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枚数別のご案内――原稿用紙30枚の短編

縁切り神と乙女の心

作者: 陣 杏里

 講堂の窓から吹き込む秋の風に、栗色の髪がなびく。鼻先をくすぐられ、エーデルはくしゃみをした。

「ハーグリー王立考古学院の皆様、お集まり頂きありがとうございます。この度のラプト遺跡調査で得られた成果について、報告いたします」

 講堂の壇上、初老の男性が声を上げた。先月出発した調査隊の、隊長である考古学者だ。

「えー、出土した日用品の意匠や使われている文字などから、ラプト遺跡は八百年から千年ほど前のものだと推定しています。食物残渣の多彩さから、温暖な気候に恵まれ、農耕や牧畜が盛んだったことが窺えます」

 周りの級友達は、話に聞き入り、瞳を輝かせている。

「リヒト君、いくつかの出土品とその一覧表を持ってきて下さい」

「はい!」

 隊長の背後に並ぶ調査隊から一人が前に出る。学院の上級生から選ばれる彼らは、生徒達の憧れだ。

 呼ばれた彼は、隊長の横の卓に大きな箱を置いて一礼する。精悍な面立ちを縁取る黒髪がさらりと揺れた。

「出土品の中で一番多いものが、陶製の食器類です。次に包丁やハサミ、

鉈など――」

 一覧表を読む教授の声に、リヒトが箱から出土品を取り出して掲げる。物が出るたびに歓声があがり、空気が熱を帯びるかのようだ。

 エーデルは一人、小さくあくびをした。

(リヒト、全部あんたのせいなんだからね)

 ぶつぶつぼやき、少し考えて――決めた。これ以上ここにいても仕方がない。

「あの、先生。体調が優れませんので、部屋で休んでもいいですか?」

 生徒達の列の後ろにいる教授に一言断り、エーデルは講堂を後にした。



「エーデルちゃん、お家からの荷物が届いているよ」

 学生寮に戻り、部屋で休むと寮母に伝えると、小さな箱を渡された。叔母の名が書かれた荷札がひらひらと揺れている。

「ちょっと重いけど、なんだろ?」

 寮母に礼を言い、部屋に戻って荷を解く。

 幼い頃に母を亡くしたエーデルは、よく叔母の家に預けられていた。考古学者の父は方々の遺跡を飛びまわり、あまりかまってもらえなかったからだ。

「うわー、干し杏の瓶詰めだ! 私が好きなの、覚えててくれたんだ」

 遺跡に首ったけだった父より、なにくれと面倒を見てくれた叔母の方が過ごした時間は長いくらいなのだ。

 二つ並んだ瓶の隙間には手紙も入っていた。

 近況を知らせるそれに目を走らせつつ、瓶を開けて甘酸っぱいあんずを堪能する。

 しかし、その幸せも手紙を読み終わるまでのことだった。

『干しあんずはとてもよく出来たので、二瓶入れておきます。リヒト君にもあげてね』

「うっ、ぐ」

 思わずあんずを飲み込んでしまう。穴の開くほど手紙を見つめ、最初から読み返してみるが、文面が変わるはずもなく。

「もう、これじゃ戻ってきた意味がなーい!」

 二つ目のあんずを口に放り込み、ギリギリと歯軋りした。

 リヒトとエーデルは、巷でいう幼なじみという間柄だ。

 二人とも父親が考古学者であり、意見を戦わせる仲で、子供が生まれてからは家族ぐるみの付き合いに発展したからである。

 二つ年上のリヒトは、父を遺跡にとられたと拗ねるエーデルをよく慰めてくれた。

 考古学の本を読んでくれるとか、遺跡を遊び場と称し連れ出すとか――風変わりな方法ではあったけれど。

 エーデルとて、感謝していないわけではない。明日の研究者を育てる王立考古学院に入学したのも、彼のおかげで遺跡や考古学に興味が持てたからだ。古文書の解読などは、わりと好きなほうである。

 そして何より、彼がしてくれた約束がうれしかったのだ。

『大きくなったら、二人で新しい遺跡を見つけよう。僕たちの名前をつけるんだ!』

 半年前に入学した際、エーデルは真っ先にリヒトに会いに行った。やっとあなたに追いついた、これで約束を守ることができると伝えたかったから。

『一緒に遺跡を見つけよう、だって? そんな約束、したかなぁ……』

 首を傾げるリヒトの顔は、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出せる。

 エーデルは入学初日にして、目標を失ってしまったのだ。


「あー、終わった終わった」

 エーデルは男子寮を背に、重い荷物を下ろしたかのように伸びをした。

 リヒトの顔は見たくないので、叔母からの手紙をなかったことにしようかとも思ったが、さすがに後味が悪いと考え直したのである。

 そもそも、男子寮の寮母に事情を話し、荷物を預けさえすれば済む話だ。講堂での調査報告が終わる時間はまだ先だし、調査隊の一員であるリヒトが寮にいる筈がないのに。

(こんなことで心配しちゃって、バカみたい。早く帰ってゴロゴロしよ)

 朝一番の調査報告を抜け出してきたのだから、休息の時間はたっぷりあるのだ。

 そうして一歩を踏み出すと――かしゃん、という金属音。

 不思議に思って音源を探すエーデルの目は、見たくないものを捉えてしまった。

(な、何でここにいるの!)

 男子寮の脇に植えられているいくつかの木。窓に向かって枝を伸ばす一本に取りついている、リヒトの姿だ。

 身を隠してそっと様子を窺うエーデルの前で、彼はするすると木を登っていく。

(うーん、やましい事があるのは確定として……何を背負ってるんだろ)

 彼の背には何かの包みが縛りつけてある。先ほどの音はこれを落としたのだろうか?

(あ、部屋に入っちゃう)

 エーデルはかぶりを振り、謎を解くことにした。人目の無いことを確認してから、そっと木に手をかける。伊達にあちこち連れ回されていたわけではない。

 リヒトと同じルートを辿り、ほどなくして窓近くへ到着。彼の姿がちらりと見える。

「ふふ、ついにやったぞ!」

 彼は包みにほお擦りしているようだ。

 壁に沿う太い枝を伝うと、幾度もきしみ、息をのむ。

(……どうしてこうなったんだっけ?)

 額の汗を拭い、ふと考えたその時。

 何か倒れるような音と、壁に伝わる振動。

 窓に視線を戻したエーデルが見たものは、机に突っ伏するリヒトと、傍らでぱたりとページを閉じた辞典であった。

「ちょ、ちょっと! 大丈夫?」

 今の状況も忘れ、エーデルは慌てて部屋に飛び込んだ。

「リヒト、しっかりして!」

 揺り動かそうとして、机の前にある本棚の隙間に気づく。辞典はここから落ちたようだ。

「えっと……こういう時は、動かさずに……」

 呼吸を確認し、ほっと一安心。そこで、床に落ちたのであろう包みが目に入った。

 布の上からも分かる、二つの丸と細長い形。

「まさか……さっきの調査報告で言ってた出土品?」

 エーデルは手を伸ばし、よく見ようと顔を近づけ――違和感を覚えた。

 ハサミに触れた手に、何かあたたかい物がのせられたのだ。

「ぎゃん!」

「んっぐ! な、なに……」

 唐突に額を襲った衝撃に、しりもちをつく。

 涙目で額をさするエーデルの前、誰もいなかった部屋に、金髪の幼女が出現していた。


「うぅ、痛い……ふぅ、えぐ」

 エーデルと同じように額をさする幼女は、背丈からすると五、六歳だろうか。涙をこらえる瞳は新緑の色で、柔らかそうな髪は赤いリボンでまとめられている。

フリルとレースがあしらわれた服が似合う、愛らしい子だ。

(一体どこからわいて出たんだろ)

 驚きはしたが、幼女を泣かせたままでは、と、エーデルはハンカチを差し出した。

「大丈夫? 良かったら、これで涙をふいて」

 彼女はびくりとこちらを向いた。

 つぶらな瞳にじっと見つめられ、気まずくなって視線をそらす。気絶したままのリヒトが視界に入った。大丈夫だろうか?

「人の子には見えぬはずだが、本当に見えているようだな」

「えっ?」

「その男なら心配いらん。私が落とした神器を持ち去るような不届き者だが、ちょっと本をぶつけただけじゃ。殺しはせんよ」

 幼い声に視線を戻すと、床から立ち上がり、えらそうに胸をはる幼女の姿。

「ぶつけたとか、持ち去るとか……あぁ、もう一体何なのよ」

 エーデルは『無事でよかった』と『何てことを!』の二つの意味でため息をついた。

「それより、あなたはどこから来たの? お父さんとお母さんは?」

「どこから、だと? ふふっ、聞いて驚け。私は天上の世界より来た神である。人の子の縁を司る、縁切り神のレム様じゃ!」

「ちょ、声が大きい!」

 得意げに演説する幼女の口を押さえ、リヒトから離れる。

「レムちゃん、だっけ? お家に帰った方がいいんじゃないかな。お父さんとお母さん、心配しているよ」

「子供扱いするな、この不信心者が!」

 レムは憤慨し、床に落ちていたハサミを拾ってエーデルに突きつけた。

「このハサミは縁切り神の使う神器だ。刃には『古い縁、悪しき縁を断つ』と刻まれておる。人には読めずとも、私ならば読めるのだ」

 エーデルは静かに、と身振りで示してから口を開いた。

「そうね。古代語は色々勉強したけど、私には読めない。だからレムちゃんが本当のことを言っているかどうかも分からないな」

 未知の文字は、まるでご馳走のように、リヒトを惹きつけたのだろう。だからと言って、勝手に寮に持ち込むなど許される筈もない。

「むぅ、もうよいわ! この神器は私が持ち帰るからな。さらばだ!」

 窓から身を乗り出したレムを止めようとして、エーデルは仰天した。彼女は空中に浮いている!

「な、何なんじゃこれはー!」

 叫ぶレムの手元。ハサミからは長い糸が伸びて、エーデルの小指につながっていた。


 寮で寝ていた午前中が終わり、食堂で昼食。その後エーデルは女子トイレに

向かった。

 人気の無いことを確認してから、ついて来たレムに話しかける。

「ねぇ、レムちゃん。あなたは縁切りの神様なんだよね?」

「うむ、もちろんじゃ」

「なら、なぜ私とハサミの糸を切れないの?」

「う、それは……お前に教える義理はない!」

 レムはあからさまにうろたえ、宙に浮いたままそっぽを向いた。神かどうかはともかく、人間にはあんな芸当が出来ないことは確かだ。

(うーん、何か隠してるのは確かなんだけど)

 壁に背を預け、左手を顔の前に上げる。

 朝の一件以降、小指から垂れる糸が見えるようになった。

 色とりどりの滝のようなそれは、大抵は友人や教師などゆかりある人に続く糸だが、そのうち一つがハサミとつながっている。

 レムの言葉によれば、人には見えないはずの糸や神を見ることが出来るのは、エーデルが直接ハサミに触れたからなのだとか。

「大体、あの神器が悪いのだ。縁切りバサミなのに、なぜ縁の糸が切れんのだ!」

「あれ以外のハサミは持ってないの?」

「あったらとっくに出しとるわ!」

 レムは一度、リヒトの部屋で糸の切断に失敗している。遺跡から出た年代物なのだからと、エーデルが普通のハサミで切ろうとしたがこれもダメ。引きちぎろうとすれば際限なく伸びるばかりで、打つ手がなかった。

 結局はこの伸びる性質を利用し、ハサミをリヒトの部屋に放置して、エーデルはレムと女子寮に帰ったのだ。

 今のところ騒ぎにはなっていないし、食堂でリヒトの姿は確認済みである。ハサミは彼の手によって無事保管庫に戻されたらしい。

「もし、私に糸が繋がったままレムちゃんがハサミを持ち帰ったら、どうなるの?」

「むぅ……縁の糸で繋がったもの同士は互いに影響を与え、離れることはない。糸がどれだけ伸びるかは知らんが、お前が天上に呼ばれるか、ハサミがお前の手元に現れるか、どちらかであろ」

「うっ、手元はちょっと」

 人目のあるところでハサミが手元に出現しようものなら、泥棒の濡れ衣を着せられるかもしれない。退学どころではすまないだろう。

 それともう一つ、エーデルには納得のいかないことがあった。

 小指から伸びる赤い糸の先が、リヒトの小指だったことだ。『運命の恋人達は赤い糸で結ばれている』という伝承はもちろん知っている。だが――よりによって、あのリヒトと?

『一緒に遺跡を見つけよう、だって? そんな約束、したかなぁ……』

 自身で言い出した約束を、キレイさっぱり忘れているような奴と?

 否定してほしくてレムに問うと、無情にも『赤い糸は、結ばれる定めの者たちを示す目印じゃ』とのお答え。

(結ばれるって何よ、それ。バカみたいに約束を守ろうとしていたのは、私だけなのに)

 幼い日の約束など、彼にとっては、取るに足らないどうでもいいことだったのだ。

「確認するけど。レムちゃんはハサミをお家に持って帰りたいんだよね?」

「うむ。あれは私のじー、いや祖父が作ったものなのだ。だから私にこそふさわしい」

「おじいさんが? まぁとにかく、どうにかして糸を切らないといけないね」

「お前、何か考えでもあるのか?」

 期待のこもった眼差しを向けられる。

 エーデルとしては、レムがハサミを持ち去ること自体は、勝手にどうぞという感じだ。

 避けたいのは、ハサミの紛失に自分が関わっていると知られてしまうこと。

 それさえ気をつければ、取れる行動はある。

「そうだな、即効性はないけど……こういうのはどう?」



 翌日の昼休み。昨日と同じ女子トイレで待つエーデルのもとに、レムがやってきた。

「おーい、エーデルとやら。望みどおり、神器を持ってきてやったぞ」

「どうもありがとう、レムちゃん」

 エーデルの考えは、『ハサミから繋がる糸ではなく、別の糸を切ってみよう』という至ってシンプルなものだ。

「縁切り神は悪縁を断つのが仕事なんでしょ? だったら、その悪い糸を試しに切ってみてもいいんじゃない?」

「簡単に言うが、何が起こるか……」

 肩掛けかばんからハサミを取り出したものの、レムは不安そうだ。差し出したエーデルの左手とハサミを交互に見ている。

「もぅ、どうにかしなきゃいけないのはお互い一緒でしょ! 私がやるから貸して!」

「こら、不届き者! 神器を人間が使うな!」

 少々心は痛むが、幼女からハサミを奪うなど朝飯前である。

「えーと、これかな」

「馬鹿者! 悪縁の糸は灰色じゃ、よそを切るでない!」

「あ、ありがと」

 レムに礼を言い、右手でハサミを持つ。

 灰色の糸を刃で持ち上げて、ゆっくりと指を動かした。

 ――ぱちん。

 硬い音をさせて、二つの刃が重なる。

 あっけなく糸は切れ、溶けるように消えた。

「なんだ、ちゃんと切れるハサミじゃない」

「な、なぬぅ? ……おかしいの」

 首を傾げるレムの前で、別の糸をつまむ。

「よーし、これも、こっちも、あとこれも!」

 しゃきん、ぱちん、ちょきん――三回も切ったところで、エーデルの指から伸びる灰色の糸は全部無くなった。

「うーん、なんで昨日は切れなかったんだろ」

「……まぁ、いい。切れるなら、ハサミと繋がっている糸を切るのだ」

 レムの言葉にこくりと頷き、ほっと息をついて指を動かす――が。

「あれ? くにゅって何よ、くにゅって」

 糸は刃と刃の隙間に挟まり、うまく動かせない。糸を引き抜いて再度試しても、ダメ。

「さっきは切れたのに、何なのよ、これ!」

 ハサミを投げようとして思いとどまり、ブレザーの内側に隠して上から握った。ドアに手を伸ばす。

「おい、どこへ行くつもりじゃ」

「他人の糸も切れるかどうか、試してみる」

 切れてもらわねば困るのだ。今は出土品の大半が未調査だから、まだいい。レムの協力で持ち出すこともできた。だが、それも今のうちだけだろう。

「お前の糸ならまだしも、他人の糸だと?」

「あなたは知らないだろうけど、この学校は遺跡を調べて、昔の技術を今の生活に生かせないかを考える所なの。こんなハサミがあるって分かったら、首都の研究所で詳しい調査をすると思う。そうしたら私だって」

 全ての元凶はリヒトなのだ。それなのに、なぜ自分がこんな面倒ごとに巻き込まれなくてはならないのか?

「どうして……こんな糸、どうしてなの!」

 歯で赤い糸を引っ張り、ハサミの刃を向ける。これがリヒトに繋がっているなんて、もうとても、我慢できそうにない。

「待て! それは悪縁の糸ではないぞ!」

 レムが止める間もあらばこそ、エーデルは指を動かす。

 二つの刃は、確かに赤い糸を切断した。



「おい、エーデル。起きるのじゃ」

 次の日の朝。寮の部屋で寝ていたエーデルは、レムに起こされた。

「ぼんやりしている場合ではないっ。お前の小指を見てみろ」

 叫んでしまいそうになったが、すんでのところで口を押さえた。ここは二人部屋なのだ。

「うそ……だって昨日切ったのに」

 レムに引っ張られた左手、小指には灰色の糸、赤い糸の姿がある。レムは糸をつまみ、大きなため息をついてから口を開いた。

「昨日糸を切ったところは、私も見ておった。だのに今糸が戻っているなど……

悔しいが、私にはどうにもできぬ。こうなれば、一度天上に戻り、祖父に助けを求めるほかあるまい」

「祖父って、ハサミを作ったっていう?」

 エーデルはふと考えた。ハサミの製作者なら、事態の打開に最適の人物ではないか。なぜレムは、今まで呼ぼうとしなかったのか?

「えぇい、うるさーい! 私だって悪いと思っておる! でもでも、タンスにしまっとく神器があるのに、くれないじーじがいけないんじゃ! 私はもう一人前なのに!」

 問いかけにじたばたするレムの言葉で、エーデルは事情を理解した。

(なるほど……認めてもらえなくて、拗ねて、おじいちゃんのハサミを持ち出したのね)

 泣き出したレムをよしよし、と慰める。

「とにかくっ、お前はおとなしく待っておれ。うまくすれば、今日の夕刻ぐらいには戻ってこられるじゃろ」

 口調だけは偉そうに、涙を拭うレム。

 指先を宙で動かしたかと思うと、その軌跡がドアの絵となって現れる。彼女は何の迷いもなくノブを回し、ドアの奥へと消えた。

「行ってらっしゃ……えぇ?」

 度肝を抜かれたエーデルは、しばらくそこに突っ立っていた。



 こうして、エーデルの一日はレムの見送りから始まった、のだが。

「なんでこんな、クソ重たいものを運ばなきゃならないの……」

 地質学の教授に鉱物標本を運ぶよう頼まれ、教室から教授室までを往復するはめになった。

 なぜか今日に限って、朝からたくさんの用事を頼まれて、昼休みにして疲労困憊である。

「あれ? エーデルじゃないか」

 指に食い込む標本と戦っていると、廊下の向こうからリヒトが歩いてきた。

「ちょうどよかった、君に話があったんだ。これ、地質学の教授室まで運ぶね」

 彼はそう言って、エーデルから標本を取り上げた。

「あ、ありがと。場所、知ってるの?」

「当たり前だ。僕は君の先輩だぞ? それに、あの教授はいつも鉱物標本を使うからな」

 そういうことは覚えてるのね、約束は忘れちゃうのに――喉まで出掛かった言葉をのみこみ、リヒトについて歩く。

 記憶より大きくなっている背中に妙な感慨を覚え、ぶるぶるとかぶりを振った。

 教授室につくと、リヒトは慣れた手つきで標本を棚にしまい始めた。

「話があるって言ってたけど、なに?」

 作業を終えるのを待ってから聞くと、リヒトの肩がびくりとはねた。

「え、えーと、その……ああいう遺跡を見ると、昔を思い出すね!」

「は? まぁ、そうね。昔よく遊んだし」

 リヒトの指は窓の向こう、実習用の遺跡を指している。『昔を思い出す』なんて、皮肉にしか聞こえないわ、とエーデルはぼやいた。

「そ、それでさ、一昨日、寮に干し杏の瓶を届けてくれたんだよね? お礼を言わなきゃと思ってさ。どうもありがとう」

「へ? あ、あぁ。叔母さんの手紙に持ってけって書いてあったから、そうしただけ。話しがそれなら、帰るね」

「あ、あと一つ!」

 用は済んだと背を向けたが、必死そうな声に振り返る。

「届けてくれた時、僕の部屋に入ったか?」

 ふらふらと泳ぐリヒトの目にピンときた。

 彼は、ハサミを見られていないかと探りを入れに来たのだ。哀れになるほど下手なやり方だが、こちらが真実を明かす義理はない。

「はぁ? 男子寮の部屋なんて、入れる訳ないでしょ。何言ってんの」

「そ、そうだよね、ごめん。今のは忘れて」

 否定してやれば、息をついて胸をなでおろしている。

「叔母さんには感謝しなきゃならないな。君と会う機会を作ってくれたんだから」

 心配するくらいならやらなきゃいいのに、というエーデルのため息も知らず、リヒトは爽やかな顔でこう続ける。

「入学した時に一度会ったきりで、ずっと話もできなかったからさ。昔話でも出来たらいいなと思っていたんだ」

 胸を突かれたような気がして、思わず押さえた。

「昔話、だって……?」

 腹の底から声を絞り出す。

 彼が本当に昔話をしに来てくれたなら、どんなにか良かっただろう。

「何の昔話をするっていうの? 約束をさっぱり覚えてないような奴と!」

 こみ上げるものを押さえきれず、うつむく。

 握った拳が目に入り、エーデルは息をのんだ。

「なに……これ」

 小指から垂れる糸が、太くなっているのだ。それも、昨日切断したものだけが。

 これでは、糸ではなく紐になってしまう。

 くらり、とめまいを覚える。

 崩れる膝を、どうすることもできなかった。



 レムが大急ぎで天上に戻り、祖父について学院にとんぼ返りするまで二日かかった。

 件のハサミを回収し、辿った糸の先には医務室で眠るエーデルの姿。

「あのさ、エーデル。君が言ってた約束のこと、おばさんに聞いてみたんだ」

 ベッド脇の椅子には、リヒトとかいう男が浮かぬ顔で座り、彼女に話しかけている。

「笑いながら教えてくれたよ。『リヒト君が言い出したのに、忘れちゃったの』って。僕たちが指きりしてたとか、君が『リヒトお兄ちゃんと一緒の学校に行く』ってはしゃいでいたとか、聞いてない事までさ。どうしてあの人は大昔のことを細かく覚えてるんだろ?」

 リヒトは上掛けからエーデルの手を出して、彼女の小指と自分のそれを絡ませる。

「どうして僕は……忘れていたのかなぁ」

 ため息をつく彼の横で、レムは首を傾げた。

「糸が紐みたいに……どういう事じゃ?」

「やはり、あの失敗作で糸を切りよったな」

 レムの祖父が、自らのハサミでエーデルの小指から伸びる、灰色の紐をはさむ。

「あとは、ハサミと繋がる糸を切れば、人の子も目覚めるだろう」

 祖父のハサミは、切れなかったはずの糸をあっさりと切断した。

「そんな、だって、前試した時は――」

「これは縁切りバサミではないよ。ある鋏職人の、うぬぼれと思い上がりの産物だ」

 遠い目の祖父から聞き出した話はこうだ。

 件のハサミは、ある縁切り神が神器を失くすという不祥事を受けて、試作を依頼されたものだ。

 紛失防止の観点から、持ち主とハサミを糸で繋ぐという機能が付加され、別のハサミでないとそれは切れない。

 しかし、何をどう間違ったのか、試作品は切った糸を強化して復活させるという力まで発揮してしまったのである。

「手元に置いて戒めとしていたが、お前に持ち出されるとはな。管理不行き届きであった」

 祖父は持ち出しを咎めもしなければ、もっと早く知らせるべきと責めもしなかった。

 拳をにぎり、黙ってうつむくレム。

「ん、うぅ、ん」

 その時、ベッドの軋みと少女の声がした。エーデルが目を開け、身を起こしたのだ。

「よかった、気がついたんだね!」

「リヒト……? ここ、どこ?」

「どこって、医務室だよ。君は倒れてから二日間眠っていたんだけど……覚えてない?」

 二人はしばし話していたが、エーデルの返事はどうも要領を得ない。リヒトは「君の家族と先生を呼んでくる」と断って、部屋を出ていった。

「やはり、もう見えんのじゃな」

 エーデルの顔の前で手を振ってみるも、反応はない。ハサミとの糸を切った今となっては、神も縁も見えはしないのだ。

「なんだ、寂しいのか?」

 祖父の問いにぶんぶんと首を振ったところで、医務室のドアが開いた。リヒトと男女数人が入ってくる。

 その中の白衣を着た男がエーデルとしばらく話をした後、『記憶に混乱がみられます』とリヒト達に告げた。

「キオクにコンラン、ってなんじゃ?」

「あの娘は人の身で神器を使ったという話だったな。ならば、その代償だろう。縁の糸を切る代わりに、記憶を失ったのだ」

「そんな! エーデルは悪くないのじゃ。私が神器を持ち出したりしなければ」

「わしの可愛いレムや」

 ぽんぽん、と優しく頭をたたかれる。

「わしもお前も、あの娘から学ばねばならん。縁の糸を扱うということは、人の子をどうにでも出来るということなのだ」

 リヒトなどは腕を組み思案顔だったが、やおら口を開いた。

「混乱って……自分や家族、僕のことも覚えているんだろう? エーデル」

「うん。でも、正直に言うと、リヒトの思い出はすこしぼんやりしてる。あと、何で

この学校に入ったのかも思い出せないの」

 エーデルは不思議そうに当たりを見回した。

「ぼんやり? 僕の事だけ……約束も、か?」

「えっ? 最後、なんて言ったの?」

 聞き返されて、リヒトは苦笑い。エーデルの頭を優しくなでた。

「大した事じゃないよ。君が無事でよかった」

 それを見た祖父はふぅ、と安堵の息をついた。指先でドアを描き、レムに声をかける。

「ハサミは回収した。娘も目覚めた。もう帰るぞい」

「え? あ……うん」

「弁解する訳ではないが。あの娘にとって、悪いことばかりではないと思うぞ? 赤い紐を細くはできんし、そのまま残すのだからな」

「なるほど。そう言えば、エーデルは何かとリヒトを気にしておったな」

 祖父が開けたドアに背を向け、レムは大きく息を吸い込んだ。

「エーデル、迷惑かけてごめんなさい!」

「すまなかったな、エーデルとやら」

 二人は一礼してドアの奥へ。ぱたりと閉じたそれは、色彩を失って消える。

 最初から、何もなかったかのように。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 考古学院という設定が面白かったです。 こういうシチュエーションでのほのぼの系は読んでて楽しいですね。 [一言] ラストが意外でした。 記憶を取り戻すでも、約束を忘れてたリヒトにバチが当たる…
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