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ひとの歴史書 ―銀の亡霊―  作者: 辰野さとる
死せる英雄と、生ける亡霊
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2-1

 死せる英雄と、生ける亡霊



 あのころのあたしは、幽霊になりたいと心から願っていた。

 死にたいわけでも、生きたいわけでもなく。ただ、ずっと変わらないまま、ぼんやりと浮かんでいたかったんだ。

 時間っていうのは、土から身体に染み込んでくる。

 土に触れているものはなにもかも時間の流れに逆らえずに、少しずつ滅びていく。埋めたものはすぐに朽ちるし、土の上で暮らす人間は滅びを免れない。幸福が約束されたこの世界にあって、身体は永遠を手に入れたように見えても、心はやっぱり老いていく。

 でも、若年寄なんて願い下げ。だから、あたしは浮いていたかったんだ。

 土から離れている間は、あらゆるものの時間が止まってくれるような気がしたから。

――『彼ら』の到来から、もう二週間近くが経とうとしていた。

 数日間は混乱に包まれたひとびとも、これだけ時間が経てば勝手がわかってくる。エコールにへばりつくようにして無為に生きるひと、ふらふらと山へ分け入って戻らないひと、そして長い旅に赴くひと。

 あたしは旅立つほどの気力もなく、かと言ってエコールの周りで身を寄せ合って暮らすのも嫌で、結局もともと住んでいた大垣の街に身を落ち着けたんだ。

 実家はあったけれど、誰もいない家にひとりで帰るのもなんだか馬鹿馬鹿しくて、あたしは大垣市内の各地を転々とした。『はね』があるから寝床なんて気にする必要はない。コンクリートだろうと芝生だろうと、最高級の羽毛布団みたいな寝心地だった。

 やがて、あたしは高いところで暮らしはじめた。

 最初は平屋建ての家の屋根。そこから二階三階と高くなっていき、気づけば高層ビルの屋上。電気の流れなくなった高圧鉄塔のてっぺんで眠ったこともあった。

 そして、その翌朝は決まってそこから飛び降りるんだ。落ちるんじゃなくて、飛んで降りる。ささやかな浮遊感と、すさまじい疾走感に包まれて、あたしの身体は地面を目指して一直線。衝突の数秒前になって身体は急に減速し、砂に沈むような速度で地面に落ちる。

 最後の感覚の不気味さといったらないけれど、少なくとも降り始めの感覚は何度味わっても飽きなかった。

 もっと長く浮かんでいたい。いつまでも土を忘れていたい。そうやって理想を求め続けていたあたしのもとに、一羽の鳥が訪れたんだ。

――空を自在に駆け巡り、どこまでも飛び続けられる英雄が。

 その日、あたしは大垣市内でも一番高い合同庁舎ビルの屋上から飛び降りた。18階建て、地上70メートル余りのビルからの降りるのは、なかなかに心地よい経験だったけれど、地面に触れた時の喪失感も同じくらいに大きかった。

 変な薬なんて飲んだことはないけれど、バッドトリップっていうのはああいうものなのかもしれない。なにひとつ失くしていないのに、身体に見えない無数の穴が開いて、なにかが流れ出していくような感覚。

 高いところから降りたときには往々にしてそういう状態になる。あたしはいつも無力と虚無に打ちひしがれながら、大の字になって空をぼんやり見上げるんだ。

 「今日も飛べないかい?」

 空が、語りかけてきたのかと思った。

 慌てて身を起こしたあたしの前に立っていたのは、小柄な少女だった。黒の紋付袴羽織に、手には大きな扇子を閉じて。身長はあたしよりもずっと低いけれど、顔つきや視線の鋭さにはかなり大人びた……というよりも老練なものさえ感じた。漆塗りの器のように深みがある黒髪は、一本結びにまとめられている。

 『彼ら』の来訪後からエキセントリックな格好の子はよく見るようになったけれど、あたしもここまで派手なひとを見るのは初めてだった。当のあたしはと言えば、なんの尖りもないワンピース姿。いまみたいな格好をするようになったのは、完全に彼女の影響だ。

 「別に、飛びたいと思ってるわけじゃないです」

 「なら、死にたいのかい? こんな世界になったんだから、したくてもできないことなんて多くはないだろ?」

 死、という言葉の重さなんて気にも留めずに、彼女は開いた扇子をひらひらと舞わせていた。

 「……その発想、短絡的すぎますよ」

 「物事はシンプルな方が好きだよ。正しければぴたりとはまるし、間違っていれば見事にズレる。わかりやすくていいじゃないか」

 さて、と彼女は扇子を閉じ、あたしに手を差し伸べた。

 「落ちたいか飛びたいかは知らないが、僕にはどこよりも高い場所を提供する用意がある。一緒に来るかい?」

 あたしには、頷く以外の選択肢が用意されていなかった。あたしは多分、彼女の言葉や振る舞いに一種の親近感を覚えていた……いや、引き出されていたんだ。

 英雄の真骨頂は、その人となりの鮮烈さにある。言葉を交わし、視線を繋げば全てが決まる。最高の味方となるか、最悪の敵となるか、ふたつにひとつ。英雄にとって、物事は常にシンプルなものなんだ。曖昧にぼやけた世界の境界線を、彼らは思うがままに叩き斬る。

――そして、あたしは英雄の手を取った。

 「僕は金崎ほのか。火花と書いて、ほのかだよ。君は?」

 「のぞみです。希望の希に、観覧車の観で、のぞみ。名字は捨てました。ない方が身軽になれるかと思って」

 「間違いないね。人間の持ち物の中でも、名前は最も重い。半分も捨てれば浮かびやすくもなるだろうさ」

 ほのかさんはあたしを引き起こすと、閉じた扇子で天を指した。神に宣戦するような傲岸不遜を恥じることもなく、堂々と。

 「だがね、捨てることは得ることじゃない。捨て続けても重さはゼロにたどり着かないんだよ」

 扇子の周りでほのかさんの『はね』が舞い遊び、花を見つけた蝶のように、ふわりと扇子の先端へと止まる。

 「飛ぶために必要なものはふたつだけ。僕たちに味方してくれる風と、それを受けるつばさだ」

 「でも、提供してくれるのは高い場所だけなんですね」

 「それはそうさ。僕は鳥でもないし、風を操る魔法使いってわけでもないからね」

 それに、と呟いて、ほのかさんは近くに停めてあった車に歩み寄った。その時はまだシルヴァーゴーストのことを知らなかったから、あたしはただその古びた車が物珍しくて、ドアが開き、エンジンが掛かる、その一挙一動に見入っていた。

 「風もつばさも、借り物じゃいけないよ」

 そのときのあたしはシルヴァーゴーストのことに驚くばかりで、ほのかさんが発した言葉の力強さに気づくこともなく、その理由も考えることもなかった。

――今日このときまで、あの言葉はあたしの胸の奥底にわだかまっている。


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