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食事、というものは常に文化の大部分を担ってきました。
衣食住と並べられたように、人類が生きていく上で食事は必要不可欠なものであり、それゆえに不断の発展を遂げてきたのです。
ですが、いまではもう、食べたければ食べるという程度の嗜好品になってしまいました。いくら食べても『はね』がいずれ分解してしまいますし、食べなくても栄養は『はね』から供給されるのです。
便利と言えば便利なのですが、味気ないとはまさにこのことですね。
「はねさんはいつものぞみさんのご飯を?」
とんとん、とはねさんはきゅうりを短冊切りにしています。ホームに設置されたキッチンは通常サイズなのですが、こまごまとした料理用具はおままごと道具のようにちんまりしていました。
わたしはと言えば、キッチンの真横の食卓に掛けて今日の出来事をメモ帳にとっています。食卓にははねさんのものらしいちいさな椅子に加えて、大人用の椅子が二脚。きっとのぞみさんが用意しておいてくれたのでしょう。
「たまに……週に一度くらいですよ。マスターもはねからの栄養供給は断っていませんから」
のぞみさんは『はね』との接続を単に断ったわけではなく、機能を限定しているということなのでしょう。なおさらすごい話ではありますが、のぞみさんはなにを思ってこんなことをしているんですかね。
「ひとつ聞いてもいいですか、しるすさん」
「はい、なんなりと」
旅をするうちにいろいろなヒューマノイドと出会うことはあるのですが、これほどまでに質問が多いひとははじめてです。基本的に、ヒューマノイドは人間よりもよほど多くの知識を持っていて、そのうえ書き換えはほとんど行わないのです。
「どうしてひとは、変化を必要とするんでしょうか」
しかも、こう、質問のハードルがやけに高いときています。
「いま、こうして冷やし中華を作っていますが、材料は『はね』の力で作り出し、私がすることは野菜を切り、卵を焼くくらいです。それなら最初から『はね』で冷やし中華を作ってしまえばいいと思うんです。それなのに、マスターは『はね』で作り出したものには変化がないと言います」
「食べ物を『はね』で作るとどうしても画一的になりますからね。わたしもあんまり好きじゃないです」
はねさんは作業の手を止めて、ちいさな包丁を置きました。彼女はわたしを見ずに、ただまな板を見つめています。
「でも、私が手を加えても結果はほとんど変わりません。確かに、日によって卵の焼け方は違うかもしれません。ですが……」
「もしかして、はねさんは料理するのが嫌いですか?」
「べつに、好きでも嫌いでもありません」
「だったら、のぞみさんのために料理をするのは嫌いですか?」
はねさんは大きく目を見開き、すぐに目を閉ざして呟きました。そして、意地を張り疲れたように息をつきます。
「……どちらかと言えば、好きです」
「のぞみさんも同じだと思います。はねさんが作るから嬉しいんですよ、きっと」
そんなものですかね、と気のない風に言って、はねさんは再び包丁を握ります。けれど、その横顔にはささやかな微笑みがありました。
当ののぞみさんはなにをしているのかと辺りを見回すと、例のグライダーで夕暮れの空をふわふわと飛んでいる姿を見つけました。あんな機械があれば車なんていらない気もしますが、どうしてシルヴァーゴーストを持っているんでしょうか。修理ができないということにも、どこか引っかかりを覚えます。
――ちいさな違和感が、だんだんとわたしの中で降り積もりつつありました。
「ごちそうさまでした」
食事を終えると、わたしはテーブルの上にぺたりと頬をつけました。ひんやりとした感触が心地よく、徐々に意識が薄れてきます。わたしくらいになると、眠るのに場所や体勢は問わないのです。
「床で寝るのだけはやめてくださいね、ひとを踏む趣味はありませんから」
はねさんは机の上から食器をてきぱきと片付けていきます。飛んでいるのに踏むもなにもないでしょうに、と抗議したいところですが、そんな気力すらいまのわたしには残っていませんでした。
疲労やひどい眠気があるわけではありません。面白いひとたちに会って、珍しい機械を見て、おいしいものを食べて。それだけで今日は十分だと思えてしまって、急に眠りたくなったのです。
「おおっと、めいちゃん。寝るにはまだちょっと早いよ」
意識が途切れる直前に、なにかがわたしの身体を包み込み。
「マスター、墜落には気をつけてくださいね」
「オートパイロットは初めてだけど、めいちゃんは落ちたって大丈夫でしょ。じゃあ行ってくるね! テイクオフ!」
不穏な会話に目を開いたときにはもう、わたしは空中のひととなっていました。
「へ……?」
寝ぼけた頭を動かすと、大垣駅のホームに灯るささやかな明かりが、はるか下方のものになっているのが見えました。地上よりもずっと冷たい風に髪を揺らされて、ようやく目が冴えてきます。
「あの、もしかしてわたしたち、飛んでます?」
「そうだねえ、飛んでるんじゃないかなあ。怖くない?」
こくりと頷いて、わたしは再び眼下の街を見下ろしました。眼下に人家の明かりはなく、ただ黒々と眠る都市が横たわっているだけ……だと思っていたのですが、あちらこちらに光のラインが見て取れます。雨上がりに見る蜘蛛の巣のように、きらきらと光る網目が広がっていました。
「街灯……?」
思わず疑問が言葉になってこぼれていました。発電所は動いていないので、街灯が灯るはずもないのですが。
「はは、やっぱりそう見えちゃうかな。イルミネーションのつもりなんだけどね」
「このあたりには誰も住んでいないんじゃなかったんですか?」
「うん。あたしたちしか住んでないのは確かだよ。だけど、はねちゃんやあたしのためのイルミネーションじゃないんだ、あれは」
のぞみさんの言葉には風化した悲しさのようなものが感じられましたが、それはすぐに崩れて消えてしまいました。
――上空は、地上よりも風がとても強いのです。
脆いものはすぐに崩れてしまいますし、ちいさなものは簡単に見失ってしまいます。
「……めいちゃんが歴史を書く理由、聞いてもいいかな」
グライダーは上昇を終えて滞空姿勢に入りました。あれだけ吹き付けてきた風も、いまはほんの少し弱まったようです。
「伝えたいんです。すくい上げなければ時間の海に沈んでしまうような言葉を、出来事を、誰かのところへ」
ものごとはすべて難破船のようなものです。海上に漂っていて、放っておけばいずれは海の藻屑となってしまう。それを港まで曳航して岸に繋ぐのがわたしの役割だと思っています。
「じゃあ、もしも伝えるひとがいなくなっても、めいちゃんは歴史を書く?」
ふたり揃って似たようなことを聞くんですね、と心の中で呟いて、わたしは答えを探します。
「そうなったらやめるでしょうね。それはもう歴史ではなくて、誰にも向けられない記述になってしまいますから」
そうなってしまったらわたしの歴史書に意味はなくなるのです。わたしは宮廷お抱えの歴史学者のようになるつもりはありません。特定の個人のためではなく、どこかの知らない誰かに向けて書くから、わたしの歴史には意味があるのです。
「でも、そしたらめいちゃんはこの世界になにを残すの?」
それは、と言い掛けて、言葉が続かなくなってしまいます。自分自身がなにかを残すなんて、最初から意識の埒外にあったのです。
「あたしはなにか残さないと怖くてたまらないんだ。ここで生きていることが、どんどん嘘になっていっちゃう気がしてさ」
「……でも、受け取るひとのいない世界に、なにかを残す意味はあるんでしょうか?」
「それはあたしにもわからない。だけど、残ったものには意味があると思うんだ。あたしがいなくなっても、作ったものはあたしそのものとして生き続けるから」
――きっと、のぞみさんは芸術家なのでしょう。
彼女は被造物に自分を託し、わたしは記録にすべてを託す。そう考えてみると、わたしたちの間にそれほど大きな差はないのかもしれません。
「あの、だったら、どうしてはねさんに名前をつけないんですか」
触れ合う身体が、少しだけ強張ったのをわたしは見逃しませんでした。
「のぞみさんが残したいのは、はねさんなんでしょう?」
散らばる違和感を繋ぐ糸があるとすれば、これしかないはずです。しかし、のぞみさんの態度はいやにあっさりしたものでした。
「いや、違うよ。わたしが残すものは他にあるんだ。それに……名前をつけたら、あの子はあたしの持ち物になっちゃうでしょ?」
やがて、グライダーはゆったりと旋回しながら下降をはじめました。くるくるとうねるように、大垣の町並みが近づいてきます。
「けれど、はねさんは……」
「あの子が望んだとしても、ダメなんだ。名前は自分を支える柱になるけど、縛る鎖にもなる。それをあたしから与えるわけにはいかないよ」
わたしが返す言葉もなく押し黙ると、のぞみさんはおどけて笑いました。
「なーんてね。真面目な話は眠たくて仕方ないや。さっさと降りて眠ろうか」
「あ、まだ話が……わわっ!」
強い風が下から吹き付けてきて、わたしは思わず口を閉ざしました。見れば地上が隕石のように近づいて、というよりわたしたちが隕石になっているではありませんか!
「のぞみさんっ! これ落ちてませんか!?」
「落ちるのも降りるのもあんまり違わないと思うなあ」
「違いますってばああ!」
高いところにだけは気をつけようと誓いつつ、わたしはのぞみさんと共に落ちていくのでした。