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駅の宿直室、雲のように柔らかいベッドの上でわたしは目覚めました。
硬い寝床に慣れていたわたしにとって、ふわふわとした布団は底なし沼のようなものです。わたしは必死で溺れるようにもがきながら、のそのそと布団を出ました。隣を見れば空っぽのベッドがふたつ。なにからなにまで準備させてしまい、なんとも申し訳ない限りです。
部屋から出てエントランスホールの方まで下りていきますと、はねさんがジョウロを持って飛び回っていました。
「おはようございます、はねさん」
「ええ、おはようございます、しるすさん。お早いお目覚めですね」
それはもちろんはねさんの皮肉です。いくら寝ぼけたわたしでも、太陽の高さくらいはわかります。今は正午前というところですね。
早く起きようとは思いませんでしたが、ここまで寝過ごしてしまうのも珍しいものです。これが布団の魔力というやつなのでしょうか。
「シルヴァーゴーストの整備は好きなときにしてくれればいいと、マスターからの言伝です。あなたの時間が許す限り、ゆったりどうぞ」
「では、お言葉に甘えまして」
さっそく目の前の仕事を放り出すことにして、わたしはエントランスを歩き始めました。遅くていいことはどこまでも遅くする主義なのです。
「この花園はのぞみさんが作っているんですか?」
色とりどりの花が咲き乱れるエントランスは、さながら童話の世界のようでした。とすれば、はねさんは花の精霊といったところでしょうか。
「いえ、私の趣味です。マスターはこういう細々したことが苦手ですから」
「趣味、ですか?」
わたしが首をかしげているのに気づいて、はねさんは少し気まずそうに呟きました。
「ヒューマノイドなのに、へんですよね。わかってはいるんです」
「いえ、ただ、あの、すごく驚いてしまって」
ヒューマノイドというものをまとめて論じてしまうのはあまりに乱暴ですが、やはり一般的なヒューマノイド像というものは存在します。
なにより根本にあるのは、人間への従順さです。与えられる命令は絶対ですし、ヒューマノイドは過剰なまでの尊敬を人間に向けるのが当たり前。そんな設定がヒューマノイドの基本とされていました。
「私自身も不思議に思っているんです。趣味の園芸に精を出すヒューマノイドなんて聞いたことがありませんし」
「あー、ええと、あれですね、適切な言葉が出てこないんですけれど……そう! ご隠居さんというやつですね!」
じろり、とはねさんが半眼でわたしを睨みます。
「……怒りますよ? しかし、言い得て妙かもしれません。マスターから命令されることも滅多にありませんし、わたしのヒューマノイドとしての役割は終わってしまったような気がします」
きらきらと、ジョウロから水滴が散っていきます。雨の如き露と書かれる通り、その繊細なしずくは雨のようです。
「役割なんて、そう気にする必要もないんじゃないですか? 一昔前と違って、誰かが欠けても社会は回るんですから」
「不安にはなりませんか、自分に決められた役割がないというのは」
ヒューマノイド特有の使命感、と考えれば話は単純ですが、それだけで片付けてしまうのには抵抗がありました。はねさんの表情や素振りには、単なる機械的なものを越えた感情があるような気がしたのです。
わたしたちの感情だって、膨大な変数と複雑な方程式で作られているようなものなのです。ヒューマノイドとわたしたちの間に、どれだけの差があるというのでしょう。
「わたしは逆に、役割がないからこそ不安になりませんよ。その方がずっと気楽です」
とうの昔に用を成さなくなった自動ドアに背を預けて、わたしはエントランスの天井を見上げました。ちらちらと降り注ぐ日光が心地よく、まるで太陽のシャワーを浴びているようです。
「きっと、はねさんは自分の役割を決めつけているんですよ。それが果たせないから不安に思っているんじゃないですか?」
「だって私はヒューマノイドですから、果たすべき使命というものが」
「そんなものはあーりーまーせーんっ。のぞみさんがそんな命令をしましたか?」
「それは、その、命じられていませんが……」
はねさんは渋い顔で口を噤んでしまいます。ヒューマノイドらしさを求めるのであれば、まずは素直になった方がいいと思うのですが、これ以上からかうのはやめておきましょう。泣くはずもないヒューマノイドを泣かせてしまいそうですし。
「とにかく気にしないことですね。はねさんがどんな生き方をしても、きっとのぞみさんは受け入れてくれるでしょうから」
「……あのひとがすべて受け入れてしまうから、辛いんですよ」
はねさんはなにやら独り言をこぼして、再びジョウロを振るいはじめました。じゃらら、じゃららと水が降り注ぐ音を聞きながら、わたしはしばし目を閉じてまどろみに身を任せます。
誰かの音に耳を澄ましてぼんやり過ごす。そんな時間の使い方も、たまには悪くありませんよね。