3. 雪解けて雫となり
夜の闇を馬車が走る。
王宮から逃げ出した傷心の姫君を乗せて荒野を、林道を、古戦場を駆け抜けてゆく。
この夜の暗黒以上に暗く苛烈で過酷な運命が降りかかる事を、少女はまだ知らない。
何故お父様とお母様があんな目にあってしまったの?
どうして祝いの席であんな事件がおきてしまったの?
私は、……誰かに怨まれるような事をしたのかな?
……私が、悪いの?
これからの行く末も何も解らない幼き姫君スノーフィリアは、様々な負の感情を抱きながら、膝を抱えてうずくまったまま体を震わせ泣いていた。
ごく普通の子供ならば、すっかり夢の中へ入っていてもおかしくない時間ではあったが、それでも眠ることが出来ずにいたのは、眠ってしまえば父親と母親が殺される光景を思い出してしまうからだった。
彼女の現在の心の内を現すかのように整っていた髪形は乱れ、薄くしていた化粧は泣いたせいですっかりとれてしまい、着ている花嫁衣裳のトレーンは死線をかいくぐったせいか汚れてくしゃくしゃのしわしわになっている。
「到着しました。こちらへ」
私はこのままどうなってしまうの?
この馬車はどこに着いたの?
お父様、お母様、ルリ……。
彼女の現在の悲しみが未来の不安へと変化しかけた時、馬車が止まり御者が扉を開ける。
どこかやつれた御者の表情が、スノーフィリアに漠然とではあるが暗い印象を与えてしまうが、その表情の真意までは理解出来なかった。
「あの、ここはどこなのですか?」
「水神の国の南方にある山岳地帯、コンフィ公爵の別邸です」
スノーフィリアはやつれた御者に今自分が居る場所を聞き、そして答えを知り、今まで悲しみ一色だった表情に僅かだが明るさが戻る。
「この子が連絡のあった少女ですか?」
「ええ、それでは後はよろしくお願いします」
「解りました。ご苦労様です」
しかしスノーフィリアのそんな心境の変化に気づかないのか、敢えて無視をしているのか。
やつれた御者は表情をまるで変えず、邸宅の前で待っていた釣り目の女使用人へ、無機質に淡々と話をすすめている。
「あ、あの……」
「旦那様がお待ちしております。付いて来て下さい」
連絡があったという事は、予めこちらに来るよう決められていたというの?
この事態に対して私を馬車で逃がし、別邸に匿うまで考えていたとは見事な手際としか思えないけれども……。
何かが引っかかるような。
そう思ったスノーフィリアは、御者とのやりとりの意味を女使用人に聞こうとする。
しかし女使用人は姫君の話を一切聞かず、冷徹に淡々と屋敷の扉を開けて奥へと誘う。
スノーフィリアはそんな態度に多少の不満と憤りを感じながらも、このまま外に居ても仕方ないと判断して屋敷内へと入り、後に付いて行った。
「こちらの部屋へお入り下さい」
屋敷のエントランスを抜け、階段を昇り、著名な作家が書いた絵画が飾られている廊下を抜けてゆくと、女使用人は部屋の扉をゆっくりと音をたてないように開けていく。
スノーフィリアは恐る恐るその部屋に入ると、自らが永遠を誓おうとした相手が座りながら本を読んでいた。
「コンフィ公! ご無事でしたのね!」
「スノーフィリア”殿”も、よくご無事でしたな」
コンフィは読書を中断して手にあった本を机の上へ置くと、スノーフィリアの方へ視線を向ける。
「ああ、良かったですわ……」
あの騒動の中をよく無事にきり抜けることが出来た、本当に良かった。
夫のコンフィ公もきっと私の事を心配し、私の無事を知ったときに同じ温かい気持ちになったであろう。
スノーフィリアはそう確信し、疑いの余地すら無かった。
しかし、そんな喜ばしい事実に直面したであろうコンフィ公の表情は一向に緩まず、ずっと厳しい眼差しを王宮から逃げてきた少女に向けている。
婚儀の時も、それ以前も、ずっとコンフィは幼い新婦に対して寛容だったのに……。
今のコンフィの厳しい態度には明らかな温度差があり、スノーフィリアもそれを感じずにはいられなかった。
「早速だがスノーフィリア殿、そなたに重大な知らせがある」
今まで見たことの無い厳しい表情の前に、スノーフィリアは思わず目を逸らそうとした時だった。
コンフィはいつもよりも声のトーンを低く抑えながら、何も知らない姫君にゆっくりと話して伝えようとする。
「国王陛下の件もあり、まだ十歳になったばかりの少女に伝えるには心苦しいのだが、今から伝えることは君の今後にも関わる重要な内容であるからこそ敢えて言おう」
「はい。なんでしょうか?」
「君との婚約は破棄させてもらう」
婚約破棄。
それがどういう意味を持っているのか、そしてどうなってしまうのか。
十歳でありながらも王族として過ごしてきたスノーフィリアには容易に想像できてしまい、ガラスが砕け散る時のような音と衝撃が頭の中を駆け巡る。
「どうしてですの!?」
「国王と王妃の両方が亡くなられ、今まで水神の国を統治していたアクアクラウン一族は急速に力を失った。それと同時に国家の上層部は大きく再編されて、新たな役人達によってスノーフィリア殿は現在の地位を剥奪されたのだ。何も持たない少女を娶って私に何の得がある?」
スノーフィリアはその答えを聞き、愕然としてしまう。
「まさか、愛情や絆を信じていたのかね?」
「……結婚とは、互いを認め合い、互いを支えあう事を愛する者同士の前で誓い合うもので――」
「年の差もある。出自や門地も違う。これだけ価値観が合わないのに?」
「そ、それも時間さえかければ……!」
「時間をかけても埋まらぬ物はある」
「だって、ルリやお父様やお母様がそう言っていた、だから私も信じてた……」
スノーフィリアもこの結婚が政治的な物である事くらい薄々と感づいていたし、それでも国の為、自らが姫である為に成さなければならないと、幼いながらも覚悟を持っていたつもりだった。
ただそれでも……、そうだとしても。
長く過ごしていけば、夫婦生活を続けていればやがて気持ちは本物になると思っていた。
私に勉強を教えてくれた専属の教師も、宮殿で働く使用人や執事も、ルリだって……。
みんなみんな、一部の例外も無く全員がそう言ってたのに!
だから安心していたし、受け入れようと自分の気持ちを変えようと頑張ったのに!
それを否定するなんて……。
「だから幼子と呼ばれるのだ。……もっとも、今まで外の世界を知らないお姫様では解らぬのも当然か」
スノーフィリアの砂糖よりも甘くて幼い世間知らずな感情と考えは、老いた公爵の炭よりも苦い言葉によって打ちのめされてしまう。
辛い現実を知った小さな姫はその場で崩れてしまい、ただひたすらに声を上げ涙を流して泣きじゃくった。
「だが、一つだけ君にとって良い知らせがある」
コンフィは淡々と話し続ける。
「このまま君をこの屋敷から追い出すのは容易だが、道徳的にそれはしたくない。そもそもこのあたりは木々が鬱蒼としている山岳地帯だからな、何の備えもせず出て行けば野生動物にやられてしまう、少女の命を無碍にしたとなれば我が家門に傷がつくのは必至だ」
……私は姫。
そうだ私は姫だ。
みんなが私の事を良くしてくれた、みんな私が姫だって認めてくれた。
なのに……。
それなのに!
「だからここで使用人として働かせることにした」
その言葉を聞いた瞬間、スノーフィリアは大きく目を見開いてしまう。
それと同時にコンフィは机の上にあった呼び鈴を鳴らすと、大した時間も空かずに先程スノーフィリアをここまで連れてきた、釣り目の女使用人が現れる。
「お呼びでしょうか。旦那様」
「新しい使用人だ家政婦長、彼女にここの仕事を教えてやってくれ」
どういう事なの……?
わ、わたしがここで働く……?
「かしこまりました。失礼ですが彼女の名前は?」
「うーむ……、今の名前では確かに”不便”で”煩わしい”か」
私の名前が不便で煩わしい?
何を言っているの……?
「彼女はユキ、ただの平民出身の少女だ」