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ひとの歴史書 ―銀の亡霊―  作者: 辰野さとる
銀の亡霊(前)
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1-3

 ポリタンクをひとつ抱えて愛車のところまで歩いて戻ると、はねさんが感嘆の声を上げました。

 「わあ……」

 はねさんはチンクの周りをぱたぱた飛んで回ります。これくらい楽しそうに見入ってもらえると、わたしも鼻が高いものです。

 さて、はねさんには見学を楽しんでおいてもらうとして、わたしはいつものようにフロントフードを開きました。ここが申し訳程度のトランクであり、燃料タンクが入っている場所でもあります。ここからしかガソリンが入れられないのは面倒ですが、手がかかる子ほど可愛いものですよね。

 もらってきたガソリンはきれいなオレンジ色に着色されていました。もともと灯油と区別するために着色が義務付けられていたそうですが、いまさら法律もなにもないのですから、これは単にガソリン屋さんのこだわりなのでしょう。

 「しるすさん、この車っていつのものなんですか?」

 「これは1970年式のNUOVA500Lです。二代目チンクエチェントのうちでも終盤に近く……」

 はねさんはわたしの講釈をそっくりそのまま受け流して、空色の車体をやさしく撫でました。

 「500年も乗ってもらえる車は幸せですね」

 「まあ、中身はもうほとんど別のものですけど」

 「それはいいんですよ。機械にとって大事なものって、やっぱり見た目ですから。人間だってそうじゃありませんか? どれだけ心が変わっても、顔を見ればそのひとだとわかるはずです」

 はねさんは明らかに機械の視点から語っていましたが、やっぱりそういう区別は好きじゃありません。

 けれど、それはさっきも言いました。そして、ヒューマノイドはなにかを忘れるということがありません。ですから、はねさんには人間とヒューマノイドを分かつだけの信念があるのでしょう。ならばわたしに言えることはありません。

 「準備できましたよ。助手席にどうぞ、はねさん」

 わたしは助手席のドアを開き、深々と礼をしました。はねさんが乗り込むと静かにドアを閉め、いつものように運転席へ乗り込みます。

 ちいさな車ですから居住空間はかなり手狭になっています。しかし、わたしもはねさんも体格がちいさいので、この車はまだ大きいくらいです。隣のはねさんはシートにすっぽりと収まり、足が床に届いていません。

 わたしは気づかれないようにくすりと笑い、エンジンを始動させました。

 走り始めてすぐ、ガソリンのすばらしさが身に染みます。ノッキングのノの字もないのです。変な音や揺れはなく、チンクはすいすいと走っていきます。

 わたしがチンクに積んだのはハイオク仕様のエンジンなのですが、これまでは古いレギュラーガソリンしか手に入りませんでした。そのせいでノッキングをはじめ不調も多かったのですが……おそらく貰ったガソリンはかなりオクタン価が高いのでしょう。

 ざっくり言ってしまえば、ガソリンが車にとても馴染んでいるのです。

 「この車にはいつまで乗るつもりですか?」

 「長い付き合いですからね。いまさら乗り換える気もありませんし、死ぬまでは乗ると思いますよ」

 「不躾なことを聞きますが、しるすさんはあと……」

 「そんなに気にすることありませんよ。まだ四年とちょっとは残ってますから」

 べつに、不治の病にかかっているわけではありません。それが『彼ら』から与えられた等しく絶対的な寿命なのです。

――わたしたちに与えられた時間は十八年。

 平均寿命が三桁に乗りそうだったころから比べれば著しく短く感じられますが、体感時間という考え方からすれば十分な時間ではないでしょうか。現に悲観しているひとなんて見たことがありません。わたしもまた、例外ではなく。

 「……しるすさんはこれまで、この車を直してきたんですよね」

 「ええ。大切な旅の相棒ですからね」

 「だったら、自分がいなくなる前日になっても車を直しますか?」

 もちろんです、と答えかけてわたしは思いとどまり、そっとはねさんの表情を伺いました。その視線は揺らぐことなく空に向いていて、表情からは喜びも悲しみも汲み取れません。ただ、その姿はいまにも消えてしまいそうなほど儚いものでした。

 ひとつ息を呑んで、わたしは真剣に答えます。

 「たぶん、直すでしょうね。その時になったらしっかりレストアして、新車同様に磨き上げると思います。わたしの後に乗るひとがいてくれたら嬉しいですし」

 「寂しく、ありませんか?」

 「寂しいですけれど、わたしは車ほど長く生きられませんから。仕方のないことだと思います」

 「あなたたちはそれで諦められるかもしれませんけれど、私たちはっ!」

 はねさんは強く声を荒げましたが、次第にその言葉は尻すぼみになっていきます。

 「残される私たちは……どうすればいいんですか」

 サイドウィンドウを通して外の風景を眺めるはねさんの表情は、わたしには見えません。けれど、その背中は泣いているように見えました。

 「マスターはあんなひとですが、私のメンテナンスだけは怠りません。あのひとが私を直すほど、私とあのひとの時間は離れていくんです」

 はねさんは、自分の居場所に悩んでいるのでしょう。

 機械として、明確な線引きをしておくべきだという考えがひとつ。対等なものとして、ずっと隣にいてほしいというのがひとつ。

 立場はともかく、時間の差だけはどうにもなりません。放っておいてもヒューマノイドは20年以上稼動できるように作られています。そのうえ製作者によるこまめなメンテナンスが行われているのであれば、チンクのように長い時間を生きることも可能でしょう。

 「……すみません、へんなことを言ってしまって」

 「いえ、悩んでいる時は言葉にしてしまった方がいいですよ。人間もヒューマノイドも同じです」

 堂々巡りの情報は、溜め込むほど正常な思考を妨げます。そういうときはとりあえず言葉にして、簡潔にまとめてしまった方がいいのです。

 それで解決できるかどうかは、またべつの話ですが。


 駅前のロータリーでチンクから降りると、目の前に銀色の車が停まっているのを見つけました。

 ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト。正面に並ぶヘッドライトは丸っこくて可愛らしい目のように見えます。古い車らしくタイヤが車体から突き出していて、泥除け(フェンダー)の曲線がとても印象的です。そして、ノーズにはロールス・ロイスを象徴する、翼を広げた精霊のスピリット・オブ・エクスタシーが取り付けられていました。

 ううん、と思わずうなり声が出てしまうくらいに貫禄のある車です。あの車に釣り合うだけの貫禄があるひとはなかなかいないでしょう。

 と言ったそばから、貫禄とはあまり縁のなさそうな人がシルヴァーゴーストの窓から顔を出します。

 「やあ、おかえりめいちゃん」

 跳ねるように車から降りてきたのぞみさんは、相変わらず甚平にデニムの短パンという姿。どうやっても英国紳士には近づけそうにありません。

 「シルヴァーゴースト、やっぱりいい車ですね。エコールで資料は頭に入れましたけど、実物を見るとまた違うものです」

 「マスターにはとても釣り合いません」

 はねさんの辛辣な言葉に、のぞみさんは照れたように笑いました。

 「あはは、確かにね。この車にはもっと落ち着いたひとの方が似合うよ。だからたまにしか乗ってないんだ」

 じゃあどうしてこんな車を持ってきたんですか、と問いただしたいところですが、まずは修理です。

 「さて、それでは失礼して」

 ノーズの横腹を開いてエンジンを確認してみましたが、思ったより傷みはありませんでした。中に入っていたのも普通のV6エンジンで、点検・修理に困ることはなさそうです。

 「これならそう時間はかかりませんよ」

 と、振り向いたときにはもう、のぞみさんはチンクの後部座席に乗り込んでいました。

 運手席に乗らない理由は見ればわかります。最初にあれが目に付いたのでしょう。

 「ずいぶん長く旅してきたんだね……」

 「ええ、知らないうちにこんな量になってしまいました」

 のぞみさんが手に取っているのは、わたしが歴史を書き記している羊皮紙でした。

 紙媒体の記録、しかも羊皮紙などというものはとうの昔に一線を退いていましたが、耐久性の高さや取り回しにおいて、いまだ羊皮紙を越える素材はないように思います。状況によっては千年も残ってしまいますからね。

 「電磁記録ではいけないんですか」

 はねさんは不満そうに首をかしげて羊皮紙の山を眺めています。私の記憶の信頼性は紙きれなんかよりも高いですよ、と言いたげに。

 「歴史は誰かの手によって記されなくちゃいけないんです。その筆跡や記されたものまで含めて、歴史ですから」

 そんなものですか、と納得のいかない表情で羊皮紙を手に取るはねさんに対し、のぞみさんは期待に目を輝かせて歴史書を読み進めていました。

 「のぞみさんたちはあまり旅をしないんですか?」

 「最近はどこにも行ってないなあ。昔はよくはねちゃんとシルヴァーゴーストに乗って出かけたよ」

 「なにを寝ぼけたこと言ってるんですか。私はマスターとあの車に乗ったことなんてありませんよ」

 「ん、あー、そうだったっけ」

 ちいさな記憶のすれ違い、と言うにはどこかおかしすぎる気がします。ヒューマノイドの記憶違いなんて聞いたことがありませんから、はねさんの言うことはきっと正しいはずですが、のぞみさんの言葉がまるきり勘違いにも思えないのです。

 とりあえず、保留にしておきましょうか。先延ばしは得意中の得意です。

 「旅はいいものですよ。これは師匠の受け売りなんですが、知識はエコールで手に入りますけど、旅をしないとひとには会えませんからね」

 そんなことを言いながら、あのひとはどこか海の果てまで行ってしまいました。

 「あたしもいつかは旅に出たいなあ……」

 「すぐ旅に出てもいいじゃないですか。なにかこの街ですることがあるんですか?」

 まあね、と曖昧につぶやいて、のぞみさんは遠くの山際へ視線を移しました。太陽は沈みきっていて、西の空には残り火のような赤さが残っているだけです。

 わたしたちが眠る必要はなくなりましたが、今日も地球はとりもなおさず眠るのです。

 「そろそろ暗くなってきたし、中に戻ろうか。食事の用意もするから、一緒に食べよ。車はまた明日でいいよ」

 「あ、はい。それじゃあいただきます」

 「用意するのは私ですけどね」

 愚痴をもらしながらも、はねさんは自分からのぞみさんの肩に乗ります。

 「それなら手伝おっか?」

 「いいです! またフライパンに機械油を撒かれてはかないません!」

 「えー、機械油の代わりにサラダ油を切削に使うこともあるし、たぶん大丈夫だよ」

 「そういえばサラダ油で走る車というのもあったらしいですし……もしかして?」

 「逆がいつも成立すると思ったら大間違いです! あなた方には料理というより食べ物の根本を叩き込む必要がありますね!」

 叱りつつもはねさんの顔つきは穏やかで、叱られるわたしたちも悪びれることなく笑っていました。


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