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作者: 迫田啓伸

 京都の夏は暑い。

 額に流れる汗をぬぐいながら町を歩く。商家では下働きの少年が打ち水をしたり、店主が客と話をしている。

 東京や大阪のようにけたたましい呼び声がしたり、自動車が走っていたりということはない。静かな街だった。

 そもそも、最近出てきた自動車という代物は高級品だった。政府高官か、財閥の幹部たちしか持てないものだった。

 竹内も自動車に乗ったことはある。しかし、その度に酔うのでどうしても好きにはなれなかった。

 擦り切れた着物の袖に腕を通し、商家が軒を連ねる小道を、竹内は歩いていた。履いている草履も古びたものだった。とはいえ、竹内はそのほうが楽だから、高価な厚手の洋服は動きにくいからと、好んでそのような質素な格好をしているわけだが。

 知り合いの僧が前から歩いてきたので、竹内はとっさに頭を下げた。その僧も彼に呼応するかのように、足を止め、頭を下げる。

「こんにちは。先生、散歩で?」

「うん、まあ……そないなるかな?」

「なんか、悩んでいることあらしまへんか? 拙僧でよければ相談に乗りますさかい……」

 竹内は慌てて頭を振った。

「いやいや、そんな大したことやおまへん。次の作品、どないしよ、思うてましたんや」

 僧は笑い出した。

「さいですか。その、ちょっと、拙僧には……」

 それから竹内は僧と一言二言、世間話をした後、別れた。

 竹内は薄くなりつつある髪を指先でもてあそびながら、街道を進んでいく。

 えらいことになった、と竹内は眉間にしわを寄せた。


 竹内は今年の五月で、それまで専任教授として働いていた京都市立絵画専門学校(現代の京都市立芸術大学)を退任した。原因は校舎の移設問題に巻き込まれたからだった。

 四十五歳から十五年間勤めてきただけあって、学校に愛着もあり、今では懐かしくもあるのだ。しかし、当時は面倒だから自分が全ての責を負って、逃げ出すようにやめてしまった。当然、学校に残るようにとの声もあった。

 だが元来の不精癖と、思うように作品が作り出せない日々が続いたことからの苛立ちから、退任を決めてしまった。

 

 えらいことになった、と思う理由はもうひとつ。

 学校を退任する数ヶ月前、いや、去年の秋頃だった気がする。

東京にすむ画家たち数名と会う機会があった。そのとき、東京日本橋に本店を構える三越の番頭も会合に参加した。

ようこそお集まり下さいました、と三越の番頭は商人らしい愛想笑いを振りまき、竹内たちを見回した。

 竹内は集まった面々を見回したが、明治、大正時代の日本画家の有名どころ……下村、小堀、川合、山元などが集まっていた。

 竹内も子供の頃から絵を学び、修練を積んできたのでそれなりの自負があった。この中の一員になれたことは、少し誇らしげでもあったが、その一方で担ぎ上げられているような気がして、いささか気が引けた。

「……」

 その中には横山もいた。一度、京都市立美術工芸学校で共に教鞭をとっていたこともある、才能豊かな男だった。

 竹内はそのときから、横山の才能をうらやましく思っていた。彼の描く日本画、水墨画は竹内の目を強くひきつけた。当然、一般大衆の人気は高かった。

 他人の作品に左右されまいとしていた竹内も、横山に注目せざるをえなかった。美術は勝ち負けではない、とわかっていた。だが一方で、横山には負けたくない、と思っていた。

 今は横山のほうが人気でも、いつかあっといわせてやる、と妙に横山を意識するようになった。

 三越の番頭は咳払いをした。

「え~、今年の震災、関東大震災と呼ばれておりますが、それにより東京は多大な被害を受けました。ですが、徐々に復興しつつあります。そこで、三越では人々の一時的な文化復興を目指し、公募展を行うことにいたしました。今回、その第一回を記念し……」

 挨拶は長々と続いた。

 要するに、三越は有名画家の展示会を行うので、何か描いてきて欲しい、ということなのだった。会の名前は『淡交会』とつけられ、なぜか竹内もその中の一人に選ばれてしまった。

 よし! 選ばれたからには、と意気込んでいた竹内だったが、その後の学校の移転問題が出て、作品を描くどころではなくなってしまった。

 こら、あかん。

あんとき横山に『あんさんを仰天させるものを描いたるさかい、楽しみに待っときなはれや』と、啖呵きってしもうとるから、何も描けんかったではあまりにかっこ悪い。

 だが、何を描いたらいいのか、竹内自身もよくわかっていない。

 横山はきっと、すごい作品を描いてくるだろう。

 だが、あの時は集まった連中が竹内と横山を比べるようなことを話し始めた。


 青かった空に、うっすらと赤みがかってきた。

 道沿いの一軒家に通りかかった。

大工たちは仕事を終えたらしく、車座になって休んでいた。道具はすっかり片付けられていた。だが、よほど汗をかいたのか、手ぬぐいを首に巻き、上半身裸になり、日焼けした肉体を風にさらしていた。楽しげに談笑している彼等は、家主がおぼんに何かを載せて現れると、座ったままで頭を下げた。

 和服の家主は大工にお猪口を進めていた。多分、酒でもふるまっているのだろう。

「おばんです」

「やあ、竹内先生。おばんです。おさんぽでっか?」

「そんなとこですわ。作品の構想が出てこんので」

「先生、難儀なことやけど、きばったってや」

 はあ、と生返事を返すことしかできなかった。

 大工の一人が、ふるまわれたお猪口を指先でもてあそびながら、家主に誰なのか尋ねていた。

「なんや、竹内先生を知らんのか。先生は専門学校で絵を教えていて、若い頃にはお国の……いや、おフランスのパリに日本の絵のすごさをやな」

「その辺でやめとくんなはれ」

 大工達はへえと声を立て、竹内に注目した。

「すごいやんか」

「そういや、なんか学のあるお顔と思ったわ」

「嘘言え」

「しゃあないやろ。親父の後継いで大工になってからは、学のあることなんかせんやったんや」

「春画ばかり見とったらあかんて、いうたやろ」

「そう言うお前はいつまでも所帯もたんと、遊郭に入り浸って」

「もう、やめぇや」

 大工たちの話ははずみ、その場はにぎやかになった。竹内はその様子をほほえましく眺めていた。そのとき、家主が竹内にお猪口を勧められた。

「先生、いかがどす? 一杯」

「いやいや、ただ通りかかっただけでおま。ここは皆さんで」

「まあそういわんと。ちょっといいやおまへんか。先生も悩んではるようやし、飲んだら案外いい考えが浮かぶと思いますんや」

 よく見たら、車座に座っている大工の真ん中に、木桶に氷水を入れていた。それに酒徳利がいれられてあった。

 家主が勧めてくるので、断るのも悪い気がしてきた。実際、竹内もそんなに嫌いなほうではない。口元が緩むが、無理矢理引き締める。お猪口を受け取り、一気に飲み干す。

「うまい」

「仕事の後の一杯は、うまいやろー」

 大工たちから笑いが起こった。竹内もそれに釣られて笑った。

「先生、酒の絵なんてどないや?」

「なるほど。はあ、そうか、これは思いつかなんだわ。あんさん、頭ええな」

「え? ほんまか? 大工辞めて京都大学めざそか」

「やめぃ、新聞もろくに読めん奴が、大学にいけるわけないやろ。先生も、おだてんといてください」

「かんにん」

 少しとはいえ、酒が入ったおかげで竹内も少し陽気になり、大工たちと話を弾ませた。


 家に着いたときには、台所から煙が上がっていた。

 妻は既に夕食の準備を始めていた。思っていたより遅くなってしまった。妻には悪いと思いつつ玄関を開けると、妻はいつも通りに迎えてくれた。

「お帰りなさい。あらあら、飲んで来はったんですか?」

「ちょっと、通りすがりにふるまわれてな」

「もうすぐ晩御飯ですよって。ええ鱧を見つけましたんや」

「鱧かぁ。もうそんな季節なんか」


 竹内の家は画室も兼ねているので、世間一般の民家よりもつくりが大きい。息子は家を出て独立した。

 竹内には弟子が何人かいて、彼らも住み込みでそれぞれの作品に取り掛かることもあった。ここ最近、弟子の独立、弟子に仕事が舞い込むことも増えた。入門したてや独立にはまだ早い修行中の者もいたが、彼らには休暇を与えた。

 つまり今現在、広い家に竹内は妻と二人だけで暮らしていたのだ。妻に家事全般を任せているが、竹内の家が無駄に広いために妻には他所様よりも余計に負担をかけている気がして、悪い気になってくる。

「細かいこと気にしとったら、絵描きの妻なんてやってられまへんわ

 妻は時々こう言う。絵が売れ、教授をしていたときの貯えもある。経済的な負担はかけてないつもりだ。

「どうかしたんでっか?」

 また考え込んでいたようだ。妻は食器を片付けていた。

 気がつくと竹内は腕組をし、頭をたれていることに気がついた。妻が声をかけてくれなかったら、ずっとこのままだった気がする。

「ン……、ちょっとな」

「今度の東京での展示のことでっしゃろ?」

「そや」

「学校のゴタゴタもあったし、しゃあないんやないですか?」

「そやけど、今度の展示会には出したいんや。横山も出すて、はりきっとったで。あの、横山には負けたない」

「横山、横山て、横山はんに迷惑や。そんなに意識せんでええんと違います? 変な対抗心持つさかい、へんな啖呵、切ってしまいますんや」

「すんだことやんか。まあええ。あしたは一日画室や」

「はいはい」


 そんなに仕事した気がしないのに、竹内は眠気を感じていた。

 布団を下ろし、蚊帳も出しておく。

 外はすっかり暗くなっていた。もう働いている人間もいないだろう。

障子を開け、縁側に出る。時々強めの風が吹き込んでくる。昼間の暑さが信じられなくなりそうな涼しさだった。それにともない、木の葉がざわめき、庭の雑草がこすれあう。

虫が、鳴いているようだ。ちょっと庭に出て、辺りを探せば一匹や二匹ぐらい簡単に捕まえられそうだ。昔の歌人や俳人が風景を詠んだ気持ちもわかる気がする。

 風は相変わらず吹き続けている。時々強く、程よい涼しさの風が身を通り抜けていく。耳をすませば目に見えない虫たちの声がする。夏も深まり、秋になっても続くだろう。今とは少し違う鳴き声が聞こえることだろう。

 一句詠みたくなった。が、酒を飲み、ろくに回らぬ頭ではうまい言葉が浮かんでこない。

 目の前が若干明るくなった気がした。ほぉ、と思わず声が出てしまった。月が現れた。それまで雲に隠されていた月が現れた。

 満月だった。

 月を見ていたせいで、妻が傍にいるのに気がつかなかった。

「どないしはりました?」

「ん? ええ月や思うてな」

「まあ、きれい」

「春は曙、夏は夜、と言うた人がおるけど、ほんまや」

 月は時々雲に隠されるが、その度に姿を見せて暗い夜空を照らした。


 次の日、竹内は画室にこもった。その日は風がなく、暑さだけが部屋にこもった。ただ、白い紙を置き、その前に座っているだけなのに汗がにじみ出てくる。

 何を描けばいいのか。昨日は酒の絵でもと思っていた。それなのに、今日は絵を描こうにも何も浮かばない。

 顔に玉のような汗が流れるのを感じる。たぶん、焦りのせいでもあるのだろう。淡交会の展示会は11月。少なくとも10月に製作を終らせて、東京に運び、審査を受けなければいけない。

 絵の製作にも時間がかかる。他の連中はもう既に取り掛かっていることだろう。自分も何か描かないといけない。みんなの前で啖呵を切った手前、何も無しではいられない。

 竹内はそのまま動かなかった。紙に汗の粒が何滴か落ちた。

「あかん……」

 首を振る。気晴らしに外に出たくなった。いや、ダメだ。今日は一日画室にこもると決めたはずだ。障子の向こうでは、今日はいやになるほどの晴天なのが分かる。真夏の晴天であるということは、今日は炎天下。セミの声が暑さに拍車をかける。

画室は暑いが日陰であるため、外よりましというわけだ。

 竹内は何のひらめきも感じることなく、その場に座ってからどれくらい経っただろう。妻が障子越しに呼びかける声にも、しばらく気がつかなかった。

「お前さん、返事しておくれやす」

「なんや。今日、仕事中は話しかけんな、いうたやろ」

「そやけどあんさん、食事ができたら呼べ言いましたんやで。お昼ですさかい、でてきなはれ。今日は素麺でっせ」


 画室から出た。今日は昨日と違い風がない。妻も暑さに耐えられないようだ。服は薄手の木綿。団扇は手放せないようだ。

 そういえばピエール・オーギュスト・ルノワールというフランスの画家は日本の団扇を持った少女を描いたらしい。

 おっと、そういえば同じくフランスのジャン・クロード・モネは大変な親日派で、日本の庭園にありがちな蓮の池を作ったらしい。新聞に載っていた。

 日本が追いつくべきヨーロッパの面々に、日本のことが評価されるのは嬉しかった。彼らがせっかく評価してくれているのに、その日本人が世界をあっと言わせるものを作れないとしたら、とても恥ずかしいと思うし、あまり良くないことがおこりそうだ。

 軽く昼食をとり、再び画室にこもる。

 竹内はため息をついた。

 浮かばない。暑さだけが自分の周りにあり、何かが浮かびそうになるが、もう少しのところでふっと消えてしまう。

 床に座ったまま、腕を組む。顔に玉のような汗が流れるのを感じる。セミの声が耳に入る。ひっきりなしに入る。時々思考が止まってしまう。いやな空気が充満する。だが、竹内は動かなかった。自分の前に用意してある紙に汗が落ちて、紙がよれよれになっても、考えることをやめなかった。

 妻が夕食だと呼びに来てもやめなかった。

「あんさん、もういい加減にしなはれ」


 夕食が済むと、空は不意に暗くなってきた。日が沈んだからではなく、空が急に曇ってきたからだ。青い空が、あっという間に黒い雲に覆われた。夕暮れにはまだ時間があるはずなのに。

 そして、激しい雨が降ってきた。いわゆるにわか雨という奴だ。

 雨のおかげでそれまでの暑さが、すっと逃げていったようだ。

 縁側に座り、雨の様子を見る。庭には既に水溜りができていた。

じじじじ、じじじ、と蝉が泣いていた。昼間は暑さを倍増させるような鳴き声だったが、今では涼を楽しむための演出のひとつのようだった。

にわか雨はすぐにやんだ。垣根の向こうに見える木々が雨粒に濡れて、薄闇の中でつややかに光っているようだった。

こうしとれん。

 涼しくなった今こそ、何か思い浮かぶかもしれない。竹内が立ち上がった後、つるしていた風鈴が音を立てた。


 画室にこもり、ろうそくの明かりで紙に向かう。夜になり、風が涼しくなった。時々吹き込んでくる隙間風で、ろうそくの炎が揺れる。人通りもなくなったようだ。静かで、思索にふけるには良かった。筆と絵の具を用意し、何かひらめいたらいつでも、図示することができる、と思っていた。

 がりがり、と外から変な音が聞こえた。

「なんや?」

 声をかけたが、返事はなかった。その代わりに、引き戸がふるえ、変な音が続いた。誰かおるんか? とも呼びかけてみる。一向に返事なし。風が音を立てている。そう思い込むことにした。腕を組み、目を閉じる。そして精神統一……できない。

 竹内は戸を開けることにした。

 戸を開けると、そこには一匹の猫がいた。白と黒と茶色の混ざり合った、まだらの猫だった。突然、引き戸が開いたために、猫は驚いて生垣を乗り越え、逃げてしまった。

「猫か」

 竹内は再び紙の前に座る。これも何かの縁だとふと、頭にひらめいた。

 京都画壇は東京画壇と違い、絵を描く素材にこだわりがないところがある。

 早速筆を執り、猫を描き始めた。が、どうもうまくいかず、時間ばかりが過ぎていった。


 猫の絵は失敗を繰り返した。

 竹内は筆を投げ出しそうになった。いい構図が浮かばない。猫の姿もどんなのがいいか、迷ってばかりいる。大きく息をつく。

 せっかくいい題材が見つかったと思ったのに。

 

 数日後。

 初夏から盛夏に時期が移り、盆も過ぎ、夏も深まろうとしていた。弟子たちは次々と戻ってきて、家の中はにぎやかになった。

 竹内は猫を諦め、他の題材を探した。だが、これといったものが見つからぬままだった。

 ある夕暮れ時、近所の隠居が酒屋の主人と将棋を打っていた。

竹内はその様子をじっと見ていた。実は、画室に西日が差し込み、暑くて仕事どころではなかった。竹内は展示用の絵を描いているだけではなく、商家や企業または役所から絵の依頼を受けて描くことも多かった。それが商売なので、どんなに調子が悪くても絵はなんとか描き上げられる。

 それなのに、自分のために描く展示用の作品は、相変わらず描けないままだった。

 縁台将棋は隠居の優勢だった。

「どや、次はそっちの番やで」

「分かってまんがな。えーと」

「ところで先生。最近調子は、どないです?」

 不意に隠居から竹内に話が振られる。竹内が答えに見舞っていると、酒屋が不満をあげた。

「打ってる間は黙っといてくれなはれ」

「アホウ。いくら考えても無駄や。待っているのも億劫なんやで」

「ご隠居、そら、あんまりやおまへんか?」

「そう言うンやったら、何とかしてみんかい。わしに三日続けて負けといて」

「うぐぐぐ」

 酒屋は腕を組み、盤上をにらむ。どう見ても酒屋は勝てそうになかった。隠居はさっきの続きとばかりに竹内に向き直る。白く伸びたヒゲを手でもてあそびながら、

「そういや、先生がかかれはったんでっか? 向こうの八百屋の看板の字」

「ええ、そうだす」

「いい字でしたな。隣のスイカの絵がいいですね」

「おおきに。夏なんで、と思たんです。ちょっとした、いたずら描きですわ」

「まあまあ先生、そう謙遜せんと。これが終わったら一杯どないです?」

「おおきに。けど遠慮しときますわ。描かなあかん作品がありますんや。展示会がもうすぐなんで」

 残念やな、と隠居が呟いたとき、酒屋が『あった!』と叫び、駒を動かした。隠居はそれを一目見るなり、縁台においていた持ち駒を手に取り、無造作に置いた。

 一方、酒屋の顔が将棋版に近づいた。そして目が丸くなった。

冷や汗が流れ出していた。表情が固まっていた。

 隠居は縁台から降り、背筋を伸ばした。

「つみやな」

「あ~っ、また負けた~」

 もう少し二人の様子を見ていたかったが、もうすぐ日が沈む。

あまり遅くなると妻が怒る、と竹内はその場を去った。

 先ほどの場所から家まで、距離はそう離れていなかった。

 遠くの寺で鐘が鳴る。西の空が赤くなり、影が長く伸びる。

 ヒグラシの声が聞こえた気がした。今年の夏、初めて聞いた。もう、夏も終ろうとしている。通りかがった民家の生垣に絡まっていた朝顔の蔓は、茶色に変色していた。

 魚屋の呼び声はいまだに続き、巡回中の警察官は何も言わずに竹内とすれ違った。

 竹内は顔を上げた。八百屋の店先に置かれた荷車の上に一匹の猫がいた。どこかで見たことがある猫だと思い、目を凝らしてみた。見覚えのあるまだら。この前、画室の前にいた奴だ。

 その猫は寝ている。

「ははぁ、これはいい猫がいるぞ」

 このとき思い出したのが、徽宗皇帝だった。

 徽宗皇帝とは、中国宋代の花鳥画の名人である。その代表作の中に猫の絵があるが、その絵の猫とそっくりだった。

 竹内にひらめきが浮かんだ。今まで猫を描いていても何かが足りなかった。いまひとつ何かをつかみきれていなかった。この猫が目の前にいれば、うまくいく気がする。

 足をしのばせ、猫に近づく。起きる気配はない。袖から腕を出し、猫に近づける。もう少し。後一歩で捕まえられる。

 猫のひげがピクリと動いた。

 起きる!

 竹内は足を止めた。ヒゲが二回、三回と上下し、やがて静止した。この猫を逃がすと、せっかくのひらめきがなくなってしまう。

 竹内は息を止め、一気に近づくと両手で猫を抱き上げた。

 一方、猫も突然のことで驚き、叫び声をあげた。

怪談話や上方歌舞伎で見た、または聞いたような声ではなく、もっとすごいものになって竹内の耳を貫いた。

「あっ、わっ! こら、逃げるんやない! あたたた」

 猫は竹内の顔や首を爪で引っかいた。一瞬手の力が緩みそうだった。腕を伸ばす。これで猫の爪は自分の顔まで届かない。

「フギャー、フギャー、ギャー、ギャギャギャギャー!」

 猫は両手の爪の伸ばし、竹内の腕に爪を立てる。竹内は悲鳴を上げ、うっかり指の力を緩めた。そのとき、猫は体を抜こうとした。竹内は体を投げ出し、両腕でしっかりと猫を捕まえた。猫は相変わらず叫びまくった。竹内も逃がすまいと地面に這い回り、砂煙を上げ、回りの視線も気にせず、自分の年を忘れて猫と格闘した。

 竹内は全く気がつかなかったが、彼の周囲に近所の人たちが集まってきた。

「おいおい、何や何や」

「あれ? 竹内先生やないか?」

「猫を捕まえとるで」

「なんやっとんやろ」

「先生がそんなけったいなことするわけないやろ」

「大学の先生でっせ。わしらには分からんこともあるんや」

 猫がようやく諦め、竹内の手の中に納まった。そのとき、竹内はようやく自分の状況に気がつき、そそくさと退散した。

 脱兎のごとく、野次馬から逃げ帰ると、早速妻にわけを話し、この猫を飼うことにした。

 名前は尾形光琳から取って『リン』とつけた。

 その『リン』だが、これが困ったドラ猫だったのだ。


 リンは竹内の言うことは聞かず、勝手に出歩くことが多かった。

それでも、竹内はリンが戻ってくるたびに、その姿を写生した。

猫は全く落ち着きがなく、一箇所に同じ姿勢でじっとしていない。犬と違い、飼い主の言うことをきかず、自由気ままに動き回る。そのため、紙に素早く書き起こさなければならない。

 そのとき、竹内は集中した。

 短い時間で、どれだけ猫……リンの写生ができるか。それがひとつの竹内の課題となっていた。だが、昼食、夕食など食事時になると、リンは急に落ち着きなく首を動かしたり、やたらと動き回ったりする。

 ある日の昼食前、

「ご飯やで。今日はさば……」

 妻の言葉が終わらぬうちにリンは走り出し、妻の持っている皿から、さばの切り身をくわえて逃げ出してしまった。

 猫を追うより魚をどけよ、ということわざがある。しかし、リンに限って言えば、魚をどける暇がなかった。

 ちなみにそのときは、リンは夕方まで姿を見せなかった。

 竹内が怒ろうとしたら、リンは爪を立て竹内の鼻先を引っかき、その後部屋の隅で丸まった。捕まえようとしたら逃げた。


 ある日、魚屋が竹内の家に文句を言いに来た。

「竹内先生! そちらで飼ってはる猫!」

 聞くところによると、リンは魚屋が仕入れた鰻を取ろうとしたらしい。

「京都に鰻はなかなか入ってけぇへんし、こっちも仕入れるの大変やったんやで。それをな、おたくの猫は」

「えろぅ、すんまへん」

「先生。謝ってすむ問題でもないんでっせ! うちは生活かかっとんや。しっかりしてくれんと、困るわ」

「すんまへん、堪忍したって。わしの描く傑作のためにも、あの猫がいるんや、この通りや。どうか許したって」

「それじゃ、先生。これから気ぃつけておくんなはれや」

「すんまへん」


 リンのいたずらは、これだけでは終らなかった。

 柱で爪を研ぐ。これはほんの序の口。

 庭で糞などをするのにも慣れた。

 他所の家の庭に糞をして、そこの家主が怒鳴り込むこともあった。竹内本人はもちろん、妻や弟子が代わりに謝ることもあった。

 それから発情期でもないのに、

 

 あぁぁぁぁぁお、あぁぁぁぁぁお、


と、異様な鳴き声をあげて家中を徘徊することもあった。これは外に出なかったので、不幸中の幸いというものだった。

 夜中にふっと消えて、一晩中帰らなかったこともあった。

 朝になったらいつの間にか縁側の下で寝ていた。何をしていたかというと、どこかで喧嘩してきたらしい。毛が抜けていたり、傷を負っていたからすぐに分かった。

 家から出さないようにすると、リンは激しく抵抗した。竹内、妻、弟子の誰かが目の前に立っても、リンは毛を逆立て、うなり声を上げて飛び掛ってきた。悲しきかな、運動不足になりがちな絵描きという仕事をしているので、リンのすばしっこさには誰もかなわなかった。

 何の問題も起こさなかった日でも、時々夜になると家から出て行くこともあった。だが、必ず夜が明けると戻ってきた。

 それでも、さすがに猫だけあって、ねずみが出たときは素早く捕らえたものだった。

 

こんなこともあった。

 眠っているリンの写生をしているときだった。その日は朝から曇っていた。その上、外から風が吹き込んでくるのでとても涼しかった。

弟子たちは竹内の画室でそれぞれの作品に取り掛かっていた。

リンはいつになく、大人しく画室の中で丸くなっていた。

 竹内はリンを描いているとき、とても集中することができた。

 何かにとりつかれているかのように、紙に鉛筆または筆を走らせることができた。その最中は周囲から音が遠ざかり、ついには世界から自分だけが切り離され、ある種の特別な空間で絵を描くという行為が許されたような気がした。

 猫という題材は正解だった。

 竹内は絵に集中しつつも、ある種の高揚感を感じ始めていた。

 そのとき、リンが急に目を覚ました。竹内は筆を止めた。

 リンは立ち上がり、ぐるりと首を回すと、素早く竹内の横をすり抜けていった。

「あ、どこへ行く!」

「うわ!」

 すぐ後ろで絵に色を塗っていた弟子が声をあげた。水差しをひっくり返したので、作品は水浸し。それから、水墨画に足跡をつけた。背を曲げ、一心不乱に作品に線を入れている弟子の背中を駆け上がり、頭を踏んだ後大きく跳躍した。

「作品を隠すんや!」

 竹内がとっさに叫んだが、弟子たちは驚いていたので、急な動作は誰もとれなかった。

 弟子の一人がリンを捕まえようと、立ちふさがった。

 両手を大きく広げ、姿勢を低くしてリンと向かい合う。

 しかし、捕まえようと素早く両手を伸ばしたが、あっさりとリンにかわされた。それどころかリンはその弟子の腕に乗り、一気に顔まで駆け上がると、彼の頭を踏み台にして窓から外へ飛び出した。

 竹内は弟子に駆け寄った。

「おい、大丈夫か?」

「へ、へぇ、なんとか」

「なんや、いったい」

「どなんしたんや?」

「さっぱりわかりまへんわ」

 竹内は弟子たちを見回し、ケガ人がないことを確認した。竹内は息をついた。が、気を抜くのはまだ早かった。外からリンの激しい叫び声が聞こえた。竹内と弟子たちは一斉にそちらを向いた。

リンの声にかき消されていたが、よく聞くと人の声がする。

 化け猫! た、たすけて、と

 竹内は青くなった。

「先生、よそ様に怪我でもさせてしもたら……」

「しぁあない。仕事はいったん中止や!」

「へい!」

「作品を踏まんよう、気ぃつけるんやで!」

「へい!」

 竹内と弟子たちは画室から出て、リンが出て行った方へ向かった。リンはいまだにけたたましい声をあげていた。人の声も大きくなっていた。

「た、助けて~」

「ニャーン」

 リンは竹内を見て一声鳴いた。リンは一人の中年男性を下敷きにして座っていた。中年男性はこの辺りでは見かけない、ヒゲ面の、人相のよくない男だった。

 汚れた地味な洋装が、頭にかぶった手ぬぐいが実に不釣合いだった。彼らの近くに唐草模様の風呂敷包みが捨てられていた。

ほどけかかった結び目から浴衣やフランスで買ってきた置物が見えていた。

「ああ、だんな。そこのだんな、助けて……」

 男は竹内に呼びかけ、助けてもらおうと手を伸ばしてきた。しかし、リンは爪を立て、男の頭を両手で交互に叩いた。和太鼓を叩くときのようにとてもリズミカルに手を動かしていた。

 この光景に一同は呆然としていたが、いち早く竹内が我に返り、叫んだ。

「泥棒! 泥棒! 警察、警察を呼んでや!」

 足の速い弟子を交番に送り、警察官を連れてきてもらった。

 男は泥棒の現行犯で逮捕された。

 近所の人が集まってきた。哀れ、男は衆人環視の前でお縄になり、連行されていった。

 警察官の一人は竹内たちに敬礼した。

「ご協力、ありがとうございます」

「あ、いえ、うちらは何も……」

「で、どなたが捕まえたのです?」

「いや、うちらやなくて、えっと、ああおった。あれです。屋根の上で寝ている……」

 警察官は一瞬答えに詰まった。屋根の上を眺めた後、ゆっくりと竹内に視線を戻す。竹内は警察官に気がつき、無言で警察官を見返す。警察官はチラリと屋根を見た後

「猫が、ですか?」

「ほんまです。皆も見とるんどす」

 竹内が弟子たちに同意を求めた。弟子たちはうなずいた。

 警察が再び屋根を見上げた。リンは背筋を伸ばし、あくびをし、竹内や警察官にしりを向けた。

「それでは、感謝状は猫の飼い主の竹内さんあてで」

「そんな、気ィつけてもらわんでも」


 竹内の作品だが、意外と順調だった。

 写生を繰り返し、構図も固まってきた。

 紙を用意した。展示会出品用の作品を描く時が近づいたのだ。

弟子にはリンのいたずらに十分注意するように言っておいた。

 弟子たちの中で、腕のいい者は東京三越の展示会への出品を許した。家にこもって作品に没頭する者も現れた。

 不思議なことに、この頃からリンは前に比べて大人しくなったような気がする。

 時々喧嘩したり、夕食の魚を奪っていくこともあるが、その程度に収まった。そして、かつおぶしを与えると大人しくなることがわかった。そのおかげで、竹内と彼の弟子たちは安心して作品に取り掛かることができた。

 リンは一日の多くを画室や縁側で寝て過ごすようになった。

 弟子の一人から、横山は富士山のふもとまで出向き、そこで作品を描いているという知らせを聞いた。

 そういえば、横山のことなどすっかり忘れていた。しかし、今ではどうでもよくなっていた。横山がどのような作品を描こうが、それが自分にどう関係してくるというのだ。横山が絵を描いたら、自分の作品の質が低下するとでも言うのだろうか。

 なにをばかな。

 自分は自分の作品を創り上げるだけだ。

 横山がどのような絵を描こうと、自分には関係ない。

 題材を猫にしようと決めたのは自分だ。リンという格好の題材が目の前に現れたのも、何かの縁。そして自分はその絵を描いている。それなら、毛の一本一本が分かるまで描いてやろう。

 紙の中でも、今にも動き出してしまうと思わせるような、近くによるだけで猫という生き物の匂いがするような、そのような作品に仕上げてやろう。

 外から仕事が来ても、竹内は断った。

 展示会は11月。その前には審査もあるし、京都から東京まで運ばなければならない。鉄道ができたとはいえ、移動するにはまだ時間がかかる。途中で何がおきるかわからないので、少しでも早く仕上げる必要があった。

 絵を描いているときの高揚感は、リンを見つけてから続いていた。筆が進むのだ。ここはこうして描けばいい、とひらめき、実際にそう描いてみると、自分でもよくできたと思えるような線が引ける。

 時々作業中に笑っている自分が不気味で、それがおかしく感じられたが、そんなときでも腕は動かした。


 絵は完成。早速鉄道で東京まで運んだ。

 その後、審査もあった。三越での展示会に実に多くの人が応募してきた。

 竹内は審査にも参加した。横山も参加していた。

 三越の関係者は多くの作品に驚き、大変喜んだ。

 ちなみに、竹内の作品と横山の作品はどちらも入選した。

 審査の際、作品出品者の名前は伏せられる。これは誰が描いた作品かという先入観を無くすことによって、公平な審査を行うためだ。専属で絵を描いて暮らしている絵描きも、たまには落ちることもあるのだ。

 審査がひと段落し、竹内は息をついた。たまたま隣に座っていた横山が話しかけてきた。

「竹内さん。どうでしたか?」

「ぼちぼちやな。横山はんは、どないだす?」

 軽い気持ちで聞きなおしたのだが、横山は自嘲気味に苦笑いを見せ、視線をそらした。

「今回は、ちょっと悔いが残りまして」

「え?」

 横山からは、まず聞くことのない答えだな、と竹内は思った。

 彼の才能なら、どのような展示会に出しても、必ず展示されるだろうし、おそらく一品ぐらいは日本美術史に残るだろう。

 でも、と横山は顔を上げた。

「今回は失敗しましたけれど、次からはうまく描ける自信があるんですよ」

「ほんまでっか」

「見ていてください」

 一瞬横山の自信のない様子が心配になったが、それはただの勘違いだったと思い直した。横山はすぐに自信に満ち溢れた顔を見せた。

 竹内は今回の作品には、絶対の自信があった。勝ち負けを意識していたわけではないのに、どうにも横山を意識する癖は抜け切れない。横山はどのような作品を作ったのだ。気になってしまう。

リンを描いている間は、勝ち負けは考えなかったはずだ。

 それなのに……。


 審査は思っていた以上に時間がかかった。

 当落線上にある作品が多かった。できるだけ多くの作品を展示したいが、広さの都合で、数がどうしても限られてしまう。竹内や横山などは展示するべき作品を選んで、審査は終った。これからどの作品に賞を贈ろうかという段階に入る。竹内も横山も出品者なので、受賞の公平性を欠くから外されたのだ。


 ハイカラな赤レンガの東京駅から鉄道で京都まで。

 現代と違い、移動には時間がかかる。

 竹内はせっかく日本橋に来たからと、そこでお土産を買い、その後、浅草で落語を聞き、葛飾北斎のいわゆる『北斎漫画』、それから京都では手に入らない欧米の画家の画集も購入した。


 京都へ戻った竹内は、妻や弟子たち、それから近隣の人たちに東京土産を渡して歩いた。東京でのことを聞きたがる人が思っていたより多くいるのには閉口した。

 夜、竹内は居間でくつろいでいた。久しぶりに飲む京都の地酒が喉にしみた。

「ところで、リンはどこや?」

 帰ってから何か寂しいと思ったら、リンを見ていない。竹内は妻に聞いてみた。妻は顔を曇らせた。

「どないしたん? リンは?」

「おらんのよ」

「なんやて?」

「あんさんが東京に作品を持ってった時から、どこかにいってな。それっきり、帰ってこんのよ」

 竹内は一気に酔いが冷めた。

「なんやて? それで、ほったらかしなんか? わしがあの作品を描けたのは、リンが来てくれたおかげなんやで!」

「そんなん、分かってま! うちらかて、探したんでっせ。あんさんのお弟子さんと一緒にな。けど、あかんかってん」

「なんてことや」

 地酒の徳利を持ち上げ、一気に空ける。

「ちょっと、探してくるわ」

 竹内には何の考えもなかった。それも妻には分かったのだろう。血相変えて、竹内を止める。

「待ってや。もう遅いわ。明日ん朝にしたら……」

 妻はその後も何か言っていたらしい。しかし、竹内は家を飛び出した。


 それから数時間たった。

 竹内は家に戻った。足取りは重く、顔色は暗く、ため息ばかりが目立った。竹内が帰ってきたのが分かると、妻はすぐに玄関に出た。

「どないでした?」

「あかん」

 竹内は首を振るしかなかった。妻も竹内に同調するかのごとく、高くため息をついた。

「そうでしたか」

「また、明日出直しや」


 その後も、リンは見つからなかった。

 竹内は暇ができると、リンを探して町を歩いた。

 山の紅葉にも気がつかなかった。

 町の人たちは意外とリンのことを知っていた。『竹内先生の飼い猫』という認識だったが、いなくなる前は結構知られていたらしい。しかし、どこかで見たという話は全くなかった。

 竹内は時々弟子たちも動員して探しに出かけた。だが、まだ教えるべきことがあるはずの者もいる。腕も上がり、仕事が入ってきているものもいる。彼らの修行をなおざりにして、リンを探していいものかと反省した。また、それなりに修行を積んできた弟子にも、仕事が入ってきている。

 彼らにも生活がある。

 竹内は弟子たちも連れ出すことを、やめざるをえなかった。


 リンが見つからない。

 竹内は縁側に座っていた。妻が梨を買ってきてくれたので、それをかじりながら、庭を眺めていた。

 展示会に出品した猫の絵。それを描き上げてから、竹内は仕事をしていない。贅沢をしているわけでもないから、今までの貯えで食べていける。それに、その気が起きなかった。

 あの絵は、自分でもよく描けたと思う。賞が取れても取れなくても、おそらく自分は気にしないだろう。いや、受賞するという行為がなんとも浅ましく感じられた。絵を描くという行為に、もっと崇高な何かがあるような気がしてきた。

 夕闇が空を覆い始めた。

 鐘の音が聞こえ、それにカラスの鳴き声がかぶさる。

 妻が来たことに気がついた。

「あんさん、もう夕飯でっせ」

「さよか」

 竹内はその場から動こうとしなかった。梨は既に芯だけになっていた。

 妻が自分の隣に座った。

「リンのことが、気になるんでっしゃろ?」

「その通りや」

「たいそう、可愛がってはったし、どこいったんやろ」

「なんや、いたずらばかりする言うて、困っとったやないか」

「そやけど。いざ、おらんようになると、ものたらんもんやね」

「そか」

 芯だけになった梨を庭に投げ捨てた。空が赤くなっていた。きれいな夕焼け空だった。ススキ野原に行けば、おそらくアキアカネが飛んでいることだろう。そういえば、鈴虫の鳴き声も耳に入ってくる。ずっと前から耳に入っていたはずだが、竹内は自分のことでいっぱいで、そのせいで聞こえない振りをしていた、無視していたのだ。

 寺の鐘の音はまだ続いていた。

 竹内は妻に視線を向けた。だがすぐにそらしてしまう。

「迷惑、かけたな」

「何言うてはるんや」

 竹内は少し黙り込んだ。妻は夕食だからと竹内を促す。だが、竹内はその場から動こうとせず、つぶやいた。視線は庭先に向けられていた。妻は竹内が何を言おうとしているのか気になっているらしく、口を挟もうとしなかった。

「もしかしたら」

「?」

「もう帰ってけぇへん、思うてな」

 竹内は立ちあがった。


 竹内が言ったとおり、リンは見つからなかった。

 妻や弟子たちも暇を見つけては探していたようだった。だが、リンを見かけたというものは誰一人としていなかった。

 竹内は徐々に仕事に手をつけるようになっていった。

 弟子たちの中にも、独立する者も現れた。実力が伴わず、志半ばで辞める者もいた。そのような、自分の工房からでて行くものに対しても、竹内は暖かく見送った。

 紅葉も次第に枯葉へと変わっていった。


 そんな時、竹内は電報を受け取った。

『レンラク コウ ミツコシ タンコウカイ』

 当時、電話はまだ普及していなかった。何か急ぎの用事があれば、電報を打つ。そして電話のあるところまでいき、電話をかける。これが一番早い連絡方法であった。当然竹内の家には電話はなかった。竹内は町役場に電話があるのを思い出した。

 町役場の人間に電報を見せると、電話の元に案内された。電話の使い方を教わり、早速電話をかける。とはいえ、目的の相手に直接つながることはなく、間に電話交換手が入り、電話交換手がつないでくれることになる。

 待つこと数分。出たのは淡交会展示会の事務局役員。竹内が審査員として参加したときに知り合った男だった。

「はい、……です」

「電報をもらった竹内やけど」

 ああ、と妙に高い声が聞こえてきた。電話に出たときの不機嫌そうな声が嘘のようだった。声の主は急に機嫌よくなり、竹内に対して言葉をつなぐ。

「あぁ、竹内先生ですか。これはどうも」

「電報もらったんやけど、何やったんだす?」

 役員はすかさず答えた。だが、竹内は聞き逃したのか、それとも聞きなれない答えに驚いたのか分からなかった。とにかく、今聞いたばかりの言葉が信じられなくて、聞き返した。

「なんやて?」

「おめでとうございます。特賞入選でございます。展示会初日の表彰式には、ぜひ参加してください」

 竹内は何と言っていいかわからなかった。

 確かに、今までいくつか賞をもらったし、弟子が持てるほどの、絵描きとして地位を持っている。それでも、今回の受賞には特別の意味がある気がした。

 竹内の中に、ひとつ引っかかっていることがあった。

「横山はんは、どないでした?」

「横山さん? すみません、どの、横山さんですか?」

「横山大観や。富士山の絵を描いた横山大観!」

「ああ、その横山先生ですか。残念ながら、銀賞に終りました。本人も残念がっていました」

「なんやて?」

 役員の言葉が一瞬信じられなかった。これは、自分が横山に勝ったことになるのだろうか。いや、そのようなことは考えなかったはずだ。

 自分はただ、自分の納得のいく、自分で最高傑作だと思えるものを描こうとした。結果は嬉しく思うが、これでいいのかと思ってしまう後ろめたさがあった。

 後ろ髪引かれる思いだったが、電話の向こうで人が代わった。

「竹内さん、おめでとうございます」

「横山……横山はん?」

「竹内さん、あの猫の絵、良かったですよ。まるで、紙の上で動き出しそうでした」

「おおきに……あんさんは、どないや?」

「今回はちょっと失敗しました。でも、どんなによく描けても、あの猫にはかなわなかったと思います」

「そんなん、謙遜せんでええ」

「葛飾北斎の富岳三十六景は富士山の映る景色を描いたものです。正式に発表されている以外でも十枚ほどあるらしいのです。私はまだまだ諦めていませんよ。必ず、富士山の最高傑作を描いて見せます。楽しみにしていてください」

「当然や。やけどな、今回のことで、わしはひとつ悟ったで。絵のうまさに勝ち負けはない。どれだけ自分の納得のいく絵を描いたかどうかや、てな」

「さすがは竹内先生。ん、ちょっと待ってください」

 電話の向こうで、横山と事務局役員が何か話し合っていた。

 何か話し声が聞こえないか、と竹内は耳を澄ましたが、何も分からなかった。

「表彰の雅号、どうします?」

「そんなことか。いつもどおり竹内栖鳳。栖鳳と書いて『せいほう』と読むんやで」

 再び電話の向こうで話し声が聞こえた。

「それでは竹内さん。授賞式でお会いしましょう」

「おおきに」

 電話を切った。役員の興奮する声が思い出される。

 

 役場を出て、帰路に着いた。帰ったら今の話を伝え、すぐに東京に行く準備をする必要がある。

空き地ではススキが一面に生え、風に揺らいでいた。

 竹内の足はいつもと変わらず、ゆっくり歩いていた。袖に腕を入れ、既に見慣れた町の風景を確かめるように眺めた。

 もしかしたら……。

 足を止めた。不意に絵を描いていたときのことを思い出した。あのときの気持ちの高ぶりから、筆の進み具合まで。これまでにも、そしてこれからもないような全てが充実した製作過程だった。

「もしかしたら……リンは徽宗皇帝がわしに傑作を描かせるために、貸してくれたんかも知れへんな」

 深い息をひとつつき、足を踏み出そうとした。

「ニャーン」

 聞きなれた猫の鳴き声が聞こえた気がした。足を止め、声が聞こえてきたほうに振り返る。

 しかし、それはただの錯覚だった。


終わり










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