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ひとの歴史書 ―銀の亡霊―  作者: 辰野さとる
銀の亡霊(前)
9/32

1-8

 翌朝は早起きしたのですが、やはりのぞみさんは既にどこかへ出かけていました。眠る時にものぞみさんはいませんでしたし、もしかしたらあのひとは一睡もしていないのかもしれません。『はね』の力をすべて遮断していないのなら、眠らないことくらいは造作もないはずです。

 善いものも悪いものも、目を閉じれば忘れることができるのだとギリシャの詩人か誰かが言いました。けれど、のぞみさんにはそんな生ぬるい忘却なんて必要ないのかもしれません。

 なにがあろうと目を開き続け、決して閉じることはない。そんな英雄のような生き方こそ、のぞみさんには相応しいように思います。

 「しるすさんは、私以外のヒューマノイドに会ったことがありますか?」

 大階段に腰掛けてぼんやりとはねさんの姿を眺めていると、作業のついでのように声をかけられました。

 「それはまあ、ありますよ。ヒューマノイドと一緒に暮らしているひとは多いですからね」

 今日は花のレイアウトを変えようとしているらしく、はねさんはドレスの上からエプロンをつけ、アップにまとめた髪をバンダナで包み、片手には可愛らしい花の形をした移植ごてを握っています。

 小さい子が土いじりをしている光景は、なんともいじらしいものがありますね。

 「では、あなたから見て私はどうですか?」

 ざくり、ざくり。はねさんは器用に移植ごてを使い、花の株を地面から引き抜きます。それを一旦プラスチックの容器に移すと、いろいろな場所に配置して、ああでもないこうでもないと悩んでいました。

 「どう、と言われましても。それはもうこれまで見た中でも一番可愛らしいと思いますが」

 「そんなことは聞いていません。ヒューマノイドとしての私はどうなのか、知りたいんです」

 からかってみたというのに、はねさんはつれない様子でわたしをあしらい、粛々と作業を続けています。ほんのささやかな笑顔も見せず、努めて作ったような無表情を保ちながら。

 「端的に言ってしまえば、イレギュラーですね」

 かねてから用意していた言葉を投げてみると、思った通りにはねさんの手が止まりました。

 けれど、彼女だってこの言葉が欲しくて聞いたはずなのです。他のヒューマノイドと変わらない、なんて気休めにはなんの意味もないでしょう。はねさん自身が、自分に対する疑問を否定しきれずにいるのですから。

 「ヒューマノイドは主からの命令に忠実で、自分の意思で行動することはありません。それが普通のヒューマノイドというものです。そんなこと、わたしよりもずっとはねさんの方が詳しいでしょう?」

 人間味が薄いタイプのヒューマノイドであれば、この程度の皮肉も理解できなかったりするのですが、はねさんには効果覿面だったようで、泣きそうな顔で俯いてしまいます。

 「わたしにはさっぱりわからないんですが、はねさんはどうしてそんなにヒューマノイドになりたがってるんですか?」

 「なりたがっているわけではありません。だって、最初から私はヒューマノイドで……」

 「そんなことはないでしょう。わたしやのぞみさんがあなたをヒューマノイド扱いしましたか?」

 「誰がなんと言おうと……っ」

 「はねさん。あなたにはきっと受け入れがたいことだと思いますけれど、わたしはひとつの事実を知っています」

 歴史家である以上、扇動者であってはいけません。ですから、わたしが言葉にするのはあくまで事実。人類に完全な滅びが訪れない限りは、おそらく変わることのないもの。

 「事実とは、多数のひとが作るものなんですよ」

 はねさんがその顔に浮かべているのは、明確な形を持たない激情でした。槍にすれば投げられるでしょうし、剣にすれば振り回せます。けれど、形を持たない気持ちは自分に纏わりつくだけです。その苦しみは痛いほどにわかりますが、わたしには彼女を救うことができません。

――記述者は、出来事を動かしてはいけませんから。

 「もちろん、あなただって『ひと』です。あなたが自分のことをヒューマノイドだと信じるならば、それはそれでいいでしょう。けれど、わたしたちは認めません。だとすれば、それが事実になることはないんですよ」

 わかりますか? と、わたしは最後の事実を言葉にします。

 「あなたをヒューマノイドの枠に当てはめたがっているのは、あなた自身だけなんです」

 「そんなことは言われなくてもわかっています! でも、だからどうしろと言うんですか!」

 はねさんの爆発的な激情は急速に勢いを失い、どうしようもないやるせなさに形を変えました。

 「私はヒューマノイド以外の生き方なんて知りません……無軌道な自由なんて、かえって重すぎるんですよ」

 この時代に生きるひとなら、誰だって自由の重さは知っているはずです。なにもかもから解き放たれた経験のあるひとびとばかりですから。

 「マスターは、一体私になにを望んでいるんでしょうか。そもそも、私自身を望んでくれているのかもわかりません」

 「さすがにそれは杞憂だと思いますよ。のぞみさんにも考えがあるはずです。無責任なところもありますけれど、そういうところは義理堅いひとだと思いませんか? ただ投げ出しているわけじゃありませんよ、きっと」

 そうは言ってみたものの、わたしにものぞみさんの真意はわかりません。あのひとが抱える背景は見えてきましたし、はねさんの悩みもだいたいは理解できましたが、どうにもそれが繋がらないのです。

 「マスターに言われたことがあります。自由は酒のようなもので、適量なら幸福を与えてくれますが、度が過ぎれば命を奪うと。ですから、あのひとのことは信じてもいいかと思うんですが……それでも不安にはなります」

 「酒、ですか。のぞみさんはお酒を飲むんですか?」

 「いえ、マスターは一滴も……」

 はねさんは目を見開いて自分の口を押さえました。

 「飲まない、はずです。でも、その言葉を聞いたときには飲んでいたような気がします」

 「気がするというのはおかしくありませんか? ヒューマノイドには物忘れなんてないでしょうに」

 「ええ、原理上ありえないことですが、やはり記憶が乱れて……」

 「ううん、なにか深刻なエラーかもしれませんね。のぞみさんが帰ってきたら診てもらいましょう」

 ええ、と頷きながらも、はねさんは顔を伏せ気味にして、エプロンの裾を両手で強く握り締めていました。


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