剣術少年が剣道をすると酷いことになる
歓声と絶叫に揺れる剣道場に、垂れ幕が掛かっている。
『第26回本剣道備前杯・決勝』
そして今、その垂れ幕の真下で、聞くに堪えない悲痛な叫びが轟いていた。
「おい、本当に俺を出すつもりか!?」
「当然や。剣道部員を再起不能にしたんはお前やろ。責任くらいキチッと取るんや」
「嫌だ、俺は絶対出ないからな!」
「往生際が悪いで、蓮次! おいみんな、蓮次を逃がすんやないで!」
「応ッ!」
周りにいた剣道部員が、一人の少年をガッチリと拘束する。
とはいえ、少年も執念で振り払おうとする。
ペースを持っていかれないように、大声で叫びを上げた。
「てめぇら、離せこの野郎!」
「頼む、今回だけなんだ! 剣術で培ったその力を貸してくれ蓮次くん!」
「お前らの事情なんか知ったことか! 解放宣言はとっくの昔に出されたんだよ! 早く離しやがれ!」
無理やり胴着を着せられ、面を被せられそうになっている少年。
――名前を西園寺蓮次という。
潰れかけの剣術道場を若くして継いだ剣士である。
剣術に絶対の心得があることと、出場人員が4人しかいなかったという理由から、補強として出場することを強いられている。
しかし、如何せん競技は剣術ではなく剣道。
根本的に種目が違う。実力が発揮できないということは明白である。
しかし、剣道部も必死だ。
試合に出るため、彼を剣道部に3分前に強制入部させた。
その主犯は、関西弁で熱弁を振るう友人・赤穂燈馬。
剣道部の主将にして全国個人ランク1位の猛者である。
彼がこの場面で出れば優勝は堅いが、チームを勢いづけるために、もう先鋒として出場してしまっていた。
ちなみに、今の状況は2勝0敗の中堅勝負。
蓮次は試合を決定づけることの多いポジション――中堅に当てられてしまっている。
剣道経験ゼロの者が、入部5分で地区大会決勝本戦。
出場選手リストの提出にギリギリ間に合ってしまったことに、蓮次は辟易していた。
もちろん剣道部側からしても、これが試合を成立させるための苦肉の策であることは言うまでもない。
「レギュラーが潰れたんはお前の責任なんやから、試合くらい出てこい! 負けてもええから」
「お前……潰れたってな。祝賀パーティーやるとか言って人の家に上がり込んできた挙句、どんちゃん騒ぎをしたバカが何を言ってやがる!」
「るっさいわ! お前が傷んだ酢だこを飯に出さんかったら、普通に試合に出とるっちゅーに!」
「飯を恵んでやった俺に対する態度がそれか!? それに、一番がっついて食ってたお前がピンピンしてるってどういうことだよ。この人間ポリバケツが!」
「聞こえんなあ~」
「ウイグル獄長!?」
怒涛のように逃走を図ろうとする蓮次を何とか押さえつけ、道着を着させる。
そして、反発する蓮次をなんとかなだめようと、燈馬は肩をバシバシと叩いた。
「えーからえーから、剣道も剣術も似たようなもんや。さっさと行って負けてきーや。幸いにして中堅まで回ってきて2勝0敗。ここでお前が負けてもわ般若春が絶対勝つさかい」
「……あーもう、分かったよ。出てやるからもう離せ。だけど、結果がどうなっても俺は知らんぞ」
「わいも知らん」
「お前主将だろうがよ」
ひと通り話が落ち着いたのか、蓮次も抵抗をやめて防具を身につけ始める。
しかし、面の着け方がわからないらしく、少しの間四苦八苦していた。
「あー……そういえば。中堅って大将に匹敵するくらい強い人がつくポジションだったよな。やばい、殺されるかも知れん」
「骨はわいが拾ったる」
「てめえ、試合が終わったら木刀でタコ殴りにしてやるからな……」
蓮次は持ち慣れない竹刀を握りしめ、線内に足を踏み入れた。
敵は県内有数の強豪校で、全国大会でも上位に食い込む程の名剣士揃いである。
そこを相手に先鋒次鋒が勝利を収めている点で、やはり燈馬の剣道部の強さは本物なのだろう。
この試合に向け、血のにじむような鍛錬を積んだ部員たち。
そんな彼らを、不本意ながらダウンさせてしまったのだ。
明らかに責任は他にあるものの、蓮次も少しばかり責任を感じているようであった。
そうこうしている内に、敵の中堅も入場してきた。
ガッチリとした体格で、見るからに剣道に特化した肉体改造が施されている。
袖から見える豪腕は隆起していて、恐らく力で押していく型なのだろう。
それに対して、蓮次は普段からあまり稽古をしていない。
体格では圧倒的に不利である。うまく懐に潜り込めなければ、敗北は確実だ。
「剣術だったらどこ当てても有効打なのに……。俺はこれから、あのデカブツのプロテクターを竹の棒で殴らにゃいかんのか」
副将である般若春が苦笑いをしながら、がんばってねと口の形で伝えてきた。
わずかながらも応援があることで、蓮次の心が楽になってくる。
ちらっと隣にいる燈馬の方を振り向くと、彼は手をヒラヒラさせて笑っていた。
「くそ……俺が負けると思ってやがるな。おいこら見てろよ燈馬! 剣道歴これからの俺が、この試合を決めてやるよ!」
大見得を切ったはいいものの、観客からは笑いの一つもこぼれない。
まさに失笑。そんな中、燈馬はただ一人床を叩いて爆笑していた。
「ふひひひ。あー腹痛いわ。おい聞いたか般若春。アホやぞあいつ。『剣道歴これからの俺が、この試合を決めてやるよ(キリッ』とかほざいとる。あの中堅さん、わいでも手こずるような相手やで。あいつには3年早いっちゅーねん」
「……それを分かっていて突貫させるあんたの方が恐いですよ」
旗を預けた審判が、無表情で多少の確認を済ませる。
そして、両者に構えを取るように指示を出した。
「……え? え? 何これ、しゃがめばいいのか」
蓮次が困惑しながら腰を降ろすと、審判が始めの合図を出した。
それは、全国大会への切符を掛けた権威ある大会・『本剣道備前杯』の行方を占う一言。
「始め────」
「うぅぅぅぅううううりぃぃぃいいいいいいやあぁあああああああああああああああああああああああああッ!」
刹那――凄まじい雄叫びを敵の中堅が発した。
ビリビリ、と音の波動と気迫によって会場が緊迫に包まれる。
これは、剣道の熟練者等が頭のリミッターを外すために行う『猿叫』という行為だ。
普段からセーブしている力を、爆発的に発揮させる事が可能な技。
そして、床にヒビが入りそうなほどの強い一歩を踏みしめ、中堅は蓮次に迫った。
早々に決着を付けるつもりなのか、鋭い眼光を迸らせて大上段の構えを取っている。
「おいおい……もうやる気からして違うじゃ……おわぁッ!」
敵が振り下ろして来た面を、蓮次は完全に避けた。
その行動に、観客の目が点になる。
「ア……アホ! 何で余計に動いて体勢崩すような真似するんや!
ずらして肩で受けんかい肩で!」
燈馬の言う通りである。
剣道というのは極論、有効打を相手に与えなければ良いのだ。
だからこそ、面や突きを狙われたら体を捻るか沈ませるかをして肩の辺りで受け、胴を狙われたら重心をずらし、有効打から散打に格下げさせる。
しかし蓮次は、体に当たりそうな竹刀の軌道を全て避けようとし、腰が浮いてしまっていた。
下手をしたら怪我をしかねない蓮次の回避方法だ。
その姿を見て、とっさに燈馬も口を出してしまった。
「肩で受けんと危ないっちゅーねん! 聞けぇー! 人の話を」
「うるっさい! 真剣はなあ、一太刀でも浴びたらすなわち死なんだ! 故にぃ、避ける!」
「お前が手に持っとるのは竹や! イッツバンブー! 斬られても腫れるだけや」
「俺にはなあ、もう竹刀が竹光にしか見えないんだよ! お前竹光舐めてるだろ!? あれシャレじゃなく一般人なら殺せ───」
――パアァン
よそ見に加えて、場外に罵声を飛ばす。
そんな隙を、一流の剣士が見逃すはずはなかった。
中堅が蓮次の面に、痛烈な一撃を加えたのだ。
全身に走った鋭い衝撃に、蓮次は膝をついて呻いた。
「面、ありっ!」
「……ぐっ、痛ってぇ」
相手の中堅は、凍てついた視線をしている。眉一本動かすこともしない。
体力面に加え、精神面も常人のそれではないということか。
燈馬は冷めた視線で蓮次に罵声を飛ばす。
「なんちゅうザマや。予想通りやけども、こりゃあやっぱり1敗は仕方あらへんな」
「勝手に決めるなゴルァ!」
蓮次は一旦線の外にでてタイムを取った。
相手選手が眉を顰めたものの、蓮次には知る由もない。
審判の「戻りなさい」という声を眼光でかき消し、自陣に戻る。
もとより、まともにこの勝負に付き合うつもりはない。
蓮次にとって、勝敗の行方はどっちでも良かったが、眼の前の人間に負けることだけは嫌だった。
勝手に戻ってきた蓮次に向かって、燈馬は辛辣な言葉をかける。
「事実やろ? それとも何や。剣道歴この試合のお前が、年単位で剣道やっとる奴に技で勝てるんか?」
その言葉を受けて、蓮次は黙りこんでしまう。
そして、うつむきながら吐き捨てるように呟く。
「……勝てねえよ」
「せやろ? とりあえず試合が成立さえすればええんや。適当に一本取られてき。下手に抵抗すると怪我しかねんで」
「…………」
「おーい、どないした蓮次。頭叩かれて脳がプリンと化したか?」
「……いや、そうか、……その手がある」
ぶつぶつと蓮次は何かをつぶやく。
その様子を見て、燈馬は冷や汗を垂らした。
「れーんじくーん。わいの経験から言うて、お前がブツブツ言うとると、最後にとんでもないこと言い出しよるから、やめて欲しいんやけどな」
「……いや、勝つる、これで勝つる! おい燈馬。ちょっと無茶を言うけどいいか?」
「かまわんけども、何を確認することがあるんや」
「――俺、防具なしで出ていい?」
――剣道部員達の輪に静寂が訪れた。
そして、敵選手の蓮次を見る目が不愉快なものへと変わる。
突拍子な提案に対して、燈馬が返す答えは一つだった。
「と、西園寺容疑者は供述しており……」
「真面目に聞けよぉおおおお!」
「お前がちゃんとしたことしか言わんかったら、わいも真面目に聞くわ! で、何? 防具なし? アホか、んなもんが通るか。安全性を期すのが高校剣道の基本や。そんなもん大会側が許すはずがないやろ」
「ちょっと交渉してくる!」
「あー! こら待て! 殺人酢だこカムバーック!」
燈馬の制止も虚しく、蓮次は運営席の方に行ってしまう。
その姿を、燈馬は口をパクパクと開いて見つめるだけだ。
隣の般若春が冷や汗を流す。
「行っちゃいましたよ。しかもスキップで」
「ったく……変なこと言うて失格になったら許さへんからな」
――1分後
緊張と呆れに包まれる自陣に戻り、蓮次は声高々に報告した。
「特例でオッケーだって! やったー! でも責任は俺持ちだって。やっぱり大人は汚いぜ!」
「……出る大会間違えたかもしれんわ」
「何言ってんだよ。喜ぼうぜ、俺がこれから優勝旗を持ってきてやるよ」
「霊柩車は用意しとくからな」
「不吉ぅー!?」
「それと、わいからの選別や。精力増強にこのドリンクを飲み。
一発で集中できるさかい。ついでに緊張も取れるで」
そう言って燈馬が取り出したのは、なんとも言えない色をした液体。
妙なボトルに入れられており、ラベルにはおどろおどろしい文字で『けんこうどりんく』と書いてある。
「……? ああ、ありがと」
見た目に若干の不安を覚えたものの、とりあえず飲み下す。
すると蓮次は顔を歪め、苦々しそうな表情となった。
吐きそうになる衝動を何とか抑え、燈馬に向き直った。
「……うえぇ、何コレ。すげえ酸っぱい。しかも苦酸っぱい。ちょっとこれヤバイって。ドーピングの類じゃないのか? 原料教えろ、こら」
「はいはい、試合終わったら教えたる。それより、やっこさん待ちきれんで呼んどるで。行ってき」
相手チームが催促をよこしてきたので、急いで防具を脱ぎ始める。
その間、燈馬はずっとニヤニヤと笑いを浮かべていた。
含みのあるその表情を見て、副将である般若春が燈馬に耳打ちする。
「部長……さっき蓮次くんが飲んだあれってもしかして……」
「ほほぉ、勘がえぇなあ。せや、あんまり試合が長引いて見っともない醜態晒されたら困るんや。これも、あいつに恥をかかせずに短時間で決着付けさせるため。あいつのためを思って、わいはこないな非道に手を染めとる。くうぅ……こんな自分に涙がでるわ」
「……本音は?」
「楽しみやなぁ。長引いたらあいつヤバいでぇ、クヒヒ」
「あんたは鬼か」
そんな外野での怪しげな会話もつゆ知らず。
蓮次は道着に袴という剣術スタイルになった。
無論、この状態で竹刀をが直撃すれば骨折もあり得る。
突きなんてものを喰らった日には、昇天は免れないだろう。
その軽装の状態で、蓮次は竹刀を手に敵の前へ躍り出た。
「貴様……剣道を舐めているのか?」
先程からの行動に対して、相手の中堅が最もなことを言う。
しかし、蓮次は一笑に付すと、そのまま構えを確認し始める。
「はッ、舐めてたらまず試合になんかでねえよ。勝ちを真摯に追求した結果がこれなんだ。文句なら大会側に言いな」
「……骨が折れても拙者のせいにするでないぞ」
両者が揃った所で再び腰を下ろし、審判の再開の声を待つ。
そして、会場に反響する涼やかな合図が再び出された。
「始め──」
「っせえええぇぇぇぇぇええええええええええあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
「――なッ!?」
観衆と同時に、中堅も一瞬虚を突かれたように表情を歪める。
蓮次が中堅を上回る気合を発散させたのだ。
気勢を上げようとしていた中堅が、思わず声を止めてしまった。
その姿を見て、蓮次は不敵に微笑む。
「どうした? 俺が猿叫を使わないと思ったか? あるいは使えないとでも? 甘えよ。むしろ裂帛の気合である猿叫は剣術が発祥だ。気合は基礎の基礎であり、俺の十八番だぜ」
すると中堅は不敵に笑う。全く動じていない。
さすがに場数を踏んできただけあって、相当な気丈さも持ち合わせているのだろう。
「何やら毛並みが違うと思ったが、貴様は剣術の士か。ならばその気合も頷ける。どこの流派かは知らぬが、今貴様が放つ気合に、膨大な鍛錬の跡が見て取れるな。初心者ならば迷いもしたが、構わぬか。――全力で、行くぞっ!」
その気合とともに、中堅はその巨躯を突貫させた。
大地を踏み砕かんばかりに急接近し、竹刀を頭上に振り上げる。
「いえぇぇぇぁああああああああああああああああああッ!」
中堅は、上段の構えから、全体重を載せた面を繰り出してきた。
その軌道は、先程蓮次の面を打ち据えたのと、全く同じ。
その挙動を見た瞬間、蓮次が動いた。
「────畳脚」
涼やかな声で秘技をつぶやくと、中堅を中心にして周囲に滑り歩いた。
足が袴に触れぬように半歩よりさらに縮めた歩幅で、高速で動く。
さすれば足の動きは袴の内側に隠れ、さも敵の視認を拒むかのような移動が可能となる。
すり足を追究し、異常なまでのレベルに昇華させた技。
蓮次はその動きのまま、弧を描くように移動して相手を幻惑する。
「……っ、何だその歩行法は!?」
中堅は慌てて上段で面を打つ。
しかしその時、蓮次はまるで見当違いのところにいた。
足が動いているのが分からないため、蓮次の動きは滑走しているかのように見えてしまう。
多くの剣士は敵の足捌きを参考にして次の手を予測するのであるが、こんな動きをされてはまず対応が不可能だ。
「どうした? 俺の流派では基本の動きだぜ? さっきは防具がガッチャガッチャして邪魔で出来なかったけどな。悪いけど、初見じゃ今の俺の動きは捉えられねえよ」
そう言って、蓮次は中堅から距離を取った。
竹刀を腰にさすような構えを取り、開きかけていた身体を引き締める。
そして全体的に姿勢を低くし、己の周囲に居合という名の結界を張った。
「い……居合斬りだと!?」
そう。
半身をねじり、静止状態から猛虎のように襲いかかろうとする構えは、まさしく居合。
元々は剣術の範疇なので、剣道の試合で使おうとするものなど普通いない。
それに、抜き身の状態でその構えを取るメリットなど、殆どないのだ。
「まあ、居合つっても、どっかの十字傷のるろうにみたいな滅茶苦茶な技は無理だけどな。でも、ちょっと流派に興味があってさ、一つ習得した技がある」
居合は、構え切ってしまえば辺りに間合いという名の結界を張ることができる。
しかし、構え不十分の状態で打ち込まれれば、なす術もなく敗れる。
恐らく居合など初見であろう中堅は、本能でその弱点を感じ取ったのだろう。
いまだ軸足を固定しきれていない蓮次を見て、一気呵成に飛び掛った。
竹刀を潰れるほどに強く握りしめ、大上段からの一撃を繰り出す。
だが、しかし──相手が悪かった。
「間合いに、入ったな?」
すきを狙った速攻を、蓮次は読んでいたのだ。
蓮次の眼光が鋭くなった。
そして瞬時に軸足を安定させ、中堅を見据える。
全身のバネを利用し、一直線に中堅の胴に向かって抜刀した。
「────卍抜け」
パアァン、という、凄まじい音が響いた。
竹が爆ぜるかのような、炸裂音が。
渾身の力で振り抜いた抜刀。
それは抜き胴の役割を果たし、見事に剣道の技となった。
「ど……胴ありっ!」
何が起こったのか視認しづらかったのだろう。
審判はワンテンポ遅れて技の有効を認めた。
そして、直撃を受けた中堅がその場にうずくまる。
脂汗を額に浮かべ、腹部を押さえて呻き声をあげていた。
事の顛末を見て取った燈馬達は、驚くばかりだ。
「い……一本取りよった。あれは確か、林崎夢想流の奥義やんけ。しかも、当たった場所がエグいで。比較的モロに衝撃が伝わる連結付近や。下手したら骨がイッとるかもな」
場内のざわめきが、歓声に変わる。
明らかに素人である男が、圧倒的実力を持つ中堅を打ち倒した。
番狂わせもいい所である。
最高潮の高まりとなった場内は、沸騰したように熱気が上がる。
中には、線内にタオルを投げ込む者もいた。
「こらあ! タオル投げ込むんじゃねえ! どこのセコンドだお前らは」
どこからともなく飛んできたタオルを振り払う蓮次。
しかし、今度はその後頭部に空き缶が直撃した。
青筋を立てながらも、蓮次は竹刀を握り直す。
ここで暴れたら全てが台無しだ。我慢我慢。
そう思って中堅に向き直る。
しかし、床に崩れ落ちた中堅は、いまだ立ち上がることができないでいた。
剣術の達人が、殺人の居合を叩き込んだのだ。
防具をつけているとはいえ、その攻撃は明らかにやりすぎである。
心配になった蓮次は、慌てて中堅に駆け寄った。
「おい、どうした!
進化か? 進化するのか? Bボタン連射なら承るぞ」
蓮次が場を和ませようと冗談を言う。
しかし、中堅は無反応でひたすら腹をさすっている。
先ほどまでの戦意はいまだ瞳に宿っているが、受けたダメージがそれ以上のようである。
そして――
「……ぐっ、すまん。
試合の続行は……無理だ。棄権……させてくれ」
中堅は、苦々しい声で試合放棄の宣言を出した。
燈馬の指摘通り、居合が入った場所を、中堅は苦痛に耐えるようにして抑えている。
あまりにもあっけないが、彼の苦しみ方は尋常ではない。
その言葉を聞き、担架の指示をした上で、審判は勝者を称えた。
「赤、試合の棄権により、白の勝利!
以上を持って、3:0で、円城寺高校の優勝とする!」
――歓声が剣道場を包む。
割れんばかりの黄色い声援。
初出場にして初優勝を遂げた、燈馬率いる剣道部。
副将と燈馬、そして残った部員たちは互いにハイタッチして喜んでいる。
「いよっしゃあぁ! 今夜は祝杯や! 飲むでーお前らー!」
「お酒は二十歳になってから!」
「うわーい、ここで裏切るかお前ら」
蓮次は、そんな馬鹿騒ぎには混じらず、担架で運ばれる中堅に挨拶をしていた。
「いや、ホントにすいません。やりすぎちゃって。医療費は実家の道場売り払って必ず工面するんで」
頭を必死に下げて、畳に額を打ちつけていた。
作法もへったくれもないが、その土下座から誠意だけはうかがう事はできる。
その姿を見て、中堅は楽しそうに笑う。
「ふっ、気に病むな。むしろ、本気で来てなかったら怒っていたぞ。いい勝負ができて嬉しい。全国大会、応援に行くぞ。県を代表して頑張るが良い」
「は……はは、そうですね。がんばります…………よ? よよよ、よよ……」
「……どうした?」
「いやあ、何、か、腹の、調子が、ですね。…………ま、まさか」
蓮次は急いで燈馬の方に振り向く。
すると、その視線に気づいた燈馬が、懐からあるものを取り出した。
それは、先程蓮次が飲んだドリンク。
燈馬は『けんこうどりんく』と書かれているラベルを剥がし、その真なる姿を開帳した。
そのドリンク瓶には、黒いマジックでこう書かれている。
――『殺人酢だこ。ミキサーにかけてみました』と
蓮次の顔がみるみる青ざめる。
同時に、腹部から破滅をもたらす音が迫ってくる。
じわり、じわりと魔の階段を上り詰めようとしているのだ、
何とかこらえようとしていた蓮次だが、ついに限界を迎えた。
青ざめた顔が真っ赤になり――そして爆発。
「てんめえぇえええええええええ! 覚えてろやああああああッ! 真剣だ! 木刀じゃなくて真剣でタコ殴りにしてやっからなあああああああ!」
「やってみぃ」
手に持った竹刀の欠片をほうり捨て、蓮次はトイレに急いだ。
その姿を尻目に、燈馬は大笑いをしていた。
あっけなく、あまりにも馬鹿げた幕切れに、副将の般若春も苦笑を隠せずにいた。
「彼は面白いですね」
「せやろ? この調子で全国大会にも連れてくで」
「納得してくれますかね」
「くくく、させたるわ。どんな手を使ってでもな」
腹黒さ満点の燈馬は、上機嫌で竹刀を振り回した。
この場にいる人たちはみな、明るい笑顔に包まれていた。
トイレから響いてくる断末魔の叫びがそれをかき消していたのだが……
――おまけにもならない後日談。
『いやホント 気を付けようよ 酢だこには』
数日後、剣道部の標語はこれに決定したのだという。
そこには、阿修羅のごとく怒り狂う蓮次と逃げながら大笑いする燈馬の姿があったそうな。
彼らが仲直りする日は来るのか。そして、全国を制覇することはできるのか。
それは誰も知らない物語――