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日本語で現代詩は可能なのか?現代詩否定論

作者: 舜風人

日本の近代詩は島崎藤村。神原有明、薄田泣菫らによって始まったと言えるだろう。



それはとりもなおさず。


維新・開化によってもたらされた


欧米のポエムの触発に対する日本の対抗策?だったのだ。


和歌や俳句では


近代的な人間の情念というか想念を、


明治の詩情をどう歌えるだろうか?


それが伝来の和歌の道や俳諧では、不可能だったからだ。


近代的な叙情、、哀歓、恋、そういうものを伝来の和歌では


いかにしてももう、無理なのは誰にもわかったということだ、

女性的な恋の歌はそれでもまだ

柳原白蓮や与謝野晶子によって


滔々と受け継がれてはいたろう、


しかし、、男性の恋の歌となると、


今更、、在原業平でもあるまい?


もっと他のつまり欧米のような

ソネットとかそういうポエムがふさわしい。


ということで、


とりあえずは、明治人の目標は


キーツであり、バイロンであり、


ハイネが彼らの目標だった。


だがどうしても、


それはまるでイタリアオペラを日本語で歌うような違和感がついて回ったのも深い事実だった。


イタリアオペラを日本語でやるって?


そりゃあどう考えたって無理でしょ?


すごい違和感を感じますよ。


島崎藤村はそれを日本化した情念に置き換えて


やや克服しえたかに見えましたが。


薄田泣菫などは


漢文調というか漢詩のようで


いわゆる近代詩ではありえなかったのですね。


土台、日本語でイタリアオペラをやるようなこそばゆさを克服することなど出来ないのです。


日本語でソネットを書くという無謀さ?ですよね?


そのご、


萩原朔太郎は独特のオノマトペを駆使して


新境地を開きましたが、


萩原恭二郎の前衛詩、となるともう、行き過ぎですね


意味不明・理解不能の独りよがりでしかないでしょう。


かわって、生活詩とでもいうべき



山村慕鳥、八木重吉、山之口獏などは


身近な日本の詩情を詠って成功しましたが、


こうなるとポエムというよりは


生活点描短文みたいなもので、


いわゆるそれが詩なのかどうかと言われればちょっと弱いですね?


それがもっと、短文化して


一行詩、、、


なんてことになると、これはもう、自由律俳句?でしょ?



山頭火の世界ですよ。


まあそれはともかく、


いわゆる近代詩というものは、


その後、中原中也と、


立原道造の両雄?によって完成の域に達したのです。


いわゆる西洋的な概念のポエムを目指しましたが


二人とも、ある程度その日本化に成功しましたね。


中原はその独特なシュール?な言い回しによって、、、。


立原はその軽井沢の詩情をソネット形式を借りて読み込むことによって、、、、。


私は日本の現代詩はこの二人が限界?というか


到達点だと思いますね。


これを越えることはできないでしょう。


この二人以降というか、以外に誰か現代詩人っていますか?


居ませんよね?


伊藤静雄?


彼は想念を詠いこんだ偽アンソロジーですよ。


高村光太郎?


彼の詩って、何の詩情もありませんよね。


『僕の前に道はない』、、、、。、


でしたっけ?


これでは小学生の主張コンクールの作文のほうがましでしょ?


こんなもの詩でも何でもありませんね。


バカバカしいですよ。


宮沢賢治?


うーん、彼の詩も、


詩ではなくて偽アンソロジーなんですよね。


随筆というか、、、。日記文というか、、、。



そもそもですね。


西洋的なポエムの概念ってなんだと思いますか?



詩とは音感であり


韻律であり、


抑揚であり


語感ですね。


詩は極言するなら、意味ではありませんよ。


まあ、まったく無意味では困りますがね、、、。


読んだ時のメロディアスというか、


詠唱するものですよ。


宮沢賢治の詩にはそれはほとんどありません。


「春と修羅」の、多くの詩は


感想であり、嘆き節であり、紀行文です。


韻を踏んでもいないし、、、


というか日本語で韻をふむってムリなんですよね?


現代日本語って、、


メロディアスでないし、


朗誦できないし、


こういう日本語で

詩を作るってほとんど不可能領域?ですよ。


でもそもそも詩っていうのは


メロディであり


抑揚であり


韻律であり


朗誦出来るべきものであり、、


ポエムとはそういうものですよ。


そこが散文とちがうところでしょ。


ただだらだらと感想や詠嘆をつづってもそれはただの感想文ですよ、


散文です、


ポエムではないです。、


まあ、


「アメニモマケズ」にはかろうじてメロディがありますが。


結局日本では和歌においてしか



メロディは生まれません。


日本語の言語的な特性上、5、7、5、7、7というリズム感しかないからです。


この繰り返ししか日本語ではメロディや抑揚が生まれないのです、


このくり返しだけが日本語のポエムです。


万葉集の「長歌」がそれですね。


ここにはリズムがあり、


朗誦できるし


まさにこれこそが欧米的な意味でのポエムなのです。


詩とは意味とメロディのミックスなのです。


意味だけの詩、、、主張だけの詩、、、。


たとえば高村光太郎がそうですが


それは詩ではないでしょう。


そういう思いをまるで小学生の主張コンクールみたいに主張してるだけです。

メロディ、抑揚、韻律。 朗誦。


それが無かったら、、それはただの「散文」ですよ。


というわけで


日本語でメロディを出そうとしたら


それは5、7、5,7,7しかありませんね。


それが日本語の制約というか、、特性なのです。




それを繰り返して


旋頭歌とか長歌みたいに続けるか


それしか日本語でメロディ性を出す方法はあり得ないのです。


それ以外ではメロディ性をつけることができない言語。


それが日本語です。それしか、仕方ないのです。


イタリアオペラはそれだけで朗誦できますが


いざ、

イタリアオペラをに日本語で直訳でやると


「それでどうしましたかああああーーー」

「私はあなたを愛してまーーーーす」



なんてフレーズを高唱するという愚を犯すしかなくなるわけですね。


原語では、、イタリア語では至極、メロディアスであって、


その発音が耳に快いのですが、、


日本語に訳したら、、つまり意味だけ取ったら


もう、最悪ですね。



同様に、日本語のシャンソンも相当むりがありますよね?

日本語でシャンソン?

あのフランス語の快い発音はどこに?




つまり


日本語で西洋的な


いわゆるポエムを造ろうったって


無理だということが結論ですね。


だってそんなもの日本語の特性に合わないんですから。


韻を踏んだり


抑揚もアクセントも無い日本語という言語で


いわゆる西洋の詩形を


やろうってことが無理、不可能なのですね。


だから西洋の詩の邦訳って


バカみたいでしょ?

意味しか訳せないから原詩のリズム感も抑揚も


全滅です。


どだい


韻もアクセントも無い日本語に移しかえることなど無理なのです。


だから西洋の詩の訳は


ただ意味を訳すだけです。


語感も抑揚もアクセントもメロディも訳せません。


まあしいて訳すとしたら

上田敏のような

まったく日本語の抑揚を流用したような

詩形に移し替えるしかないでしょうね。


これは名訳ですが


いわゆる「超訳」であって、


原作を完全に上田敏化?してしまった


まったくの新作詩?ですね。


さて逆に


たとえば今世界的に俳句ブームなのだそうですが


「古池やかわず飛び込む水の音」


を英語訳できないのと一緒なんですよ。



「古い池にカエルが跳びこんで音がした、、、、。」と


仮に英語に直訳したところで


これで何がわかりえますか?


無理でしょう。


西洋詩を日本語に訳しても同様なんですよ。


ポエムは原語で読むしかありえません。


原語で韻律、抑揚、メロディを味わうしかないのです。


散文(小説)などなら意味だけ取ればいんですから


まあ翻訳本でもOKでしょうが、、。



まあ。というわけで、、


立原道造と


中原中也は


苦心して意味とメロディと語感と抑揚を調和しようと、


日本語で西洋的なポエムを何とか体現しえましたが



まあこの二人以外は


ただ意味だけだったり


ただメロディだけだったりと、


なかなか成功は難しいのが現実です。



たとえばこんなのはどうでしょう。


ある日本の詩人のような


擬音語の羅列とか、、、、。


擬声語の羅列とかのような日本語の詩、、。


教科書にもこんな詩が載ってますよね?


結構有名な詩人?です。


これではたして、詩ですか?


山村募鳥の『一面の菜の花』のほうがまだ、できは良いですよね。


つまり日本語で何らかの詩情を表現するには

その日本語の語法の特性に基づいた




短歌と俳句こそ、


日本のポエムなのです。


それしかないのですね。


西洋的な意味のポエムを日本語で作ろうというのは


英語で俳句を作ろうというようなもので


どだい、無理なのです。


日本語でメロディを表現するには


57577しかないからです。


或いはそうした日本語の言語的な制約を超えて


中也とか道造のように


限界ギリギリの


日本語のポエムを目指すか、、


そのどちらかしかないでしょうね。



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