一話「徒歩道中」
男は重力と大地を罵った。
「くそっ!」
なぜなら、盛大にこけたからだ。ばさばさと相棒たるカラスが肩から逃げた。
手と腕を使い受け身に成功。けれども苦痛はぬぐえず、うめき声をあげた。
何たる失態!
見れば、足元に先の尖った石が突き出ているではないか。
恨めしい。こんなところに石を配置した輩を呪い殺してくれる。
男はゆっくりと姿勢を起こすと、頭の上に伸し掛かってくる相棒の重量を感じ取った。
それは美しいカラスだった。艶々とした暗闇の翼。光沢は金属的でさえあり、嘴は調度品、目は宝石を思わせた。普通のカラスよりも大きいということを除けば、カラスに違いない。
「情けない。大の付く魔術師ともあろうものが石に躓くなんて、ひょっとしてそれは私の知らない舞踏かなにかかな? いや転ばせ魔術なるものがあるとか」
カラスが喋った。鳥の声そのもので流暢に喋る。時折、カクー、だのクルル、だのカラス染みた鳴き声が混じる。
男は頭の上に乗ったカラスに眼球をじろりと上に向ける。
間抜けに座り込んでいるのも癪だと、膝と尻を払って立ち上がった。
「やかましいぞ。俺の身体能力に期待するお前がおかしいんだ。軽業もできて魔術も使える。そんな万能の奴がいるものか」
「さあてねえ申し訳ないねえ」
全く申し訳ないという雰囲気を感じさせない棒読みでカラスが応じた。
男はため息を吐くとカラスに腕を差し出し肩に移動させた。カラスも収まりよくとまる。
男は荷物を纏めたカバンを背負い直すと地平線を睨んだ。
果てなく続く草原。ぽつんぽつんとほくろのように木が佇んでいるのを除けば、緑色の絨毯が敷き詰められているだけだった。
カラスが男の方に口を――もとい嘴を向けると、かちかち音を鳴らしてから言った。
「馬に逃げられたのは失敗だったとしか言いようがない。あるじ様?」
「ラトリア。あるじ様なんてガラでない癖によく喋る。馬……過ぎたことは忘れよう。沈静や洗脳の類は俺の専門じゃなかったんだ諦めるしかない。歩くしかない」
男は――イルと名乗った男はフードに覆われた奥で首を振ると、背後をちらり一瞥した。
馬と言う四本足の生物は確認できなかった。
つい数日前のこと。
野盗に襲われて撃退したはいいが戦闘に驚いた馬に逃げられるという失態を演じてしまい、徒歩を強いられているのであった。
カラス――ラトリアと呼ばれた彼もしくは彼女は、片側の翼を広げると、誇らしげに胸を張った。
「本当に翼がないって不便な種族だこと。翼があれば山でも川でも乗り越えていけるのに」
「だが、地べたを人間のようには速く走れない。そうだろう? お前の翼は立派だが、足は小さくてすぐに疲れる。泳ぐのも苦手ときてる。一長一短。さて、歩くか。歩こう。日が暮れる」
「いってくれる。ときに速く走れる鳥もいることをご存じ?」
カラスは物知りだ。時に人の知らぬ知識さえ有する。速く走れる鳥もいるのだろう。
「―――速く走れるかわりに、飛べないとかいうオチなんだろう。世の中うまいことできてやがるもんだ」
イルはにぃ、と無精ひげを擦りつつ笑みを浮かべて見せ、自分の両腿を誇らしげに叩くと歩き出した。
「親からもらったあんよで行きますかっと。知ってるか? 人間てのは、非常に効率的に長距離を歩ける種族なんだ」
「馬があればさらに効率的にだな」
「………くそう痛いところ突きやがる」
ちくりと刺すラトリアに対しイルはお手上げした。
果てなく続く草原。空に座す太陽は丁度真上にある。時間は正午頃。
目的物らしきものもない地面をひたすら歩く。
気温湿度ともに程よかったが、歩行で生じる余剰熱を相殺してくれるだけ冷たくはなかった。歩くたびに体温が上昇していきローブが暑苦しい布の塊に思えてくる。
「どいてくれ。暑くてたまらん」
イルはフードを取ると、ラトリアがずり落ちないよう用心してローブを脱ぎ、また肩に乗せてやった。
褐色の肌。白亜の短髪。堀が深く鋭い顔の作りはいっそ野で戦う戦士を彷彿とさせた。
年齢は人間の盛りである二十歳の半ばを過ぎたあたりだろうか。
耳には銀色に輝くピアスが嵌っており、ゆったりとした衣服を着込んでいた。背中には宝石の嵌った杖があり、魔術師然とした服装であった。
そう、彼こそがかつて勇者と呼ばれた最強の戦士の背中を守った魔術師。
門を封じるという偉業を成し遂げた男。
イル=シュタイン。
表舞台から姿を消した男がここにいた。活躍の度合いからすればどこぞの王国でふんぞり返っていてもおかしくはないはずだが、彼はあろうことか草原をひたすら歩くという苦行に勤しんでいた。
もちろん理由はある。
理由もなしに放浪する程非合理な人間でも無茶苦茶な性格でもない。
イルは自分の体力が限界に達しつつあるのを悟ったか、その場にどっかり胡坐を掻いた。
「疲れた!」
鎧を着込めば戦士にも見えるという外見に似合わず体力がなかった。
魔術師は前衛ではない。後衛である。腕力を使ってこなかったせいで旅は酷くのんびりとしていた。
イルはラトリアが地面に降りて地面を啄むのをぼーっと見ていた。
「次の村までどれだけかかるかわかるか? もちろん俺の足で」
「イルよ、私にはわからない。私は生憎数学ができない。読み書きもできん。ん、あぁ馬がいたらわかったかもしれないなー今はいないけどー」
「過去をほじくるのはやめろ。俺も馬が逃げたのは反省してる。二度とないようにと……」
「間抜けなあるじ様が悪いのだ」
道程を聞いてみれば、ラトリアはぴしゃりと言い放った。言葉は喋れるが文字はわからず、歩く速度と距離から所要時間を導き出すこともできない。 当然だ、学ぶ機会がなかったから。
イルはフードを被ると草原のベッドに横になった。
ラトリアは相変わらず地面の虫をほじくっている。小虫を見つけぱくり。美味そうに食べる。
物は試し。村がある方角に指を向けた。
「なぁ、ちょっと飛んで様子を見てきてくれ」
「おお小間使いにするとは誇り高きカラス族も失墜したものだ私は涙が止まらないが仕方がなくイル=シュタイン殿下の言葉に従ってみてきてあげる」
「いちいち疲れるやつだ。小さな舌でよく喋る」
「寝ていればよかろう。そおらそこに石の枕がある。うってつけだぞあるじ様。可哀想なラトリアが労働している間のんびり昼寝をするとよい」
溜息を吐き、目を細めてやるも、ラトリアはけろりとしていた。
「嫌味な奴め」
「正論さ」
ラトリアはいちいち回りくどいカラスだった。円を描くような妙なステップを踏んで苦情を申し立て祀る相棒。台詞を吐くなり飛んでいく。
イルはその背中をうんざりした顔をして見送った。
ばさばさと軽快な羽音を立てて黒い姿が遠ざかって行った。
背後を見ると確かに枕の形をした石があった。カバンを上に置くと、頭を乗せる。ほどよい高さ。ひんやり冷たく心地よい。砂を払えばあら不思議。枕になる。
ラトリアの仕事は偵察も含まれているのだ。言葉に甘えて横になっても罰はくだらないだろう。
石もとい鞄枕に頭を乗せて、草原が運ぶ爽やかな空気を口にする。森が漂わす甘い香りではない、透き通った冷水のような輝きを感じ、清々しい気持ちで胸が膨らむ。
空は青いが、布を引き裂いたような雲が数条漂っていた。
近場に森は無いらしく小鳥の姿は無い。
空と、雲と、風だけがあった。
眠気が襲う。疲労と程よい気温そして空の三拍子が睡魔を呼びつけて子守唄を奏でている。イルの瞼がするすると降りていく。虚しく抵抗を試みるも、瞼がぴくぴく痙攣するだけだ。
規則的な呼吸と、瞼の裏に漂う暗闇。
ふっ、と意識が暗闇に落ち――――。
「ぐええっ!?」
「おはようイル=シュタイン殿。石の枕はさぞ心地よかろうよ」
強制的に再起動させられた。
腹部にずどんと衝撃が走り内臓が揺れた。冷淡な声が耳を撫でる。
目を開いてみれば、己の腹部に伸し掛かっている拳程度の石。辺りを見回してもヒトの姿は見られず、相棒たるラトリアが不機嫌そうに嘴を鳴らして地面に立っているのしかなかった。
石をむんずと掴むと、ラトリアの前に振りかざして憤慨した。
「石を落とすことはないだろ! お前、ラトリア! ちょっと眠っただけなのにこの仕打ちは酷過ぎる」
「さあ何のことか。石もたまには飛びたくなる。翼は無いけれど奇跡的に飛んできてあるじ様の腹に飛び込んできたに違いない。奇跡的に!」
「そんな奇跡許容できん。まぁ…………いいさ。よかねーけど。で、収穫は」
「あるとも!」
あくまですっ呆けるラトリアに苦虫を噛み潰したような顔となる。
カラス族は口が達者というか、おしゃべりで皮肉屋かつ気分屋な気質がある。口論で勝とうというのが間違っているのだろうと。
イルは石を適当な方角に捨てて、地面に座りなおした。
すぐ前にラトリアが両足を交互に動かしてやってくると、村のあった方角に嘴を振った。
「なーんもありはせんよあるじ様。だだっ広い草原。馬泥棒も盗賊も躓きそうな石も無い。ひたすら一直線に歩いていけば村が見えてくる。収穫はこんなもの」
「なるほど。歩いて歩いて歩きまくれ、ということか」
「私の提言通りに石枕が役にたったようで幸い」
毒を含んだ言葉に眉をぴくつかせるもぐっと腹の奥にしまい込んでおく。
イルは枕から起き上がるとえっちらおっちら歩き始めた。ラトリアは悠々と彼の肩にとまって羽繕いを始めた。鳥特有のこうばしいにおいが鼻腔に届く。
イルは、肉体強化系の魔術に頼ろうか、という考えを組み立てた。
否、これも修行の一環ととらえるべきか。頭の中でぐるぐると考えを回転させながらも、忌々しい小石を蹴飛ばす。
「あれが村か。存外普通だ」
「普通ではない村というものにお目にかかったためしがないよ、あるじ様。私は引っ込んでいようか?」
前方に村が見えてきたのはそれから数時間後のことだった。
木の柵。畑。牛がのんびりと草を食み、鶏が駆けて、子供たちが遊んでいる。通気性に優れる木造の家が点々と散らばっており背後には小高い山があった。村人らしき姿が畑にいるのを見た。
イルは逡巡すると、首を振って歩みを再開した。
「農民がカラスを恐れて襲い掛かってくることはないだろう。まぁ農作物を荒らす害獣扱いされて渋面されるなら話は別だが」
「誇り高きカラス族にもそういった輩はいる。間違えようのない事実。私は違う」
「落ち着けよ」
憤慨するラトリアの頬を指で撫でて宥める。
鳥は頬(嘴の横)を撫でられるのが、大抵好きである。カラス族も例に漏れず。
ラトリアが心地よさげに目を細める。
「エルフにも屑はいるし臆病で小食なオークもいるし人前に出るのが好きな小人もいる。一概に言えないのは当たり前だろう。村に入るにあたっては条件がある」
「喋るな、と」
「その通り。迂闊に喋ると困ったことになりかねない。喋るカラスなんざ知りませんて人種は存外多いもんだ」
カラス族でも喋れるものは僅かしかいない。知らない人間も多いだけに、うっかり喋ろうものなら黒魔術師か異端として白い目されるのは明白だった。
イルはそういうと、近場の畑で腰を曲げて農作業中の一人に歩み寄って行った。
村人は作業に夢中でこちらに気が付いた様子がなかったが、すぐそばまで寄っていくと顔を上げた。
「こんにちは」
「税金かえ? 税金ならこの前払ったろう」
村人は役人が取り立てに来たと思ったらしかった。
「違います。役人でも物取りでもありません」
イの一番にでてきた言葉に首を振ると、敵意がないことを示すべくフードを払い微笑を浮かべた。
笑顔は多くの場合有効に働く。魔術師であって口技師ではないイルとて、それくらいの技術はあった。
「この村に病人や困ったことはありませんか?」
「あんたなにもんだい。困ったことなんざ星の数あるけど、私らを困らせに来たんじゃないだろうね。勘弁しておくれよ忙しいんだ。ふざけてるんならほかに行っておくれ」
村人が胡散臭そうな表情を浮かべた。農具の柄で肩をトントン叩いていた。
信用されていない。当たり前だ。名も知れぬローブを着込んだ長身の男が訪ねて来たら不審がるのも無理はない。笑顔だけで信用を勝ち取るのは不可能に近かった。
イルはおもむろに背中の杖を示した。
杖は分かりやすい目印の一つである。魔術師とは杖を背負っているという普遍的なイメージがあるからだ。
相手の顔にわずかな変化を読み取ったところで、堂々と宣言してみせる。
「私は魔術師です。病人の方、魔物の類、異変、なんでもありましたら解決いたしましょう。……もちろん無料で」
イルは、最後にちょっとした営業トークを付け加えて自分の目的を告げたのだった。
無料に勝る魔術は存在しないのだ。