序章
魔王と呼ばれた男がいた。彼はかつて勇者と呼ばれ魔界との戦いに終止符を打った英雄だった。
そう、彼が人類に反旗を翻すまでは。
魔界との繋がりを戦いの中で手に入れた彼は何を思ったか、その力をもってして人間の世界へ侵攻を試みた。計画はあまりに迅速に行われた。あらかじめ軍事的な拠点となりうる箇所へと魔物を配置しておき、宣戦布告と同時に一斉攻撃。いくつもの国が致命的な打撃を被った。
だが人類側は連合を組み、各地から有能な者たちを寄せ集めた。各地では陽動として一般的な軍隊により攻撃を行い、精鋭たちに魔王の撃破に赴かせた。
彼らは勇者と呼ばれていた。呼ばざるを得ないまでに追い詰められていた。英雄が必要とされていたのだ。
しかし勇者とて絶対無敵の無双の戦士などではなかった。
勇者は次第に数を減らしていった。
最後の決戦。
各地における戦いが拮抗状態となり、魔王の拠点である城へと最後の四人が到達することができた。
一人。最初の英雄。剣と攻撃魔術を得意とした男。
一人。元傭兵。槍と神がかった速度を誇った女。
一人。戦場の狙撃手。強弓を持ってして確実に敵を始末する大男。
一人。補助系あるいは防衛魔術において世界一流と称された男。
彼らは、魔王の手薄を狙い戦いを挑み、勝利した。
だが魔王は最期の最期で悪あがきとしては悪質過ぎる行動に出た。異世界――魔界とこの世を繋ぐ巨大な扉を開いたまま固定したのだ。向こう側の住人が無数にこちら側の世界へとなだれ込んだ。
剣の勇者がらしくない悲鳴を上げた。
「多すぎる……!」
門とは名ばかりの火炎の大穴が空間を引き裂き、魔王城の最上階を飲み込んでいた。それは複雑な光を放ち、縦に割れて向こう側の世界の住民を無数に吐き出した。
翼を持つもの。
武器に羽を生やしたもの。
顔面そのものの無い黒い犬。
無数の触手を持つ異形。
輪郭のぼやけた何か。
数は千、万、あるいは―――……。
魔物たちは噴水のように穴から吹き出すと、もっとも近くにいた勇者四人へと襲い掛かった。
「糞ッ垂れが!」
魔術師が即座に四人を守る球状の防壁を展開した。
魔物たちがイワシの群れのように集合して、しかし肉食獣染みた凶暴さを持って衝突する。漆黒の異世界の魔力を含んだ連続攻撃が障壁を削り続ける。
だが障壁の頑強さたるや常軌を逸していた。例え刃物がぶつかろうが、ワイバーンのような魔物が全力で体当たりしようが、さくら色の火花を散らすだけで歪み一つさえ生じない。
ローブを着込んだ魔術師が杖を掲げて呪文を詠唱し、全員を守る。
剣の勇者は右手の刃を構え、左手に雷を宿していた。
槍の勇者は豊満な肉体を守る分厚い鎧に己の鼻血で戦化粧を施し、さっと槍を自然体で構えた。
弓の勇者は同時に三本の矢を弓につがえ、無感情な瞳で標的の選別を行っていた。
剣の勇者が槍の勇者に目くばせをした。
「俺が行く。お前は逃げて体勢を整えろ。多勢に無勢……俺らだけじゃ厳しすぎる」
「アンタ本気で言ってんの? こんな有象無象、大穴開けてあの世に送り返せばいいじゃん」
槍の勇者は犬歯を覗かせ笑うと、自分たちを守る障壁の向こう側で憎々しい表情をする魔物を見遣り、鼻で笑った。
剣の勇者はその対応を受け、同じように笑った。
「いいだろう。作戦はこうだ。俺が斬ってお前が刺す。お前らが逃げて体勢を整える。完璧かつ穴のない作戦だろ?」
「ヘイヘイ正気かお前ら! 作戦に大穴空いてんよ英雄さんよお!」
杖に宿らせた光で防御の力場を操る魔術の英雄が口をはさんだ。ローブ備え付けのフードの奥では焦燥感と疲労感が垣間見えていた。
魔術師が杖を持たない左手であたかも火炎の眼球のようにも見える門を指差した。
「数が多すぎる! お前らだけでどうにかなるわけがない!」
「んなもん知ってらぁ!」
「だからアタシらが時間稼ぐって言ってんの!」
「時に魔術師よ」
横合いから弓の英雄が話題を差し込む。何事かと魔術師が視線を移した。
弓兵はもはや人が持てる大きさではない禍々しい雰囲気さえ宿す弓を握りしめ、しかし視線だけは門の方角へ照準したまま言う。
「門―――……あるいは大穴。塞ぐことは可能か?」
「可能だ。俺を誰だと思ってる?」
魔術師はあっさり門を塞ぐことは可能と言い切った。ただし即座に首を振って。
「問題はあそこまでたどり着くには雲霞の如く湧いてやがる魔物なわけだ」
「要するに」
剣の勇者が肉食獣染みた凶暴さを表情に宿し言った。
「やつらを吹き飛ばすか、引き寄せればいいわけだ。吹き飛ばせるか?」
「無理だな。見ろ。数が多すぎる。仮に全部吹き飛ばしてもすぐ元通り。それにな、魔界との門つーすげえ技を封じるには、やつらごと押しのけて直接触れなくちゃならん。その前に俺が磨り潰される」
魔術師がフードを払った。
顔面は蒼白であり、額から大量の汗が流れ出している。息も荒く、杖を掲げる腕は痙攣していた。
「数が多すぎる……のもそうだが、すまん……正直に言うと魔力を使いすぎた。俺が攻撃魔術で吹き飛ばせればな……」
魔術師が唇を噛む。己の不甲斐なさに対して。
単純な疲労ではない。生命力と対価である魔力を酷使しすぎていた。
語るまでも無く、全員が障壁がもはや持たないことを悟った。
剣と槍の勇者がそれぞれの武器に魔術を宿し始める。片や剣に雷を、片や槍に火炎を纏わせて。さらに肉体強化系の魔術を上乗せすることで爆発的な運動性を実現する準備をする。
「俺とコイツが食い止める。なぁ、やれるよな」
剣の勇者が魔術師に再三となる確認を取る。魔術師ならば門を封じられると信じているが故の物言い。
魔術師は疲労の隠せない顔で頷いた。
「やってやる。吹き飛ばしで封じられないのが残念だがな」
数千、数万、もしかするとそれ以上の数の魔物相手に勇者がたった二人だけで立ち向かう。
自殺に等しい蛮勇に対しては、魔術師は何も言わなかった。ただ、障壁を打ち切る。即座に津波の如く押し寄せる魔物を無感情に見守り、無数の爪が己を細切れにする未来予想図を観察した。
刹那、雷が周囲に暴風のように吹き荒れ魔物を連鎖的に殺戮して炭化させる。
火炎が火山の噴火が如く吐き出されるや、膨張する熱線が四方に放たれ魔物を焼き尽くす。
「あとは任せたぞぉぉっ!」
「いくよっ!」
剣の勇者が雄たけびをあげ、駆けた。
槍の勇者も、風を切り音さえ置いてきぼりにしかねない速度で地を蹴り魔物の群れに殴りかかった。
魔術と剣戟により一瞬にして数十数百の魔物が消し飛んだが、それを補うかのように門から同数の魔物が噴出し埋めてしまう。
魔物は躍りかかってきた二人の勇者へと、そしてもう二人を探した。
そこに、いるはずの二人の勇者はいなかった。
無詠唱による認識阻害と透明魔術による気配と視覚両方による完全な隠蔽により身を隠した魔術師と弓兵は魔王城の頂上より飛び降りていた。
爆発的に増大する魔物の群れが勇者たちがいた魔王城さえ埋めていく。
目標を見失った魔物たちは、弓兵らとは反対側の地面へと飛び降りた剣と槍の勇者へと矛先を変えた。
イワシの群れ、あるいはコウモリの群れのように空に黒い霧が浮かび上がる。渦巻く竜巻のような激しさにて、二人の勇者を包囲していたぶる。
あっという間に剣と槍の勇者は黒い群れに取り囲まれ外部から見えなくなった。
城から離れた地点へと飛翔した魔術師と、純粋な脚力だけで駆けて距離を稼いだ弓兵が並んで地面に降り立った。
魔術師は杖を地面に突き立て、肩で息をしていた。弓兵に動揺はなかったが表情は厳しい。
城を、門を起点に、魔物が球状に集結していた。剣の勇者の言う通り、吹き飛ばすしか接近の手は無いように思える。
弓兵がひときわ大きな矢をつがえ、弓を構えいつでも射撃可能な体勢に移行した。
「どう接近する。あの二人と言えど長くは持たない」
「攻撃魔術が使えりゃあよかったんだがな! 生憎俺は攻撃魔術は苦手なんだ」
「飛ぶのはどうか」
「飛んで行ってもやつらが大集合してんだよ! 俺の障壁がぶっ壊れてミンチにされるだけだろ!」
魔術師は取り乱した様子を隠そうともせず、魔物の玉に言葉を吐いた。
イライラと行ったり来たりを繰り返し地面の石をけっ飛ばす。
「みんなで突っ込めば………駄目に決まってんだろ。あいつらと俺の火力合わせても飲み込まれちまうだけだ! あとは……体勢を整える? 体勢………………待てよ………飛んでいく………? 飛んで? 弓を……」
「策は、あるのか」
弓兵が無感情なガラガラ声で訊ねた。
魔術師の顔に生気が戻ってきた。ぶつぶつと何やら呟き、しゃがみ込む。魔物の玉を見つめ、次に弓兵を見る。
魔術師が立ち上がると、ちらりと弓兵の強弓を見遣り、おもむろに杖を振った。肉体が光に包まれ球状に変化するや、次の瞬間には弓兵の矢筒に収まっている手投げ槍と勘違いされてしまいそうな大きさを誇る強靭な矢へと姿を変えて地面に転がった。
矢がかたかた転がり弓兵の足元に至る。
『俺を撃て!』
「策なのか?」
相も変わらず感情の窺えないイントネーションで弓兵が問いかけると、弓と化した魔術師を拾った。
変化、あるいは変身と呼ばれる魔術。自身の存在を一時的に別の物に変えてしまう術であり、到底攻撃的な魔術ではない。
意図の読めない弓兵が訊ねるや、矢がかたかた唸った。
『もはや俺の障壁じゃやつらの波を突破できん! 弓だけで連中全滅できる自信がなきゃ、俺ごと門に撃ち込め』
「承知した」
すべてを悟った弓兵が、魔術師が変化した矢を弓につがえた。鉄よりも固いというとある生物の毛をより合わせた人外の弦を、全身の力を込めて引く。常人より二回りは巨大な肉体が隆起する。筋肉という筋肉に血管が浮き出た。
「むぅぅっ……!」
頑丈な筋肉に覆われた胸から吐息が吐き出された。
弓兵が息を止め、照準に移った。
感情のひとかけらも無い無機質な眼球が弦と弓と指と矢の運動や風の動きを計算して着弾点を正確に割り出す。遠眼鏡、あるいは鷹の目のように。
数瞬の沈黙。
弓兵が指を離した。
一直線に矢が飛んでいく。みるみる地面を離れ、大気を乱しつつ、一分の狂いも無く門の中心点へと。
立ちふさがる魔物たちは、それが矢であることに気付いた。回避か、迎撃か、いずれにせよ、全てが遅すぎた。
球状に展開して全方位を守っていた魔物の群れの一部分へと大型の矢が突入。血肉を穿ち、骨を砕き、勢いを削がれながらも突き進み―――。
門と現世の境界線で静止した。門を守る不可思議な障壁に止められたのだ。辛うじて先端が食い込んでいたが、そこまで。
妙な魔力の波動を感じ取った魔物の数匹が矢に近寄ろうとした。
だが次の瞬間、右腕を障壁内部へとねじ込んだ男性の姿が出現した。
魔術師だった。彼は歓喜と憤怒を混ぜた壮絶な笑みに唇を曲げていた。全てを悟った魔物が怒りの咆哮を上げるも、もはや手遅れだった。
「……脆すぎる」
門が、煙を上げた。それは加速度的に量を増していく。異界の火が消えていき、穴の輪郭線がぼける。
最後の悪あがきとでもいうように穴から凄まじい波動が放たれ魔術師の体を強打した。
門があった場所は悲鳴を上げてただの煙となり、完全に消滅した。空気だけが残された。
「ぐ、おおおっ」
放たれた波動のもっとも近くにいたのは魔術師その人であった。
咄嗟に張り巡らせた障壁はあろうことか一撃で粉みじんと化す。
空中に留まることさえ許されず、辛うじて落下速度を減衰することしかできない。おもちゃのように宙で弄ばれ、魔王城の頂上だった瓦礫の山へと無様に軟着陸した。
魔物たちが流れを乱された鳥の群れのように、散らばっていく。西へ、東へ、好き勝手な方角へ。
もはや戦闘継続は不可能であった。額から伝い唇を濡らす血液を舌で舐め、よろよろと立ち上がる。ローブはぼろきれ同然。頭が割れるように痛い。
魔物たちはつい今しがたの混乱などなかったかのようにどこかへと飛び去って行った。
魔物たちは各地に飛来して甚大な被害をもたらすだろう。
「勇者か………クソッ!」
魔術師は手に握る血まみれの杖を悪態と共に部屋の隅へと投げた。
勇者だ世界一優秀な魔術師だなんだともてはやされ、英雄だなんだと称号を頂き、魔王を倒した――もとい殺害に成功した。
結果と言えば魔王の命一つを奪い、二人の勇者を失った――可能性を得た。
一つだけ確かなのは野放しの魔物が各地に散らばって行ったという変えようのない事実。
杖は物理法則に従い放物線を描いて飛んでいき、一つの鳥かごにぶつかった。
「おお……そこに誰かいるのか……? まったく死ぬかと思ったぞ……」
「誰だ……?」
魔術師は部屋の隅――半壊した瓦礫の山――から聞こえてきた鈴を転がすような綺麗な声を聞き、怪訝な声を上げた。警戒も糞も無く足を引き摺っていき、途中で盛大に転ぶ。
とても人には聞かせられない悪態を投げて起き上がると瓦礫に埋もれかかった鳥かごを見つけた。
カラスが入っていた。
「誰ぞ知らぬが助けておくれ」
カラスは確かに喋った。
後に、剣の勇者と槍の勇者は魔物にリンチ同然いたぶられて死んでいるのが発見された。
二人は恋仲であった。手を繋いで死んでいたのは、果たして偶然だったのか。もはや語る者はいなかった。
各地に野放しになった魔物は、魔王の侵略で傷ついた世界を更に混乱に陥れた。
しかし、魔王という指揮官を失い無差別的に攻撃することしかできない彼らは、徐々に駆逐されていき、数年後にはほとんど姿を見られなくなった。
魔王を倒し、門を閉ざした生き残りの英雄。
だが彼らはいつしか表舞台から姿を消していた。その理由もまた、語る者はいなかった。
いずれにせよ傷ついた世界は、ゆっくりとだが立ち上がりつつあった。
英雄なんていらない世の中がやってきたと誰かは語った。
所詮かりそめの存在だったのか。
それについて結論付けるものも、またいなかった。