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シルヴァーゴーストのエンジンを始動させて、わたしは思わず感嘆の息をつきました。
――途方もなく静かなのです。
銀の亡霊の名は、元々のボディカラーと、信じられないほどの静音性から来ています。もちろん1900年代の静かなエンジンですから、いまと比べたらどうかわかりません。
この車がここまで静かなのは、乗せかえられたV6エンジンがよいものだからでしょう。元々のL6も悪いものではありませんが、この時代まで残っていて、なおかつ実用に足るL6エンジンなどほぼ皆無です。
この静けさといい、そこかしこの行き届いたメンテナンス具合といい、とても長らく放置されてきたものとは思えませんでした。ことによってはエンジンのオーバーホールも覚悟していましたが、この分ならわたしの整備は簡単なもので済みそうです。楽にはなりましたけれど、ちょっとだけ残念ですね。
「や、はかどってる?」
降って沸いたように現れたのぞみさんが、開いた助手席の窓から車内を覗き込んできます。
一体どこから、と思って見ると、のぞみさんの背にはいつものグライダーがありました。比喩抜きで本当に降ってきたようです。
「あ、はい。ぼちぼちってところです。ちゃんと整備されていたみたいですし、わたしがすることは多くありませんよ。誰か車に強い知り合いの方でもいらっしゃるんですか?」
「まあね。もともとはそのひとの車だったんだ」
そのひとがどうなったのかは、聞かなくても想像がつきます。これだけ車にこだわりのあるひとが、長らく自分の車を放っておくはずなどありません。きっと、もうこの世のひとではないのでしょう。
――死がどれだけ幸福で穏やかなものになったとしても、残されるひとの空虚は変わりようがありません。
青く透き通る冷水のような悲しみは、わたしたちの心から温かさを奪っていきますが、それでも空虚は満たしてくれます。そして、いずれはその冷水も、日差しに照らされて温かくなっていくはずなのです。
けれど『彼ら』の改変はわたしたちの世界から悲しみを奪ってしまいました。逝くひとはより長い時間を求めず、送るひとはその背中を見ているだけ。激しく打ち寄せる悲しみは、空虚と穏やかさの凪に取って代わられました。
誰かがいなくなるたび、わたしたちの心には鍵のかかった空っぽの引き出しが増えていくのです。
「あの……そんな大切な車、わたしが整備してもいいんでしょうか」
「どうして? めいちゃんにしか整備できないから頼んだのにさ」
あっけらかんとして応えるのぞみさんですが、やはりわたしは疑いを捨て切れません。
「本当は、のぞみさんも車の整備くらいできるんじゃないですか?」
のぞみさんの顔から掴みどころのない笑いが消えて、ようやくわたしの言葉が彼女の実体を捉えたような気がしました。
「整備のことを知らないと言っても、あのグライダーで岐阜まで飛んでくればそれで済む話じゃないですか。それに……車庫も見てしまったんです」
――つい先ほど、はねさんと別れたあとのことです。
だいたいの整備工具は持って移動しているわたしですが、それでも足りないものというのは出てきます。『はね』を使えばそれも簡単に手に入るわけですが、信条に反する事をしたくないわたしは、意地でも現地調達するようにしています。
ホームにある部品や工具は好きに使っていいと言われていたので、シルヴァーゴーストの修理点検を前に一通りのチェックをしてきたのです。そこで、電車の車庫が目に付いたのでした。
新幹線、在来線、私鉄のターミナルとして機能していた大垣駅では、鉄道車両の修理や点検も行われていました。そのために併設された車両基地には、使われなくなった車両がずらりと並び、もろもろの特殊な工具が保管されている……はずだと当たりをつけたわけなのです。
そこでわたしが見たものは、車両は車両でも乗用車が整然と並んでいる姿でした。シルヴァーゴーストの後継たるロールス・ロイス・ファントム。そしてフォード・リンカーンとGMのキャデラック。などなど、世界中の錚々たる高級乗用車が所狭しと肩を寄せ合っていたのです。
「そっか、あれを見たんだ。それならもう、隠しているわけにもいかないかなあ」
のぞみさんはグライダーを置き、シルヴァーゴーストの助手席に乗り込みました。彼女は伸びをしてから座席に身体を預け、愛おしげに黒い革張りのシートに指を這わせました。
「……どこか、行きましょうか?」
「じゃあ頼むよ。そろそろイルミネーションも始まるし、大垣の街中をぐるっと回ろうか」
わたしたちを乗せた亡霊は、海に漕ぎだすボートのような滑らかさで走り出しました。開いた窓から吹き込む風が、わたしの頬を冷たく撫ぜていきます。
昼間の風よりも、夜風よりも、なにより夕方の風は冷たく感じます。世界中が赤々と燃えているからこそ、冷たさの輪郭がはっきりするのかもしれません。