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唇で伝える。言葉にできないことのはを。




「結衣……なんで、ここに?」


 驚きすぎて、最初は声にならなかった。

 乾いた唇を舌で湿らして、どうにかこうにか音にする。そのせいか、耳に届いた声は確かに自分の声のはずなのにどこか遠くて……他人めいて聞こえた。


 開けたドアの隙間から、冷たい冬の風が室内に吹き込む。

 長い黒髪が冬の夜を背景に、扇のようにさあっとひろがる。その光景にその場に凍りついたように目を奪われる。

 後で改めて思い返すと、白っぽいコートに身を包んだその姿はまるで、昔話の雪女みたいに見えた。


 が、そのときはそんなことを考える余裕もなく。

 ただ目の前に立つ、ここにいるはずのない姿に驚いていた。


 ついさっきまで自分の頭と過去の記憶の中にいたはずの彼女が今、目の前にいる。

 それがまるで何か……感傷的かもしれないけれどクリスマスの魔法かなにかのように思えた。

 チャイムが鳴って、玄関扉を開けたら好きな女の子が頭にリボンをつけて笑顔で立っている。

 これって、男なら一度は妄想する男の浪漫だろ?


 ただし、今の結衣は笑顔ではなかった。かといって無表情だったわけでもない。

 あの頃とは違い、うっすりと色をのせた唇は軽く結ばれていて、あの頃から変わらず真っ黒な瞳には俺には分からない何かをのせてこちらを見つめていた。


「ゆぅくん、久しぶり」


 そう言って、結衣はややぎこちないながらも微笑んでみせた。落ち着いた低めの声が耳に心地よい。

 そのとき、俺は自分が息をつめたまま、我ながら硬い表情をしていたことに気がついた。慌てて表情を緩めると、ほっとしたような表情で見上げられる。


 俺のことを(むすび)じゃなく、”ゆぅくん”と呼ぶのは彼女(ゆい)だけだ。

 久しぶりに耳にした懐かしい呼び名に、俺は無意識のうちにシャツの左胸を押さえていた。……馬鹿みたいだ。


 なのに次の瞬間、目を逸らしてしまった俺はほんとうに救いようがない。

 懐かしい呼び名ひとつであの頃を手繰り寄せた気になれるほど単純なくせに、彼女を包むホワイトベージュのコートを見たとたん、あのとき結衣の隣に並んでいたスーツの男を思い出してしまう。


 会えて嬉しいとか、なんで結衣がこんな時間に俺の家に? とかいう疑問が浮かぶよりも先に、あっという間に黒くてドロドロとした気持ちに捉えられてしまう。なんにも言えなくなってしまう。

 逸らした視線の行き場を探すようにシャツの左胸を見下ろせば、オックス生地にくしゃりと潰れたような皺がひろがり、ホライズンブルーとバーガンディーのストライプを斜めに歪ませていた。


 やばい。俺、あの男にめちゃめちゃ嫉妬してる。余裕がない。

 だから、かもしれない。


 今なら、認められる。

 俺は嫉妬して……そして拗ねていたんだ。子ども(ガキ)みたいに。

 

 これまで俺は言葉を声にすることも、関係を変える勇気の持ち合わせすらもなかったくせに、なのにどこか安心していた。自惚れてもいた。

 自分が、俺が結衣を一番長く、一番そばで見てきたって。

 だからいつか、きっかけさえあれば長く続きすぎた関係を変えられる。それまで結衣は変わらず、変わることなくいてくれる。振り向けば後ろで待っていてくれるって。


 分かりきっていることなのに、なんで気づけなかったんだろう。

 結衣の時間が俺と同じく等しく流れていて、結衣も自分の意思で前に進んでいるんだから……無言のうちに通い合っていると俺が自惚れていただけで、結衣の気持ちも変わっていくだろうってことに。

 それこそ、いまさらだけど。


 なのに、そんな俺のぐちゃぐちゃの内面に気づきもせずに、結衣はすこし照れたようなそぶりで紙袋を差し出した。


隆兄(たかにぃ)がね、ゆぅくんにクリスマスケーキ届けてやれって。今日はゆぅくんは家にいるはずだからって」


 結衣の手作りなのだろう。「一応、自信作です」そう付け足して結衣が悪戯っぽく微笑んだ。寒いところを歩いてきたせいか、白い頬にほんのり赤みがともっている。


 なのに俺は相変わらず何も言えぬまま、手を出して受け取ることもせず、馬鹿みたいに――実際馬鹿だとは思うが――突然現れた結衣をどきつく心臓を抱えたまま、そのくせ黙って見下ろしていた。

 今度は目線は逸らさずに、はにかんだように微笑むそのちいさな顔をじっと見つめる。


 隆司が持って行け? なんでさっきまでいたはずの隆司が? あいつは何も言ってなかった……よな。それになんで今夜――よりによってイブの日の夜に結衣が俺の家に手作りのケーキなんか持って来るんだ? じゃあ、あの一緒にケーキを選んでいた男は?……まさか、この後会いに行くとか? そのためにこんなクソ寒い、こんな時間にわざわざ出てきたとか?


——化粧なんかして、さ。


 高校生のときと同じようで、それでいて違う笑顔。

 笑うときにきゅっと上がる口角とか、左頬に浮かぶえくぼとか……確かにそれは昔と同じ笑顔なのに、うすく施された化粧が俺の知らない4年間を示しているようで、胸がぎゅっとなる。


 そんな結衣をみているとたまらなくなる。

 誰かのために……俺じゃない、俺の知らない誰かのために化粧をおぼえて、大人になって……そして、綺麗になって。


 そして俺に向けてきたような……いや、俺が知らない、見たことがない|表情≪かお≫をその誰かに見せるんだろう。

 俺の知らない、手に届かないところで。

 どこかの街や誰かの部屋……もしかして、誰かの腕のなかで。


 いろんな想いが一気にこみ上げてきて――あの男への嫉妬心、久しぶりに俺を見上げる笑顔、自覚した結衣への思いの強さ――俺は、自分自身の思考がない交ぜに、ごちゃごちゃに入り乱れるというわけの分からない状態になっていた。


 たぶん、ここ数年溜め込んできた想いが一気に弾けたんだと思う。


 気がつけば結衣の手首を掴んで、ドアの向こう側からこちらへと引き込んでいた。その細い身体をぎゅうっとかき抱いて胸のなかに閉じ込めていた。

どさりと、ケーキの紙袋やなにやらが床に落ちた音が聞こえた気がしたが、そんなことはどうでもよかった。

 俺はへたれで、口下手で、思ったことも口にできないくらい臆病で……だから!


 そのまま、勢いに任せて唇を重ねる。

 いや、重ねるというよりも奪って、無理矢理塞ぐように押しつけていたというのが正しいだろう。

 言えなかった言葉や、想いのたけを熱い吐息にこめて、初めてふれ合った唇の熱にのせて。


 ……聞きたくなかったから。

 拒否の言葉とか他の男の名前とか、この後何処に行くのかとか。

 そういう俺の聞きたくない何かをその唇がその言葉をかたちづくる前に、音にする前に塞いでしまいたかった。


 言葉にするよりも先に、身体が叫んでいた。


 結衣がすきだ結衣がすきだ結衣がすきだ結衣がすきだ結衣がすきだって。


 親友の妹だからじゃない、幼馴染みの妹分だからじゃない、結衣だから好きなんだって。

 他の男を見て微笑むな。他の男と並んでる姿なんか見たくない。離れていく後ろ姿に我慢なんかできるはずがない!


――だから離れないで。

 お前は俺の隣で、そばにいろって。遠くに行くな、行かないでくれって。


 そう頭からつま先まで……全身が叫んでいた。


 無理矢理押しつけた唇が震えて、かき抱いた指先までもが震える。冬の寒さじゃない。溢れ出す感情に押し流されて、胸の芯が熱いほどに震えていた。

 重ねた唇はやわらかくて、俺はますますそのやわらかさと熱に溺れていく。手加減も遠慮も一切なし。熱をかさねて、ほんの少しも隙間も許せないほどぴったり密着して、抱き寄せて。


――たぶん、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていたiPhoneが鳴りださなければ、玄関だろうと構うことなく、恒松や藤生のことも忘れたまま、俺は欲望のままにその場に結衣のことを押し倒していたかもしれない。


 つまり、それぐらい突然のサプライズに我を忘れていたし、切羽詰まってもいた。


「ん……ん、んんっ!」

「ゆい……」


 なんとか今さらながらの理性を総動員してようやっと離した唇と唇の隙間には、漏れだす熱い吐息が混ざり合う。

 そこには冷たい冬の空気も、離れていた4年間も割り込めないほどに濃密で近しい何かがあるように思えて、俺は肩で息をする結衣の背中をそっと撫でた。もう片方の手をのばし、自分自身の唇を指でなぞる。俺の指先にはほんのりと、薄いピンクの口紅のいろがうつっていた。……結衣のいろ、だ。


 結衣は、といえば足りない酸素を補うようにもういちど大きく息を吸い込み、潤んだ眼差しで俺をきっ、と見上げてくる。

 ちょ、その目、犯罪級なんですけど!

 上手く呼吸ができないのか、はふはふと息をしながら涙目になっている姿がかわいくて。


 いつの間にか背に回されていた結衣の手が、俺のシャツの背をぎゅっと握りしめた。さっき自分で握りしめたときとは違う感覚が全身をあまく、貫くように走り抜ける。その感触に舞い上がり、身勝手な俺はもう一度自惚れてしまいそうになってしまう。

 

 だからもう一度、とその小さな顎を捕らえようとしたところで無粋なiPhoneのコール音がしつこく俺を呼ぶ。無視を決め込んだ俺とは対照的に、その電子音に反応したのは結衣だった。


「んぅっ……電話、鳴ってるよ……?」

「……ああ」


 ちっ、と舌打ちをして、しぶしぶと身体を離す。これだけしつこく鳴り続けるということは、もしかして仕事の電話かもしれないしコンビニに行った恒松たちかもしれない。でも握りしめたこの手は離せない。離したくなかった。

 結衣に帰らないようにと視線で訴え、まるで急かすように鳴り続ける悪魔の通信器具をひっつかむ。即座に玄関に引き返し、まだブーツを履いたままの結衣の手首を掴んで、なかに入るように促した。

……否、目と握りしめた指先から訴えた。懇願した。


 表示された恒松の名前に舌打ちをしながら応答のアイコンをタップする。なのに聞こえてきたのは一足先に帰ったはずの隆司の声で、まるで苛立つ獣のような唸り声が、ビリビリと俺の鼓膜を振るわせたのだった。



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