6. 差し伸べられた小さな手
「はぁ、今日はこれでいい。使用人の腹の虫を聞きながら食べるのは不愉快だ」
「よろしいですか? まだ料理は残っておりますが……」
「もういい。道中で適当に済ませる、本宅へ戻る準備を頼む」
「かしこまりました旦那様」
コンフィ公は、ため息を一つつくと不機嫌そうにハウスキーパーのグレッダへ食事の中断と出立の準備を命じながら食堂を出て行ってしまう。
その結果、殆ど手のつけられていない食事と、気まずい雰囲気と、女使用人達だけが食堂に残されてしまった。
「旦那様の前で何たる失態、どこまで私に迷惑をかければ気がすむの!?」
不穏な雰囲気を切り裂くような甲高い音が鳴る。
音の後にユキは地面に倒れてしまい、赤くなった頬を手で当てながらグレッダの方を恨めしく見つめるが、そんな態度が気に入らなかったのか、グレッダは横になったユキを自身の靴のヒールで何度も踏みつけた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝れば済むとでも思っているの? この役立たず! 恥知らず! 穀潰し! どんな育てられ方をすればそうなるのか教えて欲しいわね!」
ヒールは尖っておらず、さほど高さは無い。しかし硬質の革で出来ているせいか、鈍い音とユキの泣きながら許しを請い続ける悲痛な声が食堂内に響く。
「あーあ、また始まったよハウスキーパーの使用人いじめ」
「あの子が勝手にドジしただけだから、自業自得なんじゃないの?」
「まあね。でも何なのあの子、初日から寝坊とか……」
「さあ、ただ頭悪いだけなんじゃない? 平民出身とか言ってたから親も大した事ないんでしょ。大方、うちらと同じでクズ親の借金を理由に売られたパターンだよ」
大の大人が子供を罵倒しながら踏みつけ続けるという、傍から見れば明らかに異常で常識を疑う行為を見せられているにも関わらず、まるでその行為が”日常”であるかのように、スウィーティとリメッタが淡々とこの状況について会話をする。
両親を馬鹿にする言葉を聞いたユキだったが、散々踏みつけられた事による腕や脇腹の痛みのせいで、怒る事も反論も一切出来ずにいた。
「スウィーティ、リメッタ、クレメンティンは私と一緒に旦那様の送迎を手伝いなさい。ココはその役立たずに食事を与えなさい」
「はい、解りました」
ハウスキーパーのグレッダは、ユキを散々踏みつけて制裁を与えた後に他の女使用人に指示を出す。
指示を出された三人の少女達は、クレメンティン以外は返事をしてグレッダと共に食堂を出て行った。
「大丈夫?」
「げほっ、げほっ……、うう……」
ココと呼ばれたライム色の髪の明朗そうな少女は、他の女使用人が出て行ったことを確認すると、ユキへ手を差し伸べつつ声をかける。
「もうあたしときみしか居ないから、立てるかな?」
ユキは呼吸の苦しさと全身の痛みを堪えながらも、何とか立ち上がる。
この時、ココの差し伸べた手を素直に受け取れない。
それは口には直接ださないにしろ、”どうせあなたもハウスキーパーや他の女使用人と同じなのでしょう?”と言う思いがあったからだ。
その心中は確実にココへ伝わっていており、ココは悲しそうな表情をしつつユキから視線をそらしてしまう。
「助けられなくてごめんなさい。酷い事されたくなかったから……」
確かにあの場面で庇えば、この子も同じ目にあっていただろう。
ココの言い分も解らなくは無いと思ったユキは、申し訳ない気持ちになってしまう。
「エプロン汚れちゃったね。食事したら新しいのに代えよう。こっちにおいで、私達専用の食堂に行こう」
「うん」
暴力を受けたことによる苦痛。
両親を侮辱された悲しみ。
自分は何も出来ないもどかしさ。
……他の誰かからの優しさ。
様々な感情が入り混じってどうすればいいか解らなかったユキを、ココは元気な笑顔を見せながら半ば強引に手首を掴み駆け出す。
ユキは彼女の素直な気持ちに戸惑いつつ、体はよろめきながらもココへと付いていく事にした。
使用人の食堂に案内されたユキ。
そこは昨日ユキがグレッダからピナフォアを渡された場所だった。
部屋の隅には蜘蛛の巣がびっしりと張られており、料理を用意する台所はベトベトになっていて、ピナフォアとホワイトブリムがかけられたクローゼットは傾き、寝室は貴族の屋敷とは到底思えない程に朽ちた扉で区切られている。
夜のうち暗くて良く解らなかったが、明るいと部屋の汚さが余計に目立ってしまう。
「今スープを用意するね。パンは机の上のカゴの中にあるから好きなのをとって食べてね」
グレッダに踏まれた痛みも少しはおさまり、かつ空腹だったユキはココの言ったとおりに、カゴの中のパンに手をかけようとする。
しかしパンは湿っており、カゴが置いてあった机には気持ち悪い虫が這っていたため、ユキは伸ばした手をそのまま引っ込めてしまった。
「ねえユキ、あなたもやっぱり家が貧しくてお金を稼ぐためにここにいるの?」
そう質問されながらも、スープを持って来てくれる。
ユキはココの話よりもスープの中身が気になり、スプーンで調べた。
具が少なく、水で薄めたような感じはするが変な物は入っていないのかもしれない。
「……あたしはね、将来画家になるの」
ユキは、”何とか食べられるものがきた”と思ったが、一生懸命に話すココがふと気になってしまう。
「でも家は貧乏でね。お父さんはどこかに行っちゃってお母さんが働いているんだけども、それじゃ食べていくのもやっとだから家計の足しにしつつ、画材を買う費用を稼ごうと思ってこの屋敷で働いてるんだ」
「どうして私にそんな事を話すのですか?」
何故、そんな身の上話をいきなりするのだろう。
今の自分は何にも無くて、出来る事も何一つないのに。
「共感と同情。ユキが来るまではあたしがハウスキーパーやシトラス三姉妹に虐められてたからね」
シトラス三姉妹とは、恐らく私を酷い目にあわせたグレッダについて行った三人の使用人だろう。
直接の暴力はまだ無いけれども、あの態度や会話の内容から察するに私もやがて、彼女らに何かされるのかもしれない。
ユキはごく近い未来を想像し、かつココが話してくれた理由を理解しながら、少し困り顔で話すココをじっと見ていながらスープを飲もうとする。
「でもね、もう一つあるの」
「それは何?」
私なんかに身の上話をする理由が他にもあるのかな?
そうユキは思うとココの話の続きが気になってしまい、食事の手が思わず止まってしまう。
「解らないかな。なんだかぼんやりとしすぎてて。言葉でどう言ったらいいか解らないんだけども……。ユキは他の人達……、例えばシトラス三姉妹やハウスキーパー、旦那様とは何かが違う気がする」
まさか私が水神の国の姫だったなんて、この子は想像もしないだろうな。
そう思いながらもユキは、止めていた食事の手をすすめる。
スープをすくったスプーンを口の中へ入れるが、今までに体感した事の無い理解不能な味に思わず顔をしかめてしまう。
「怒られちゃうからそろそろ戻るね。ユキも早めに食事済ませて来てね」
「うん」
少なくともココは私にとっては害ではないらしい。
それどころか出来る限り助けようとしてくれている。
今まで周りの大人は、”姫だから”世話を焼いたり話を聞いてくれたりしてた。
ユキがいろいろ思考を巡らせているうちに、ココは使用人の食堂から既に居なくなっていた。
ココの無償であろう献身にほんの少しだけ温かい気持ちを取り戻しながら、ユキは不味いスープを無理矢理胃の中へ流し込み、綺麗なエプロンにつけかえて仕事へ戻った。