ヘタレの気持ちはヘタレにしか分からない
「おい、結?」
俺はまたもやぼうっとしてたらしい。
とんとん、と右の肩を指でたたかれる感触にようやく我に返る。飲みかけの缶ビールが軽い。手のなかにあったはずのそれがいつの間にか傾いで、たらたらと床に中身がこぼれていた。
あちゃー、と口のなかで呟きながら缶を床に置く。フローリングの上には小さな水溜まりならぬビール溜まりができていた。
せっかくの生だったのにもったいねー。そう思いつつ、だが未練たらしく缶を睨んでもやらかしたことはしょうがない。
覆水盆に返らず。こぼしたビールも左に同じく。
間違ってもこぼしたそれは戻りはしないし、時計の針も逆巻かない。
床の上に浮き上がった小さな黄金色の泉の底からは、ちいさな気泡がぷちぷちと浮き上がっては消え、消えては再びあとからあとから浮き上がる。
その様をやや自嘲めいた想いで見つめながらも、俺は藤生に渡された布巾で勢いよく拭った。
乾いた布の下、じわりと床に漏れ広がる濡れた感触が掌にしつこくこびりつくようで……俺は気の抜けた気泡をつぶすように拭い取る。力をこめて、強く。
「いつもだったらザルっつーか枠のくせに、珍しく酔ったか?」
すっかりビール臭くなった布巾を一旦洗った後、ふたたびせっせと床を拭いはじめた俺を橫目に、隆司は自分のビールを傾けながらのんびりとそう言った。
「俺は仕事浸けで疲れてんの! か弱いの! 体力バカのてめぇと一緒にすんなっての!」
そんな隆司に対し、俺はわざと怒ったように敢えてそこで言い返す。
本当の理由は別にあると自分でも分かっているが……言えるわけがない。お前の妹のことでモヤモヤしてました、なんて。
隆司のことだ、気づくはずもない。
それは俺自身……気づかなかった、知らなかった気持ちだから。
いつのまにか積もり積もったそれは今となれば恋心、なんてかわいいもんじゃない。きれいなもんでもない。
どろどろの、欲に塗れたこころだ。
……いっそ、隆司に言ってしまえたのなら少しは楽になったのだろうか。
結衣は親友の妹だからとか、幼馴染みの妹分だとか……そんなことは気にもかけずに。
俺は手は動かしながらそんなことを考える。濡れた床はその部分だけ色が変わって見えて、まるで違う種類のようにも見える。同じなのに同じじゃないもの。拭ってもぬぐい取れない何かがあるように見えて……かわいた指先でそっとなぞった。
布巾を洗おうと立ち上がると、当の隆司が汚れた皿の山を抱えて後ろから一緒についてきた。先に台所に入った俺は、隆司から皿を受け取るべく手をそちらへと伸ばす。
「悪いな、隆司。置いといてくれたら洗っとくぜ」
「いや。人ん家に押しかけた挙げ句、散々喰って飲んだわけだし。これぐらい俺でもできる」
そう言いながら隆司は積み重ねた皿を小さなシンクに置き、袖を捲ってスポンジを手に取った。ガス給湯のスイッチを押し、流れる水が湯に変わるのを二人して手持ちぶさたながらもしばし待つ。でかい男が二人して狭っ苦しいキッチンに横並びでつっ立っている姿は、なかなかどうして滑稽だ。
氷のように冷たかった水がようやくぬるい湯に変わった。まずは、と俺が布巾を洗い始めたところで隆司が「そういえば」と思いだしたように口を開いた。
「結ん家の親父さんたちは元気か? かーちゃんや結衣が気にしてた」
「ああ、元気みたいだ。こないだも美月さんから電話があってさ、いつあっちに来るのかって聞かれた。親父は28日まで仕事らしい」
「そっか。……行くんだろ?」
「まぁ、な。親父はともかく美月さんと始には夏以来会ってねぇし。……始にはお年玉もやらねーと、だな」
美月さんは親父の元部下で、今の奥さんだ。
つまり俺にとっては十歳しか年の変わらない義母にあたり、来年幼稚園に上がる義弟の始の母親でもある。親父の転勤で今は名古屋にいるが、俺のこともよく気遣ってくれるだけでなく、何より親父や始のことを大切にしてくれている。まったく、勿体ないくらいの人だと思う。
……そもそもの二人の馴れ初めが、あの美月さんからの猛アタックだったらしい、というのが意外だが。
「あー。お前、にーちゃんだもんなぁ〜。でもさ、そんだけ歳の差があると兄貴っつうより叔父さんだな」
「……よく言われる。それならまだいいんだけどな。夏にあっちで一緒にスーパー行ったら『若いお父さんね〜』ってレジの人に言われてさ、あれは参った。後で始に『結にーちゃはおとーさんなの? 僕、おとーさんが二人いるの?』とか聞かれるしさ。俺はまだ結婚どころか彼女すらいねぇっつーの」
溜息をつく俺に対し、隆司は何がおかしいのかげらげらと笑っている。確かに俺は昔から年の割に落ち着いて見えるとは言われてきたし、始と並べば親子に見えなくもないかもしれない。
だが社会人一年目の二十三歳にして子持ちに見えるのかと思えば……内心はいささか複雑だ。
俺たち四人が並ぶと家族、というのには何だか不自然だ。
けど、そこにいるのが親父と美月さん、始の三人だったらどうだろう。親父と美月さんは十五の年齢差があるが……それはそれで、年の離れた夫婦としてしっくり馴染む。ひとつの家族としての像となる。
……俺さえ除けば。
そんな俺の様子を見て察したのか、隆司が俺の肩をとん、とたたいて場所の交代を促す。素直にシンクの前の位置を譲ると、隆司はスポンジに洗剤を含ませて皿を洗い始めた。皿に残っていた油分とトマトソースが白い泡に浮き上がり、やがて融けて熱い湯に流れていく。
汚れた皿をやや機械的に渡しながらそのさまをぼんやりと眺めていた俺に、隆司は珍しく真面目な口調で言った。
「まぁ、なんだ。いいじゃねぇか、渋くてイケメンな親父に若くて美人な優しい義母ちゃんと仔犬みたいに慕ってくれる可愛い義弟ができてさ。……ほんとは分かってんだろ、お前だって家族の一員なんだって。必要とされてるんだって」
「…………」
「そうそう。結はさ、なんつーの? 考えすぎっていうか、変に相手に気ぃ遣いすぎて一歩ひいちまうところ、昔からあるだろ。もっと遠慮せずにがつっ! といけばいいのにさ」
いつの間に後ろにいたのか、藤生が腕組みをしたままの格好でにぃっと笑う。そんな藤生の言葉尻を引き取るように、部屋の向こう側からは恒松の声が追いかけてきた。
「結が一歩踏み出すにはさ、ある意味きっかけが必要なんじゃないかって俺は思うんだな〜。何だかんだいってへたれだもん、お前」
「……恒松」
口調はのんびりながらも、最後にずばっと落とす恒松の衣着せぬ言にぎろりと視線を向けるも奴は涼しい顔だ。そしてそれを否定できない自分も我ながら情けないわけで。
だけど、恒松にだけは言われたくないぞ、俺は!
俺のなかの意地悪な俺がむくり、と起き上がる。俺は立ったまま壁に背をもたせかけ、濡れて赤くなった手をタオルで拭いながら恒松に意地の悪い笑みをむけた。
「そういえばお前ん家の穂乃香さん、今日はどうしてるのかなぁ〜? イブだし? 穂乃香さん美人だし?」
「——っ!」
狙いは見事すぎるくらい見事に、俺の言葉という矢は恒松の胸の正鵠を見事に射抜いたらしい。
いつもクールを気取ってどこか醒めた態度、飄々とした風を装っている恒松の仮面が一枚、剥がれる瞬間を久しぶりに見た気がした。
……なんだよその顔。
俺は思わず視線を僅かに逸らした。
これはまた……なんというか。
俺は溜息をひとつ、ゆっくりとはいた。これは同情なんかじゃない。同感の溜息だ。恒松よ、お前もか。
……恒松。お前、知ってるか?
俺は、というかここにいる2人も含めて薄々気づいているんだぜ? 恒松が色んな女の子とつきあっても、そのくせ長続きしない理由、知ってるんだぜ?
「……俺がへたれなら恒松、お前も立派なへたれ同盟の一員だな」
「うるせぇ」
俺が慰めるようにそう言えば、ようやく観念したのか認める気になったのか、恒松がふて腐れたように床に寝転がる音がした。俺もそれに倣うようにその横にごろりと転がって、天井を見上げる。白い壁に映る電灯の光が丸く円を描くように見えて、それがやけに眩しく目にささる。
ちくちくと痛む目を斜め横に逸らせば、カーテンを引いたままの窓硝子越しに真っ黒な空が見えた。空に散らばる星は高く、空も遠く、そして俺たちの胸に抱える想いの向く先もまた遠い。
いつでもそばにあるのが当たり前で、日常だからこそ大事なものと気づけなくて。気づいたときには遠くに行ってしまって手も届かない。その手を伸ばすことも躊躇われて、でも諦めることもできなくて。
そんな想いに俺たちは苛まれている、そんな気がした。
そうやって寝転がっている俺たちに隆司と藤生は「まま、飲めや」と新しい缶ビールを手渡してきた。
二人そろって黙って起き上がり、缶を受け取る。プルタブを開けると炭酸ガスが缶から漏れる音が勢いよく室内に響いた。
俺と恒松はそのまま缶をぶつけ合う。和解成立。へたれのXmasに乾杯、だ。