発症
放課後、皆が部活だなんだと解散していく中、私は特に大事がなくて安堵するような拍子抜けするような面持ちで椅子に座り込んだまま一息ついていた。
きっと、多分。このまま別段変わらない日々が続くのだろう。ただ、私のアザは大きいようだから、それを見られないように気を使う必要はある。こうした露骨な相違は集団生活……特に学生の。それに大きく影響していくはずだ。
周囲を気にし過ぎる子だ、と通知表で評価された覚えがある。それがプラスの評価なのかマイナスの評価なのかよくわからなかったけれど、確かにそうだ。でもこの場合自分の為なのだから気にし過ぎて悪くはあるまい。
前髪を左手の人差し指にくるくる巻いて解く。これはずっと前からの癖で、考え事をするときや、単純に手持無沙汰になった時に自然とやってしまう。髪を痛めるので悪い癖だけど、だからって止められないのが癖という奴。
そして、この癖によって思い出した。
私はこのアザに気が付くまでは上機嫌だった事を。
(そうだよ、髪の毛揃えたんだよ)
中学に入ってから髪の毛を伸ばし始めた。
大人っぽくなりたかったからだ。
ようやく肩に届くほどの長さになり、それを綺麗に揃えた。
(その矢先にこれだもんなあ)
グローブの上から、その下に広がっているだろうアザを想像して、それを隠すように右手で撫でる。
昨日もそうだったけれど、お風呂に入る度にへこむんだろうなあ。
修学旅行には治ってるかな? そうじゃなきゃ一人で入ろう……。
いや、それ以前にもう夏だ。水泳は好きだけど、さすがにグローブつけたまま水泳はさせてもらえないだろう。
どうやってもそのタイミングでバレてしまう。その時、皆はどういう反応をするだろう。
ちらっ、と周囲の様子をうかがう。
教室には男子四人に女子三人が残っていた。
なーアイツ、あのクリーチャー結局どうやって攻略する? あれやっぱソロだとキツいって。組んでレイドしないと難しくない?
九時からのドラマって全然面白くないと思うんだけど、エンディング曲が良いから結局見てるー。
この前夜中のアニメ見たら思ってたより面白かったよ、知ってる?
一年に見込みある奴いるからさー、今から鍛えてたら絶対戦力になると思うんだ、協力してくんね?
お前絶対借りパクすんなよー!
ちょっと耳を貸しただけでも中学生らしいハッピーな会話が飛び交っている。
思い起こせば今日の絡みはインシグニア症自体がネタになったわけではない。インシグニア症のアザを隠すためのグローブがネタになっただけなのだ。このグローブネタ自体はすぐに、というかすでに風化してありふれたものとなり話題にはならない。
しかしながら、この巨大なアザが白日の下に晒された時、果たしてそれを無いものとして今まで通りの対応をしてもらえるものだろうか。
どちらかというと怖いのは笑いや、からかいのネタになる事よりも、オゾましき病魔として忌避される事だ。
誰かが会話のネタに口にしたのならば、多少はウィットに自信がある。上手く自虐でもして回避できるだろう。
だが自分からネタにしたい話題ではない。ただ黙って避けられるようになったら手の打ちようがない。
恐らく有り得ないが、高来が「ちょっと今日はあっちのグループとご飯食べるー」と言って来たら控えめに言って……深刻に傷つく。有り得ないが、まあ有り得ないが。
(ちょっと待て)
インシグニア症を自覚してからの、ここ三日の自分を振り返ってみた。
ずいぶんとまあ後ろ向きな気分で過ごしたものである。
確かに高島さんはインシグニア症を発症し、不可解な自殺を遂げた。だからって私もそうなると決まった訳ではないし、将来的に私のアザを皆が知る事になろうとも一斉に拒絶や否定を浴びる訳ではない。
そういえばクラスは知らないけど、アザを隠さず堂々としている子も居る。確か私も見た事があった。
その時に私はどう思ったか? 答えはどうも思わなかった、だ。
あぁ、あの病気なんだ、と思っただけだ。その子が話しかけてきて話の合う良い奴だったら? 友達になるだけだろう。嫌な奴だったら? 距離を置けばいい。つまりは、このアザの有無はやっぱり関係が無いのだ。この子も自殺か失踪するんだ、とも思わなかった。
病気に必要なのは理解で、インシグニア症は保険の授業でも取り上げられている。むしろ病気による迫害の典型例としての認知は非常に高い。何せ自分が明日突然発症するかもしれないのだから。エイズやハンセン病よりずっと理解がある。ずっと身近だから。
前向きになろう、前向きに。私は自分の人生に向き合っているのだ。こんな子供っぽいクラスメイト共よりもずっと大人になっている。
悪い事ばかりに注目せずにこの病気がもたらす良い点に注目しよう! 幸い障害が発生するようなものでもなし! 私の心は病んでもいない! 自殺? 失踪? そんなの全然メリットないじゃん! 家に帰ったらお母さんはご飯作っててくれる! 幸せ!
「親に感謝!」
私は叫んだ。いや、叫んでない。ちょっとだけ大きい声を出しただけだ。それを叫んだように聞こえるというのは教室に人が少なくよく響くからだ。私は叫んでない……。
数人残っているクラスメイトが私を見ている。
「なにそれラップ? ラッパーなの? 何がキーになって親に感謝しちゃったの!?」
「ごめん、ちょっとヒートアップしてて。そういう……あれではないんだけれど、皆も親に感謝してほしい。なぜなら──なぜならば──まあ感謝しても罰は当たらないしね……?」
「一人で!? 一人でヒートアップしたの?」
「野母崎さんたまにスイッチ入るよね!」
こうした反応を受けて、自分のクラス内の立ち位置を再確認できた。
私はうじうじ悩むタイプではない。クラスメイトも積極的に誰かを傷つけたりしない。
私が皆の話の流れをぶった切った為、彼らは流れで解散するようになり、私一人が教室に取り残されてしまった。
「うん……まあこれで良いよね、うん……」
ちょっと胸の奥に釈然としないようなものを感じつつも私も鞄を背負うと廊下に出た。
なんだかやけに廊下がしん、と冷たい。
誰の話し声もしない。だから、風が窓を揺らす音が妙に耳に付く。
(妙な感じだ。幽霊が出るには……まだ早い。時間も時期も)
オカルトを信じてるわけじゃない。だからこそ脳裏に浮かんだそれはなんとなく否定しておかねばならないように感じた。
学校の、特に各学年の教室が並んでいる廊下というのはとにかく長いものだ。二年は四組まである。
下駄箱に行くには教室を出て一組側に向かえばいいのだけれど、奥の三組と四組の教室が並ぶ方へと足を進めた。
学校に残る事は度々あった。でも私は部活をやっている生徒程遅くならないので、誰もいない校内というのを経験するのは稀だ。だからこその感覚なのだろう。
(あれ?)
しかし、静かすぎる。
私はこの時当然気が付くべきおかしな事に気づいていなかった。
なんで。
なんで吹奏楽部の音が聞こえないんだろう。
吹奏楽部が部活の間に四六時中演奏しているわけではないが、活動中はどこにいても何かしら楽器の音が聞こえている。それは多分どの学校でも同じだ。今日は活動しないなんて話も聞いた事が無い。
(それに)
運動部もそうだ。
野球部のバットでボールを打つ音、サッカー部のボールを蹴る音。そういう音は誰もいない教室まで響いたりする。
三組を通り、四組を過ぎて奥へ。廊下の突き当りにも階段がある。ついでに上下階の踊り場を確認する事で幽霊やオカルトの存在を駆逐して科学を勝利させる。
そのまま階段を下りても問題は無いものの、いつもの帰宅の癖で反対の階段へ戻ろうとして踵を返した。
そこで、見た。
それは幽霊ではない。脚があるから。
それは人間ではない。異常だから。
それは、緑を基調としたおどろおどろしい色をしていた。甲殻類の殻のような、鎧ともいうべき装甲を身体に纏っている。その隙間から色味の濃い青の肌のようなものが覗き見える。
人と同じような五体がある。両手には指が生えているというよりは爪が生えている。日が傾いた薄暗い廊下でさえその爪は研ぎ澄まされた金属の如き輝きを反射して見せた。
脚は管のような筋肉が幾重にも折り重なっているように見えた。膝には両手の爪と同じような鋭利な突起が付いている。
一番異質なのは顔だった。大きく吊り上がった目がこちらを向いている。人と違って四つの目がある。遠いのでよく見えないが、白目が無いのは間違いない。口は裂けており剥き出し歯はすべて犬歯のように尖っていた。髪の毛は生えていない。前述の殻に覆われている。
それがあまりに現実離れしていたので、私は身動きせずぼうっと眺めてしまっていた。
ぽつりと一言、
「演劇部……の仮装?」
と漏らした。
その声に反応したのかどうかは分からないが、その化け物としか呼びようの無い異常な生き物は私の方へと向き直り、何事か叫んだ。
その言葉は理解できない。
それが言葉として成立しているものなのかも分からない。
咆哮か威圧かそういう叫びだ。
「なになに!?」
私が数歩後ずさると、それは両手を広げた、体が大きくなったように見えたのは、こちらから確認できないそれの背中に羽のようなものが生えていて、それを広げたからだ。空を飛ぶ機能があるとは思えない、体よりも小さい羽。
次の瞬間、その化け物は飛ぶようにしてこちらへ向かって来た。
怪物と私の距離は教室四つ分離れているが、その距離は五、六十メートル程だろうか。それを一瞬で詰めて目前に現れる。本当に、一呼吸の間に。
私は反射で身を縮こめた。
体が押される感覚がし、宙を浮いている。
その刹那、破壊の音が鼓膜を叩く。
宙を浮いているのは風圧によるものらしかった。何かに触れられた感覚はせず、自分の体重による安定感が吹き飛ばされた。驚き見開いた目から、その化け物の爪が廊下の壁に深々と突き刺さっているのが見えた。
私は放り投げられたゴムボールみたいに踊り場まで飛ばされた。鞄がクッションになったのか、それとも突然の事態に感覚がマヒしているのか痛みは感じなかった。
「なに!?」
なに、なんで、なんなの!?
同じ事を口でも心でも言いながら、私は立ち上がる。化け物は爪を壁から引き抜き、こちらを凝視している。唇の無い口からは涎が垂れていた。ぬらぬら光るそれは粘度が高く、透明でもない。
演劇部なんかじゃない。
本当の化け物がいる。
それも明確な殺意を持って目の前に。
叫んで走って逃げようとした。というか他には何の手段もない。でも、あのスピードで迫ってくる相手からどうやって逃げられる?
頭の中でどうすべきか思考を巡らせる。
この化け物は何? なんで私を狙ってるの? 逃げられるわけない! 誰か来て! でも誰か来たからってどうなるの? お母さん!
言うまでもなく何の妙案も浮かばない。そもそも私は暴力に対する回答を持っていない! 仮に私が剣道の有段者だろうと竹刀を持って立ち向かってどうにかなるような相手じゃない。コンクリートの壁を貫通する爪を持った相手にどうやって打ち勝てる?
とにかく私は身の危険が、というか命の危険が間近にある事だけは理解して、身体を動かす。
何でもいいから逃げないと! 私はなりふり構わず階段を駆け下りる。心臓が警笛を鳴らすように内部から身体を叩く。
私は全身を震わせ遮二無二足を交互に前へ出す。
奇跡的に足取りを間違わずに階段を下り切ると下駄箱の方へと引き続き駆け出した。
普段からは想像できない勢いで廊下を疾走する。
節水に協力しましょう。廊下は静かに走らない。校内美化に努めましょう。
廊下に貼ってあるポスターの文章を何故か頭で反芻し、私は下駄箱が見える所まで辿り着いた。
突然化け物に襲われて命の危機だというのに律儀に下駄箱へやって来ている辺り、習慣というのは恐ろしい。私は上履きを汚さない代わりに死んで満足なのか? 窓からでも逃げれば良かったのだ! 例え蹴破ったとしても誰が文句をつけるだろう。こっちは命が掛かっている。
自分にツッコミを入れながら、とにかく靴の履き替えはスルーして外へ、と思った矢先、足の運びが出鱈目になっていた私は遂にバランスを崩して転んだ。
そしてそれは幸運だった。
全く私は振り返らなかったので、背後でまさにあの化け物が凶刃ならぬ凶爪を再び振るおうとしている事に一切気が付いていなかった。
私が無様に身体を半回転させながら地面に打ち付けられようとする最中を化け物の爪が掠めた。
すぱっ。
そんな音がしたかどうかは分からないが、顔に熱が走った。
荒い呼吸で呻き声を上げながら立ち上がる。その際、顔に手を触れてしまった。
手に、血が付いている。血と、髪の毛。血は、ぽた、ぽた、と雫になって滴り落ちる。
自分が傷つき出血したという事実を理解し、遅れて神経が痛みを運んで来た。
それは行動不能になるような深手ではない。だが、こうして実際に脅威が及び、私は腰が抜けてしまった。立ち上がれない。
それなのに、頭は化け物の方を振り返ってしまう。
「あ」
目が合った。四つの目。やっぱり瞳孔しかない、吊り上がった化け物の目。
こちらを睨み付けると口を開いてまた何か轟音で吠える。
化け物は両腕を広げて見せ、こちらへ振りかざそうとする。
(死ぬんだ、私)
皆が皆、そうなのか。
目の前で死を差し向けられ、身動きもできないのに、思考だけは嫌に冷静だった。
この化け物は何なのか、どうして私がこんな事になったのか、理屈も理由も無視してどうしてこいつは私を殺しに来たの?
目の前の視界が震える。
「──止めなさい」
声が聞こえた。女子の高い声。それがあまりにも自分の現状に似つかわしく無く感じて、やけに耳に残る。
それからどんっという衝撃音。
それは化け物が体当たりによって押され、よろめき倒れる音だった。
さっきまで化け物が立っていた場所には声の主らしき女子生徒が立っている。
「起きて。立てる? 怪我はそこだけ?」
彼女は私に手を差し伸べると助け起こし、私をつま先から頭の先まで軽く見回し、顔の出血以外に外傷が無い事を確認した。ついでに制服をはたいて汚れを落とす。懐からハンカチを取り出して顔と手の血も拭き取ってくれた。化け物を前にして随分と平静だ。
私は何か答えたかもしれない。突如現れた彼女を惚けて見つめていた。
その女子生徒は私より長い髪をポニーテールにしている。可愛いというよりは美人な顔立ちはやや神経質そうに感じた。疲れたような、物憂げな瞳がそう感じさせるのかもしれない。身長は私と同じくらいで中肉中背か、それよりもやや細い。一番目を引いたのは、首に大きな真っ黒いチョーカーを付けている事だ。
「動ける?」
「は……い……はい」
「貴方は初めて見るけれど。今はいいわ。動ける?」
「大丈夫……だけど、顔、斬られて、私びっくりして、それで」
「そう。それだけなら大丈夫。『あの人たち』が向こうにいるから、走って真っ直ぐ学校を出れば大丈夫」
「私……怖くて……逃げて……大丈夫なんですか?」
「うん、怖いよね。だから遅くまで学校に残ったり、放課後人気の無い所には行かないほうがいい。巻き込まれるから。早く帰って。私は平気。もう慣れたから」
私は突然の味方の出現にどこかへ行っていた理性というのか正気というのか、そういうものを何とか取り戻しつつ、だからこそ恐怖や混乱によってまともな会話が出来なくなっていた。
ポニーテールの少女は随分落ち着き払っており、淡々と言葉を口にする。
もう慣れたから、と彼女は言った。慣れたというのはつまり、こうした化け物の相手をするのに、だろうか。
この状況について尋ねたい事が山ほどあるが、ポニーテールの少女は化け物に体当たりをしただけに過ぎない。すでに奴は立ち上がり、身構えつつあった。
逃げてもいいと彼女は言った。この後彼女が何をするにせよ、私が何の助けになるというのだ。躊躇う理由はない。すぐさまこの場から立ち去るべきだ。
私は意を決して再び駆け出した。
下駄箱を抜ければ校舎の外、そこから百メートルも走れば学校の敷地の外だ。
「あっ」
背中から声をかけられる。
私はそれにビクっと反応して振り返った。
ポニーテールの少女はこちらを向いて、一言告げた。
「上履き、履き替えないの?」