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ひとの歴史書 ―銀の亡霊―  作者: 辰野さとる
銀の亡霊(後)
31/32

3-5

 のぞみさんは、それからややもせず席に座りなおしました。金崎さんが記憶彫像メモリスタチューになっていたとはいえ、大切なひとを再び喪ったにも関わらず、のぞみさんの態度は飄々としていました。全てを当然のものとして受け止め、心を揺らさずに生きる英雄のように。

 「こんなに簡単なお別れでよかったんですか?」

 本当ならのぞみさんの言葉を待つべきところですが、わたしはどうしてもその態度が気になって声をかけてしまいました。ほんの少しだけ、不安だったのです。大切なひととのふたたびの別れが、のぞみさんを変えてしまったのではないかと。

 けれど、そんなものは甚だ勝手なわたしの杞憂で。

 「お別れはあんなもんでいいんだよ。気持ちがすうっとあの一瞬に集まって、弾けるんだ。引き伸ばして気持ちを薄めてしまうよりも、ひとときに全部詰め込むほうがあたしたちの性に合ってる」

 別れは誰もが経験するものですが、数をこなしたからと言って上達するものではありません。

 ここ半年近く旅を続けてきたわたしですが、のぞみさんほど明確な別れの美学のようなものは持ち合わせていませんでした。名残惜しければその場に留まり、早朝に出発するつもりが日暮れまで居座ってしまったこともあります。そうやってずるずると引きずって、けれど結局は後ろ髪を引かれながら次の土地へ向かう、といったことが日常茶飯事なのです。

 長引きすぎた別れは意味を薄れさせていき、ただ喪失感だけを膨らませていくということは、よくわかっているのですが。

 「それに、ほのかさんとはもう別れてるんだよ。伝え残したことがたくさんあっても、やっぱり、三ヶ月前のあの日がわたしたちとあのひとの別れの日だった」

 のぞみさんは残ったお茶を飲み干すと、ティーポットからおかわりを注ぎました。

 「だから、いまは隣に生きているひとのことを考えないとね」

 歌うように朗々たる声で、のぞみさんは祈りの言葉を唱えました。

 「きみが世界を愛するように、世界がきみを愛していますように」

 言葉が終わるや否や、わたしの腕の中のはねさんが気だるそうにみじろぎしました。

 「おはよう、はねちゃん」

 「……私、寝ていましたか?」

 ほんの二時間ほどですけれど、と答えて、わたしははねさんを向かいの椅子に移してあげました。先ほどまで金崎さんが座っていた、その場所に。

 はねさんはとても小柄なので、こうして人間用の椅子に座るとテーブルの上には肩口くらいまでしか出てきません。体格だけ見れば、三歳くらいの子供が頑張って大人の真似をしているようで、なんともいじらしいものです。

 けれど、鋭く刺すようなその視線は、決して幼い子供のものではありません。

 「いくつか、聞いても?」

 のぞみさんはそんな視線を身に受けながらも、動じることなく頷きました。金崎さんが願ったとおりに、もうのぞみさんは隠し事をやめたのでしょう。それに、こうして不自然な空白の時間があったことで、はねさんも何かに感づいてしまったようでした。

 「あなたはどうして、私に庭を作り直させたんですか。私がこの庭を知っていて、しかも植えるべき花が全て近場にあった理由もわかりません。金鶏菊やドクダミのように枯れにくい花は別として、ルリマツリは冬越しがそれほど容易な種ではありません。なにより、この長浜は雪が降りますし、寒さに弱いルリマツリが手入れもなく残る保障なんてないはずです」

 「あのひとが――金崎ほのかさんが、庭を鍵にしたんだよ。どうしてもあのひとの言葉が必要になったら、庭を元に戻せってね。はねちゃんに花壇を作らせて記憶を残しておいたのも、鍵として機能させるため。あれから冬越しこそなかったけど、コーニッシュの運転席にはほのかさんが作った『はね』がひとつ入ってて、花壇に必要な花を維持してたんだ。いつか来るはずだった、この日のために」

 「では、金崎ほのか……そのひとが私の管理者(アドミニストレータ)、なんですね」

 「うん。はねちゃんの記憶の中にある『マスター』は、だいたいほのかさんのことだよ」

 そうですか、そうなんですね、とうわ言のように呟きながら、はねさんは背もたれに深く身を預け、空を仰ぎました。

 「その金崎さんは、もういないんですね」

 「……うん」

 「私は本当のあなたのことも、ほとんど知らないんですね」

 「……そうだね」

 はねさんは既に、事の顛末をほとんど理解しているようでした。問いかけるというよりは、自ら確認するように、ぽつぽつとこぼれていく彼女の言葉に、のぞみさんは肯定の言葉だけを返します。

 やがてはねさんの言葉が途切れると、のぞみさんは無理のある笑顔ではねさんに笑いかけました。おどけてみせないと、決壊してしまいそうな心を隠すように。

 「ずっと嘘ついてたこと、怒ってる?」

 「怒るなんてことは、ありません。ただ、すこし悲しくて」

 出会ってからずっと、半ば徹底的なほどのぞみさんに感情を見せなかったはねさんが、ここで初めてあらわにした感情は、空しさにも似た悲しみでした。

 「謝って許されることじゃないと思うけど、本当に……」

 「いえ、違うんです。私の境遇は少しも悲しくありませんよ。あなたと金崎さんに守られて、こんなにも幸福に暮らしてきたんですから」

 「でも、あたしが記憶を奪ったことには変わりない。はねちゃんはずっと、ほのかさんの記憶を被った偽物のあたしと暮らしてたんだよ?」

 「そんなこと、なんの問題もありませんよ。あなたが誰だったとしても、こうして隣にいることは嘘になりませんから」

 よいしょ、とはねさんは椅子の上で立ち上がって、ぱたぱたと浮かび上がります。わたしたちが呆気にとられている間に、彼女はのぞみさんの腕の中へ飛び込みました。まるでそこが定められたクレイドルであるかのように、はねさんはすっぽりと腕の中へ収まりました。

 「一番悲しいのはあなたですよ。ひとりだけで本当のことを抱え込んで、ひとりだけ嘘をつかなくてはいけなくて。あなたにこんな思いをさせたマスターには、なにか文句を言ってやりたいくらいです」

 「でも、騙されてたのははねちゃんの方なんだよ? 怒ったって、当然なのに」

 「嘘をつかれるよりも、嘘をつく方がよっぽどつらいんですよ。知らないことは幸福ですけれど、知っているひとがその分だけ不幸になるんですから」

 はねさんはそのちいさな腕をのぞみさんの背中に回して、精一杯の力で彼女を抱きしめました。

 「幸せを分け合いたいなんて、都合のいいことは言いません。ただ、不幸せをひとりで抱え込まないでください。せっかく隣にいるんですから、荷物のひとつも持たせてくれればいいんです」

 「なんだよもう……なんなんだよ。みんなして、そう簡単にひとを許しちゃだめだろ」

 そんなことを言いながらも、のぞみさんは眼を閉じて、ぎゅっとはねさんを抱きとめました。

 「……でも、ありがとう」

 「こちらこそ、今まで本当に、ありがとうございました。マスター」

 はねさんの言葉はきっと、彼女の記憶の中にある金崎さんと、その記憶を継いだのぞみさんに向けられたものなのでしょう。はねさんの中の英雄であり管理者であった金崎火花はいなくなり、そして金崎さんを装って生きてきたのぞみさんも、もういません。

 「そして、これからもよろしくお願いします。のぞみさん」

 亡霊たちは消え去り、ここにはただ、生きたひとびとだけが残されたのです。


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