発症
それから。
勢い余って自宅までマラソンし、家についてからは何をしたのかよく覚えていない。
両親と何を話したのか、夕食に何を食べたのか。
ただ一つだけ間違い無く覚えている事がある。
私は帰宅すると玄関に倒れ込んで荒れた呼吸を整えて、動悸が正常になるまでその場に突っ伏していた。
その後、まず気になったのは斬られた顔の傷の事だった。
──そう。それだけなら大丈夫。
突然現れた少女は私の傷を見てそう告げた。
何が大丈夫なのだろう。命に別状はないから大丈夫? 傷が残らないから大丈夫? 顔の傷は鏡が無いと確認しようがない。
のろのろと立ち上がると鞄はそのままほったらかして洗面台のあるバスルームへ向かった。
「あれ」
傷は無かった。というよりも怪我そのものが無かったかのように消えてなくなっている。
私は髪の毛を掻き上げると、斬られたはずの場所をじっくり観察する。
どれだけ見ても何の跡もない。
「どうして……」
そこでふと思い立ち、髪を下ろすと手を見る。
確かに触れたはずだ。血。ぬるっとした感覚。
血は鉄の臭いがする。試しに指を鼻の傍に近づけても鉄の臭いはしない……。
(そうだ、血はあの子がハンカチで拭き取ってくれた)
制服には?
胸元、袖口など血が飛び散っていないか確認するが、どこにも血痕は付着していない。
私は力が抜けてその場でへたり込んだ。
夢か何かだっていうの、あれが。
しかしそんな感じはする。あの違和感だらけの校舎、グロテスクな化け物、ピンチの時に都合よく登場したミステリアス少女。そして消えた傷跡。
どれも現実離れし過ぎている。理屈で説明できるものなんて何一つない。……いや、ミステリアス少女は存在しても良い気がするが。
視線の先には指貫グローブをはめた左手。
ああそうだ。
理屈に合わない理不尽な思いなら既にしているんだった。
(このアザも消えて無くなればいいのに)
翌日、学校を休みたかったものの、どう説明したらよいか難儀した。
──お母さん! 学校に化け物が現れて私の顔面の柔肌切り裂いたの! そしたら謎のミステリアス少女が助けてくれて、ここは任せてお前は逃げろ! って言ってくれて──
お母さんはきっと娘がインシグニア症になって錯乱したと捉えて泡拭いて倒れるだろう。普段なら一笑に付してくれるだろうが、今はマズい。
それでも、この病気を理由にして上手く駄々をこねれば病欠を許可してくれそうだったが、根が良い子の私はそうしなかった。事実、体調が悪いわけではない。
放課後の出来事は夢か幻と思う事にして、普段と変わりない様にして家を出た。科学を勝利させたままにするにはそれしかあるまい。
通学路を歩きながら考えるのはやはり昨日の事だ。
今まで一度も経験した事のなかった幻覚(兎に角そう呼ぶ)を突然見るようになったのはきっと偶然ではない。
幻覚を見る契機となりそうな物事と言ったら一つ。
間違いなくこのインシグニア症が絡んでいる。
もしや、謎の自殺や失踪をする子供たちというのは、ああいった幻覚によって錯乱して自殺や疾走をしてしまうのではないだろうか。
あるいは。私は転んだおかげで顔を斬られただけで済んだ。でもあのまま頭か胴かを斬り裂かれていたとしたら?
たとえ幻覚であろうとも明確に死を自覚するような経験をすれば脳が自分を死んだと思い込み生命活動を止めてしまう、という話を聞いた事があった。それが事実かどうかは知らないが、無いとは言い切れない。
つまり、幻覚の化け物に殺されて、そのまま死んだと思い込んで死んでしまう。
……でもそれを自殺と呼ぶだろうか?
それにそんな症例があるのなら病院に行ったときにお医者さんから説明があったはずだ。
結局あの幻覚は何だったのだろう。
より物語に一歩踏み込んだ不思議の国のアリス症候群か? 私は懐中時計もウサギもこの目で見た事が無いというのに。
学校では、自分で思っていたよりもずっと落ち着いていた。
周りにクラスメイトや先生がいるという安心感。流石の化け物も朝や真っ昼間から堂々と襲撃してきたりはしないようだった。
そういえばあの少女も言っていた。
遅くまで学校に残らない事。放課後に人気の無い所へ行かない事。
逆に言えば放課後まではあの化け物は姿を見せないのだろう。
(まあどっちも幻覚だけど)
「野母崎ー、次音楽だよ」
「はいはい」
机の中から教科書を引っ張り出し、音楽室へ移動する。
当然だが高来は昨日と変わりない。極々ありふれた日常だ。
そうして問題の放課後がやってきた。
流石に妙な不安を覚えてしまうが、昨日の幻覚が事実だと証明できるものは何もない。
「あーそうだ野母崎ー」
陸上部の部活へ向かう前の高来が声をかけてきた。
「あんたどうして陸上部入らないの?」
「私が超インドアなの知ってるでしょ。ていうかなんで陸上部?」
「昨日さー、有り得ない速度で走って学校出て行ってなかった? 何あれビビったんだけど!」
「昨日は青春が迸ってたんだよ……」
どうやら私が校舎前を全力疾走しているところを見かけたらしい。ちなみにポニーテール少女の言いつけ通り、きちんと靴は履き替えた。
「何時もは力を温存してるの? まーじで早かったよー」
「いや、ほんと昨日はちょっと何か色々あれで……もうあのスピードは出せないんだ」
居もしない化け物を恐れて全力を出して逃げてました、とはなかなか言い辛い。
気恥ずかしくなった私は何時もの様に髪を指先に巻きつける動きをしようとした。
(あれ)
妙な違和感を覚える。
それが顔に出ていたのかもしれない、高来はきょとんとした顔をして、
「髪の毛切ったの、野母崎」
と訝る様に言った。
「そうだよ。……というかもう四、五日前の話だし、今更──」
「違う違う」
「は?」
「自分で切ったの?それ」
「髪の毛を? 私が自分で?」
「うん、だって」
「片方だけ、かなりバッサリいってるよ。ほら、この辺り」
高来は私の頬に自分の人差し指を当てて、奥から手前へ指を動かした。
それは、昨日私があの化け物に斬られたちょうど同じ位置。傷跡は消えてしまったので確認できなかったが、そう感じる。
(何で気が付かなかったんだ……!)
あの時、手には血と髪の毛が──。
(じゃあ家で確認した時にはどうして)
洗面台の鏡の前では私は傷の事だけ気にして髪の毛を掻き上げていた。
何の傷も残っておらず、出血した事も確認できなかったから、それで、安心して。
「私も前、自分で髪の毛揃えようとしてさ~、いやあ散々だったよあの時は。じゃあ私部活行くねー。入部したくなったら言ってちょー」
手をひらひらさせると高来は行ってしまった。
私は呆然として、髪の毛に触れてみる。確かに、一定の場所の髪が短くなっている。
昨日の幻覚が幻覚でないという理由。事実だという証明が、あっさりと突き付けられた。
いや、いや、いや。
あれを現実と認めるにはまだ早い。
他に何かあるだろうか。昨日起こった出来事で確認出来そうな事が。
またあの化け物が現れたら信じられそうだがそれはお断りしたい。昨日の痕跡……。
「あっ!」
そういえば、最初の一撃だ。私はあれを運良く躱して、化け物の爪は壁に突き刺さった。あれはどうなっているんだろう。
私の傷は無くなった。壁の損傷も治っているのだろうか。
正直に言うと、この時点で既に私は壁がどうなっているか想像がついていた。
学校の備品、というか壁が壊されているにも関わらず、話題にすら上がっていない。
だからわざわざ確認しに行く必要はない。行く必要はないのだが……。
それでも私は現実味を帯びつつあるこの幻覚を、再び他愛無い妄想であると決定付ける何かが欲しくてそこへ向かった。
案の定、壁は何の変哲もなく普段と変わらずそこにあった。
触れると冷たい。修復された形跡はない。元のまま、だ。元というのはつまり、経年劣化してヒビが入っていたり一部が欠けていたりした、破壊される前と同じ。
「どうして私の髪だけ……」
力が抜けてしまい、壁にもたれ掛かって深く呼吸した。
何はともあれ、完全に幻覚を否定できなくなったという事は、ここにいるのは危険だ。
まだそれほど遅くはなっていないが、生徒用の出入り口とは逆の位置にあるここは人通りが少ない方だ。
あの化け物が決まった場所に現れるのかは分からないが、ここに留まるのは良くない。精神的にも。
意を決して振り返ると、そこには知らない顔があった。
「うわぁ!」
それがあまりに近かったため私はつい声をあげてしまった。
「わあわあ、ごめんよ! 驚かす気は無いんだよ!」
「いえ、すみません。驚いたりして……。誰もいないと思って、びっくりしてしまって」
「そうだね、ごめんよ。なんだか、体調悪そうに見えたんだよ。声かけようと思ったら急にこう、くるっとこっち向いたから」
「それは……ご心配おかけしました。でも大丈夫です」
「本当かい? 額に脂汗掻いてるし、どこも痛くないのかな?」
言われて私は額を左手で拭った。確かに薄っすら脂汗を浮かべている。
「はい。先輩……ですね。気に掛けて貰って有難うございます」
「そうだよ、三和先輩だよ。貴女は……のぼさきさん?」
「のもざき、です。二年二組の」
お互いに名札から相手の素性を読み取る。
三和先輩は年上にしては小柄で私より頭一つ分は小さい。くりっとした大きな瞳が特徴的で、下っ足らずで癖のある喋り方をする。年上に大変失礼ながら見た目の印象を率直に言うならば、ペロペロキャンディで知らないおじさんにのこのこ付いて行きそうな危うさがある。
先輩はそのまんまるおめめで私を覗き込んだ。もし私のポケットにお菓子が入っていたら彼女の両手に握らせそうだ。
「えと、それじゃあ私これで」
私はここを離れなくてはならない事を思い出し、すっと先輩の脇を通ろうとした。
彼女の横に並んだ瞬間、左手を捕まれる。
「もう帰るの? のもざきさん」
「はい、私……部活やってないんです。だから学校に残る理由が無いから」
「そうか。私も部活やってないんだよ。帰るんだったら、下駄箱まで一緒に行って良い?」
「それは別に構いませんけど……私が行くのは二年のですよ?」
「うん。行こうよ」
先輩は私の手を放すと、てってけ歩き出した。何だか先輩が歩く度にブーブー音が鳴る靴を履いてないのが逆に不思議に思える。
先輩の後姿を見て、私はすぐに気が付いた。
彼女は真っ黒なオーバーニーソックスを身に着けている。もちろんそれは校則違反だ。あまつさえ色は黒。そんなもので堂々と校内を闊歩できる理由は考えなくとも分かる。
なんだか羨ましい。私は左手の甲だから、隠すのにもグローブだ。ノートを取るのに邪魔にならないように指貫の。男子が馬鹿にしてカッコイイなんて言う様な代物。オーバーニーだから太ももにでもあるんだろうか。
(先輩もインシグニア症、か)
インシグニア症の子は確かに見た事がある。隠していない子、あるいはそうであると疑わしい、肌を隠すものを身に着けている子。だがそういう子は友達にいなかったので、会話した事が無かった。自らその証を見せた高島さん以外……。
──でももし何時かインシグニアが身体に現れたら、私に教えてね。きっと力になれると思うから。
脳裏で高島さんの言葉がリフレインされる。
そうか。
彼女が言っていたのはこの事だ。
余りにも現実離れし過ぎていて忘れていた。
高島さんは知っていたんだ、この事を。
まるで現実から切り取られたかのような静寂に包まれた校舎。異形の化け物。
彼女は経験していた。
だからこそ彼女は私に力になると言ってくれたんだ。
「のもざきさん、どうしたの?」
「あ、はい!」
離れていく先輩に追いつくために早足になりながら、心には疑問が溢れていく。
力になるとはどういう事なのか結局分からないままだ。つまり高島さんはあの化け物をどうにかする方法を知っていた?
それに、それに。彼女は幸せそうだった。
高島さんが私と同様に化け物に襲われる経験をしていたとして、それが幸せそうな彼女にどうやって繋がるのだろう。
──他にもこのクラスに居るんだよ、知ってる? 知らないならバラしたりはしないけど。
恐らく高島さんが手に入れたであろう秘密の友達。それはきっと彼女が明るくなった理由になっていると見て間違いない。
その友達とは誰? それが分かれば手助けをして貰えるだろうか。
「のもざきさんー?」
駄目だ。誰がインシグニア症だったのかなんて分からない。ばらばらになった一年の時のクラスメイト一人一人に聞いて回る訳にもいかない。高島さんと友達だったインシグニア症の人って君? この質問自体とても口にしたいものではない。そもそも高島さんの事は触れてはいけない話題になっている。というか、インシグニア症で自殺した生徒の事は。
では、先輩はどうなのだろう。
先輩も経験しているんだろうか。あの世界を。
「のもざ」
「三和先輩!」
「わあ!」
「あ、すいません、脅かす気は無かったんです、大きい声を出してしまって」
「いいよー、おあいこだよ! 私も驚かせちゃったからね」
「あの、訊きたい事があるんです」
「ほうほう。でも三和先輩あんまり難しい事は分かんないよ?」
「先輩って、その、インシグニア症ですよね? さっき先輩は私の左手に触れました。私はグローブしてます。アザを隠すために」
「うんうん」
私はまず左手を先輩の顔の前に広げて見せ、次に先輩のソックスを指差す。
先輩は腕を組んで威厳ある風に頷いて見せる。
これから随分とファンタジーじみた素っ頓狂な事を言わなくてはならないので、口にするのに気恥ずかしさがあったものの、先輩はそういうのを茶化さず受け止めてくれそうな気がした。要するに、先輩は幼稚に見えたので。
「先輩は……この学校で、化け物を……見た事がありますか?」
「ばけもの?お化けとか妖怪とか?」
「お化けではなくて……妖怪、妖怪というか、その、化け物、なんです」
先輩の視線が痛い。じいっと顔を注視されて、自分が赤面していくのが分かる。しまった。もっと良い言い方があった気がする。
「のもざきさんは、それを見たの?」
「ちょっと……そういう噂みたいな物を耳にして。先輩とは初めて会うから、もしかしたら聞いた事あるかなって」
先輩は両手を伸ばして私の顔を包むように触れた。あるいは顔を逸らさせず固定するように。
「のもざきさん」
「はい」
「嘘付いてない?」
心臓を鷲掴みにされた様に息苦しくなり、一気に心拍数が上がる。
嘘は、付いている。
「見た事あるよ」
先輩の声だけがやけに耳に付いた。
「化け物、つまりモンスターだよね?」
「モンスター……そうですね、そういって差し支えないと思います」
「それはグロくって、低かったり高かったりする声で吠えて、何も知らないのもざきさんに襲い掛かってくる」
頭がくらくらした。先輩はまるで昨日の私の放課後を全て見ていたかのように次々と告げてくる。
「はい。……先輩?」
「なに?」
私が化け物……先輩の言うところのモンスターに襲われて、謎の少女に助けられた。その一部始終を知っているのは、当事者の私と、あのポニーテールの謎の少女、そしてモンスター。
先輩はあの少女じゃない。
でも、知っている。まるでその場に居たかのように。
平静な心がコップに入った水だとしたら、それに墨汁を一滴垂らしたように、不安が溶けて広がっていく。
グローブが蒸れて気持ち悪い。
「まさか、先輩が」
有り得ない事じゃないと思った。
モンスターを許容する世界ならば、普段は人間に化けて日常に隠れ潜んでいてもおかしくは無いという気がする。
そう考えると先輩はいかにも怪しい。
三年なのに二年の教室前の廊下に突然現れ、見ず知らずの私に接触してきた。確かに私の素行はおかしかったとは思うけど、それで声を掛けるものだろうか。
犯人は現場に戻るともいう。現場に戻った犯人が取り逃がした獲物を見つけたとして、それを無視するわけがない。
「あ、待って待って」
先輩は私の口に手を当てて、
「私も質問して良い?」
ニッと笑顔を見せる。
「のもざきさんは──」
私はようやく気が付いた。
先輩の声しか耳に入らないのは、私が神経質になっているからじゃない。
昨日と同じだ。他の音がしなくなっている。
「魔法少女は見た事ある?」
「……魔法少女?」
先輩はそれ以上の私の返答を待たずに、私を腰に腕を回して小脇に抱えると恐るべき跳躍力で廊下を跳ねた。
先程まで二人が居た場所が破壊されたのが見えた。






