ひとりには慣れてもふたりにはなれない
そのまま四人で缶ビールをかたむけながらたわいもないバカ話をしたり、Xmas特番のお約束的恋愛ドラマにツッコミをいれたりしているうちに時間は21時になっていた。
何故気づいたか、というと床に投げ出されたままだった隆司のiPhoneがやけにけたたましいアラーム音を奏ではじめたからだ。犬の吠え声をアラーム音に設定するあたり、隆司らしいというか何というか。ちなみに隆司は犬好きなわけではない。むしろ大の苦手だ。
「お、もうこんな時間か。わり、俺そろそろ戻らなきゃなんねぇーんだ」
隆司は左手でジーンズの膝にできた皺を伸ばしながら、右手に持ったiPhoneの液晶画面を器用に片手でタップしつつ立ち上がった。
今晩は外泊許可は取らなかったのだろう、てっきり泊まっていくもんだとばかり思ってたからすこし、肩すかしに思いつつも明日は仕事だと思えば仕方がない。
奇しくもTV画面のなかではカップルの男の方が「仕事と俺、どっちが大事なんだよ? いつもいつも仕事、仕事で残業三昧。デートもろくにできない。電話もかけてこない。これで恋人って……俺のこと好きだって言えるのかよ!?」などと叫んでいる場面で、それが妙に笑えた。
どうやら最近は男の方が女々しいらしい。
ちらりと盗み見た隆司の横顔は、さっきまでエロ話をしていたにやけ顔からは一転、やけに真剣に見えた。誰かにメールでもしているのだろうか、薄い液晶画面にフリック入力しているその動作はかろやかで淀みない。
隆司は何だかんだ言いつつ根は真面目で、仕事熱心だと思う。
ふだんおちゃらけて、軽い人間を決め込んでいるが、情に篤く時間にも律儀だ。そこは職務上鍛えられているせいもあるのかもしれない。だけど根本的なところは元からの気質で変わっていない、と思う。
そんな隆司に、まったく異なる環境とはいえ”ほぼ男の園”の住人でもある藤生が同情の目差しを向けた。
「そっかぁ。門限ありはつらいねぇ〜。でもさ、お前んとこは早いとこ嫁さん貰えば出れんじゃね?」
「簡単に言ってくれるじゃねぇか。そう言うなら女の子紹介してくれよ、可愛い子! 会社員とか女子大生とかとか!」
「いやぁ〜坊主の俺に言われても、だな。周り野郎かおばちゃん、おばーちゃんしかいねーもん。いっそ俺ン家の檀家のおばちゃんに見合い頼むか? 間違いなく、喜んで紹介してくれるぜ?……まぁ、俺たちの年齢からすれば相手はほぼ年上になるのは間違いないけどな」
胡座をかいた膝に肘をついた姿勢のままで藤生がへらり、と坊主らしからぬ笑みを隆司に向ける。隆司は、といえば羽織ったジャケットの襟を直しながら藤生を見下ろした後、拗ねたようにふたたびiPhoneの液晶画面に視線を戻した。
「……やだ。俺は恋がしたいんだよ、ラブい恋ってやーつー! 専門職のおねーさんのお店とか、男も女もやる気満々なコンパとかに行くんじゃなくてさ。ふつうの、どっちかといえば清楚系でおとなしめな女の子の……そうだな、たとえば財布を拾って届けたのをきっかけに、徐々にお互いを知り合って……やがて恋に落ちる、みたいなやつ!」
「……お前はどこの純情高校生だ。いまどきねーよ、そんなの」
「意外とありえねーくらいのロマンチストでベタ好きだなぁ、隆司は」
俺たちからのそっけないツッコミに「これだから出会いに恵まれた民間の野郎共は! 夢ぐらい見させろや!」と隆司が悔しげに吠える。それを藤生はにやにやと笑って受け流し、恒松はといえば「はいはい、夢ならいくら見ても無料だし入場料もいらねぇもんな」なぞと言う。
だが、こんなたわいもないやり取りにどこか救われている俺がいた。
ガキの頃と今は確かに違うけれど、変わることのない空気感がここにある。そしてそれに安心する。
周囲は目まぐるしいほどに変化していき、俺たちもまたこれからどんどん変わっていくのだろう。
だけど……自分や周囲が変わっていけばいくほどにまた、変わらないものもある。そう俺は信じたいのかもしれない。
「あ、そういえば結。悪ぃ、俺ここにピザ頼んじまってたの忘れてたわ」
玄関でその図体に見合ったでっかい靴に足をねじ込んでいた隆司が振り向きざま、今思いだしたといった態で言った。食欲大魔神の隆司が、自分で注文しといて忘れるなんて珍しい。明日は雪だな。
「えぇ?……ったくしょうがねぇな。藤生と恒松はまだ時間大丈夫だろ? せっかくだし喰ってけよ」
空腹、というわけではないが三人でなら食べきれないこともないだろう。そう言いながら後ろを振り向けば藤生は紺色のダウンを、恒松はダークグレイのコートを羽織っているところだった。あれ、お前らまでもう帰るの?……帰っちまうの?
「おれら、ちょっとコンビニ行って酒とか買い足してくるわ」
「俺はついでに煙草吸ってくる」
そして三人は扉を閉めて、ひんやりと冷たい夜の空気の中へと出て行った。隆司は「またな」と広い背中越しにひらひらと手を振りながら。恒松と藤生は「後で玄関のインターフォン鳴らすから開けてくれよな」そう俺に言い含めてから。
俺は玄関扉の鍵を回し、つっかけていたスニーカーを脱ぎ捨てる。
さっきまで賑やかで人の声や体温に溢れていた分、1DKの部屋がやけにがらんと広く、うすら寒く感じた。見慣れた自分の部屋のはずなのに、誰かがいるときと帰った後ではまるで別の部屋のように思えてしまう。
でも……俺はそれに慣れていた。慣れてしまっていた。
こどもの頃から、ずっと。
会社員の父親は当然夜も遅い。隆司の家で夕飯をご馳走になった後、隆司の家族に見送られながらひとり、家路を辿る。
都会の夜道はあかるい。
夜の色にオレンジ色の光がぽつぽつと浮かぶ住宅街、街灯が薄く照らす道を抜けて俺は誰もいないマンションに帰り着く。
瀟洒なタイル貼りの外観にダブルオートロック付。室内はパッシブウィンドウシステムを採用した広めの3SLDK。
玄関扉を開けば人感センサーで自動的に灯る明かりがあたりを照らす。24時間換気システムとはいえ、人気のない室内にはいつも他人めいた空気が漂い、大理石の廊下は靴下越しにもひんやりとつめたい。
俺は制服の上着を脱ぎながらリビングに入り、灯りをつける。それだけだ。
以前は言っていた「ただいま」に返ってくる声はなくて、いつかその言葉を言うこともなくなっていた。
高校二年生のときに、父親が再婚するまでは。
美月さんが来てくれて、かけられる「おかえり」に「ただいま」と返す日々がはじまった。
背だけはすでに親父と肩を並べてはいても、中身はそれこそまだ十七歳の男子高校生だ。
……最初はなかなか慣れず、もごもごと口の中で挨拶を返しながらまごつく俺に、美月さんはいつも笑いながらもう一度「おかえり」と言ってくれた。
それはどこか照れくさくて。
でも、ほんとうはあったかくて嬉しかった。
夜道を自転車で走りながら、オレンジ色に光る窓の灯りのひとつを見上げる。それが「おかえり」そう言ってくれているようで、俺のことを待ってくれている誰かがいることが嬉しくて。
だけど、俺はそうやっていくうちにいろんなことに鈍感になっていたらしい。
身近なしあわせに慣れていくうちにそれが当たり前だとつい思う。慣れてしまう。
だから結衣も、まさか離れていくとは思わなかったんだ。
毎年クリスマスや誕生日には隆司の目を盗んで、こっそり結衣に某ジャンボシュークリームを渡した。
結衣の大好物で、120円という価格が高校生男子の寂しい懐にありがたいからというのもあるけれど、何かあげたくても他のものだと何か意味深げで思わせぶりに思えて……それが高校生だった俺には照れくさくてできなかったから。
だからバカのひとつ覚えみたいにそれしか渡せなかった。
胸に閉じ込めた言葉も、想いも渡せぬまま。
「隆司には内緒だぞ。あいつに見つかったら全部喰われちまうから」そのくせ目線はそっぽを向いて、言い訳じみたことを言いながら兄貴ぶって。
自分自身の気持ちすら自分でも分かってなかったくせに、何も言わなくても伝わると思うなんて……それこそ傲慢だ。
だから人はメールにせよ、手紙にせよ、ただ一振りの梅の枝にせよ……想いを込めて伝えるのだろう。
言葉にして。
我ながら未練がましい。
そんな自分に溜息をつきながらフローリングに寝転がる。さっきビールをこぼした跡はすっかり乾き、どこにこぼしたのかすらも今となればわからない。
きっとこんなにも感傷的になったのは急にひとりになったからだろう。
誰かと過ごすことが楽しければ楽しいほど、ひとりになった途端、それがやけに堪えるときがある。それは何か嫌なことがあったり、忘れたいことがあったりしたときだ。
誰かと一緒だったり、何かに夢中になっているときはいい。
だけどひとりになったときの空白感。それが身にしみるときがある。
抱えた腕を枕に天井を見上げ、ダイニングのペンダントライトを見上げ、壁に架けたサンバースト・クロックを見上げる。
中心の丸い文字盤から放射線状に直線を広げた鋭角的なデザインながらも、壁に映るその影はまるで太陽とその影のようだ。けして地味とは言い難い、むしろ奇抜なデザインにもかかわらず、白い壁という空にぴたりと馴染んで見える。
——あれは社会人になり、一人暮らしをはじめた俺にお祝いとして結衣が贈ってくれたもの。
よく雑誌などで見かけるマルチカラーではなく、敢えてウォールナットを選んだあたり、結衣は俺の好みをよく分かっている。
それはきっと幼馴染みだから。
ただそれだけのことのはずなのに……そのとき感じた喜びはほのかにあまく、胸の奥にともった灯は今も消えることがない。
だけど実際のところ結衣とは俺が大学に上がってからはほとんど、特に結衣が関西の大学に進学してからは滅多に会えてはいなかった。
きっと、隆司が教えたんだろう。送り状に書かれた住所は彼女の住む女子寮のもので、添えられたメモには一言「結君の新しい時間を一緒に刻めますように」そう書いてあった。
俺が誰と同じ時間を刻みたいか、そんなのは今となれば分かってる。
だけどそれすらも言えない、言えてないんだ俺は……。
時計の針がカチカチと、文字盤の上で規則正しく刻む音を聞くとはなしに聞いていたが、そんな俺のもの思いを破るようにインターフォンの音が靜まりかえった室内に響いた。
隆司が言っていたピザが来たか、恒松達が戻ってきたかのどちらかだろう。
上半身を起こしながら、床に転がしたままの財布を念のために手繰り寄せる。広め、といってもたかだか1DKだ。立ち上がった勢いのまま、誰がきたのか確かめることなく玄関を開けると、そこにいたのは恒松でも藤生でも、ピザ屋の店員でもなかった。
そこにはいるはずのない人物が————結衣がいた。