれから夜。
俺は売上集計、荷物の整理、売場の掃除、明日の発注確認など日課を終えてパイプ椅子に腰かけて休んでいた。店を閉めてから数時間。忙しかった今日はいつもより作業に時間がかかり、もう日が変わろうとしていた。
カッチコッチ。静かな店内に時計の音は規則正しく音を立てる。椅子に腰かけて売場を見渡し眺めながら、自分の人生というものを考えていた。
俺、このままここにいていいんだろうか。
途端に顔が曇る。心に影を落とす。俺は少し不安になった。
壁際には、本日入荷した商品も含めTCGのBOXや関連商品としてファイルやスリーブ、フィギュアなどが並んでいるショウケースが場をとっている。壁にはキャラクターや予定が書かれた広告ポスターが貼られて見るにとても賑やかだった。
2次元的な物はここにたくさんあるが、人間は今俺しかいない。
ひとりだ。
もうかれこれ上京してから何年経ったのだろうか。親父とおふくろ、元気かなあ……。
俺はウトウトと、疲れもあって椅子に座って腕を組んだままうたた寝をしてしまっていた。時計は、午前2時を迎えている。
「クシュン!」
すっかり寒々とした売場で自分のくしゃみとともに目が覚めた。そして仰天だ。俺は即座に立ち上がる。ガタ。激しく椅子を動かしていた。
オ ツ カ レ サ マ 。
蜘蛛の巣には、カタカナという日本語の文字ではっきりとそう書かれていた。
「蜘蛛の野郎……」
テカテカと光る蜘蛛の糸。朝になれば、ウチの事務のお姉さん方に取っ払われてしまう少し可哀想な糸。短き時の芸術。
「ちきしょお……」
俺がそう呟いてしまったのは、別に加代子さん達や己の運命を呪ってのことではない。今、俺の目尻に溜まった水の粒に対してだ。ちきしょお、何で涙が出るんだよお……。そう思いながら拭うと、涙はもう出ては来なくなった。「本当によ……」
困った奴だぜ、ともうひと言漏らしながら俺は裏に置いてある箒を取りに売場を歩いて出て行った。
《後編に続く》