はじめに
11月25日
天候 :晴れ
記録者:鈴本
さて。
俺の手には、A4サイズのノートがある。
普通のノートとしては大きいサイズなのだが、俺達からするとある種、馴染みのあるサイズだ。
ノートの正体は実験ノート。化学に携わる事の無い文系諸兄には全く馴染みが無いであろう代物だが、まあ、要は、各種実験や研究を行う時に記録や証明を目的として記述していくノートの事である。
大抵、A4サイズ。中は5mm四方の方眼。印刷した表やグラフを張り付けることもあるので、使用と共に容赦なくぶ厚くなっていく代物でもある。
尤も、別にこのノートを使わないと実験の記録が残せない訳ではないので、わざわざ実験専用のノートを購入する必要はない。記録だけなら普通の大学ノートで事足りる。
それが何故、研究の真似事レベルのことしかしていない、高校の化学部にわざわざ実験ノートなどという物が存在しているか、と言えば。
「これ、実験ノート?大学に行ったとき貰った奴だよね?」
俺の肩の後ろから背伸びしつつ、針生が覗き込んで、ノートの出処を言ってくれた。
そう。俺達は清く正しい化学部員として、時々、授業の無い土曜日や、専ら暇な日曜日に大学で開催されている、高校生向けの化学講座を受講しに行っている。
このノートはつい2か月前ほど前に講座を受講した時、何故か配布されたものだった。
1人1冊貰ったので、部員各人がそれぞれの実験の記録に使い始めたはずだが。
「なんで余ってんの?それ。まさか記録つけてない奴でも居るの?」
横で別の棚の整理をしていた羽ヶ崎君が、妙に剣呑な言い方をしながら寄ってきた。別に機嫌が悪い訳じゃない。彼はいつも大体この調子である。
……が、俺はもう、このノートが何故余っているかの謎が解けている。
「これ、辞めた奴の分だろ」
「あー……成程ー」
このノートは、先月の終わりだか今月の頭だかまでは部にいたものの、その後部を一気にやめてしまった女子達の内の誰かの物だったのだろう。
「持って帰らなかったんだ。もったいねー」
「いや、使わないでしょ。実験やらないのに実験ノートとか」
実験ノートを普通のノートで代替することはできる。だが、普通のノート代わりに実験ノートを使うのは……見た目を気にする女子なら、しないだろうな。
この実験ノート、サイズがA4なのもそうだが、表紙が文房具の王道を行くような山吹色一色。そして『実験ノート』と情緒も何も無いゴシック体で書いてあるという無骨極まりない代物だ。見た目を気にする女子なら間違いなく使いたがらない逸品である。
「あれっ?どしたの、それ」
「あ、舞戸さん。そっち終わった?」
「うん、終わった。廃液集めたら謎の物体ができて面白いことになってるから見てね。お勧めは有機廃液の方。何故か謎の赤色を呈してる。……あれ?それ、実験ノート?白紙なの?余ってるなら欲しいな。会計ノートがそろそろ無くなるんだ。そろそろ買わなきゃ、って糸魚川先輩と話してた」
……『見た目を気にする女子』なら、な。
薬品の処理をしていたはずの舞戸はいつの間にかやってきていて、俺の手からノートをとってペラペラと捲り、嬉しそうに「いいねー、実に白紙である」と何の意味も無い感想を漏らした。
……舞戸は一応女なのだが、こいつはおよそ、実用品の見た目を気にするタイプではない。こういう奴だから、女子1人になることも気にせず部に残っているのだろうが。
「いいんじゃない?どうせあの人達の分あるんだったら3冊余ってんでしょ。……ああ、やっぱり。ほら、あと2冊出てきた。1冊くらい舞戸にやれば?」
羽ヶ崎君が俺の前の棚を漁ると、案の定と言うか、もう2冊、誰の物でもない実験ノートが出てきた。
「わーいわーい、羽ヶ崎君、流石、話が分かる!じゃあこれ、会計ノートね!やったねー!」
その内の1冊が舞戸の手に渡ると、舞戸は早速、『会計ノート』と表紙に油性マジックで書きこんだ。舞戸は部の会計係をやってるから、まあ、舞戸が使うにしろ、部の共有財産、という体で収まった訳だ。
「で、残り2冊。どうする?」
羽ヶ崎君の手に1冊。俺の手に1冊。白紙の実験ノートが合わせて2冊、だ。
使わないのも勿体ないが、誰か1人の手に渡る、というのも不公平だ。舞戸のように、部の管理の目的で使うのがいい、のだろうが。
4人で悩んでいても仕方ない。とりあえずは片付けを続けて、部活動の活動終了時刻間際、部員全員が集まったところで、もう一度聞いた。無論、俺達1年生だけではなく、2年生の先輩方のご意見も伺った。
……その結果。
「さて、この1冊はどうする?」
2冊の内、1冊は2年生の先輩方が持っていった。何に使うのか参考までに我らが糸魚川先輩に聞いてみたが、『楽しい事よ』としか返ってこなかった。まあ、何かには使うんだろう。何かには。
「うーん、会計ノートは部全体で使う事にして、残り2冊は学年ごとに1冊ずつ使う、っていう事になったんだよねえ、一応は」
「まあ、そういうことだ」
加鳥が俺からノートを受け取って、ぺらぺら、と捲る。こいつからも「わー、白紙だー」と、やはり何の意味も無い感想が出てくるあたり、類は友を呼ぶというのは本当らしい。
「んー、じゃあ、交換日記でもやる?ん?」
「え……実験ノートで……?」
「楽しそうでない?」
鳥海が何やら随分と面白い意見を言ってきたが、角三君が困惑している。俺も正直困惑している。実験ノートで交換日記というのもアレだが、この面子で交換日記というのもアレだ。
「いいんじゃないですか」
が、社長こと柘植がいつもの狂気じみた笑顔で肯定した。
「……正気?え、正気?交換日記しろって?僕らに?社長どっか頭おかしいんじゃないの?今に始まった事じゃないけど」
羽ヶ崎君が辛辣な事を言うが、俺も概ね同意である。
「交換日記って、なんか俺達女の子みたいですね!」
刈谷がフワフワした事を言っているが、甘い。俺達が交換日記なんぞやったところで、刈谷の言う『女の子みたい』な事には断じてなりえない。もっと殺伐としてカオス極まりない黒魔術の経典か呪いの書物か、はたまた世界三大奇書を上回る混沌が爆誕するだけだ。間違いなく。
が、そんな俺達に社長が補足を付け加えた。
「いえ。そういうものではありません。言うなれば、日記ではなく、記録です」
「楽しいかは別の話になりますが、必要な事ではあると思いますよ。万が一、俺達の下の代の部員が0だったりしたら、部の活動を記録したノートでも無い限りこの部の活動は過去の遺物となり、復刻は難しくなるでしょうから」
「そんなこと無いといいけどなー」
いいけどなー、などと言いつつ、針生が不安げな顔をしているのも無理はない。何せ、この面子だ。類が友を呼んでくれればいいが、そうでもない限りはそうそう入りたがる奴が居るとも思えない面子である。
「まあ、新入生が入ってくることに越したことはありませんが、リスクマネジメントは必要です。それに、俺達自身、自分達が行った活動の記録があれば、来年以降の活動の参考にできるんですから」
……まあ、記録は大事だな。持ち回りで記録を付けるなら、そんなに負担にもならないだろうし。
「よし。じゃあこのノートは俺達の活動の記録ノート、ということでいいか?」
念のため確認をとってみると、当たり前のように8人分の肯定が返ってきたのだった。
さて。
こうして俺達は、部活であった出来事や行った実験、後世および未来の俺達に伝えるべき云々を記録すべく、このノートを活用することになった。
言い出しっぺの何とやら、で、本日の記録と次回の記録は俺がつけることになった。
本日分はともかく、次回分の記録が『特に無し』だけで済むことを祈るが、はてさて。
+本日の記録+
このノートに記録を付けることになった。
記録順を添付。各自、記録を怠らないように。
*記録順*(事情によっては交代もあり得る)
鈴本→羽ヶ崎→柘植→角三→針生→加鳥→鳥海→刈谷→舞戸