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ひとの歴史書 ―銀の亡霊―  作者: 辰野さとる
銀の亡霊(前)
12/32

1-11

 朝日が車に追いつくころ、天を衝くような長浜のエコールの威容が視界に入りました。

 金属質の白い輝きを放つエコールの塔は、真下から見上げれば首が痛くなってしまいそうなほど高く、先細った剣のような外観は見るひとに少なからず威圧感を覚えさせます。

 「あれが、エコール……」

 はねさんの嘆息に合わせて、わたしは車を交差点で止めました。信号機はとうに機能していませんが、ちゃんと停止線を守ってみます。

 「エコールを見るのははじめてなんですか?」

 「ええ。大垣の街からは一度も出たことがありませんから。マスターは岐阜に連れて行ってくれませんし」

 拗ねたように言って、はねさんは頭の後ろでのぞみさんを小突きます。

 「はねちゃんがグライダーに乗りたがらないんじゃない」

 「あんないつ落ちるかわからない乗り物になんて乗れません! この前だって……」

 ぶつぶつと愚痴をこぼすはねさんを適当にあしらいながらも、のぞみさんはどこか上の空といった様子でした。エコールの方をぼんやりと眺めながら、時たま消え入りそうなため息をついています。わたしは車を再び走らせはじめつつも、彼女たちの様子が気になってなりません。

 のぞみさんがこういう物憂げな表情を見せるのは、決まってはねさんの目が届かない場所にいる時です。きっとそれは、のぞみさんの演技の途切れ目のようなもので、その時だけはほのかさんの幻影に包まれずにのぞみさんの姿が見えるような気がしました。

 しばらくすると車は橋の下をくぐり、ふっと車の中が暗くなります。道路標示は見かけませんでしたから自信はありませんが、きっと新琵琶湖大橋でしょう。長浜市から高島市まで琵琶湖をまっぷたつに断ち切る新琵琶湖大橋は、完成からまだ十年も経ちません。単一の橋としては日本で最長であり、在りし日は滋賀県の新たな観光名所として大いに賑わっていましたが、もはやアリの行列のような渋滞は影も形もありません。

 ふっ、と。はねさんの声が中途半端に途切れて、車内には水を打ったような静寂が広がりました。助手席の方へ目をやらずとも、はねさんの表情は見えてしまいます。フロントウィンドウに写る彼女の視線は、またわたしと同じように正面へ向けられていました。窓に映る、のぞみさんの表情へと。

 「マスター、視界が暗いです」

 「当たり前だよ、橋の下だし、電気なんて通ってないし」

 「そうではなくて……どうして暗さを無視できるように作ってくれなかったんですか。分解能だけ変に高いくせに、いまなんて暗順応が追いつかずに視力が落ちています」

 「人間の目って、そういうものでしょ?」

 のぞみさんは目を閉じて、優しくはねさんの髪を梳かします。

 「カメラの進歩は本当にすごいんだ。解像度はとうの昔に人間の目に届いてるんだよ。何百万dpiとか。だけど、カメラにはいつも同じ景色しか見えない。同じ設定、同じ角度で、同じ時間にものを見れば、いつだって同じように見えるんだ。見たときの気持ちなんてひとかけらも介在しない。でもさ、それってすごく寂しいと思わない? 今日も、明日も、明後日も、ずっと同じようにしか見えないなんて、悲劇だよ」

 「……機械には人間のような不安定さはいりません」

 はねさんは冷たく言い切って、しかし少し悔いるような顔をして窓の外へと視線を逸らしました。

 「ところで、もう琵琶湖にぶつかってしまいましたけれど、これからどうするつもりなんです?」

 普段から声の調子を変えず、ヒューマノイドをして『機械っぽい』と言わしむるこのわたしが、努めて明るい雰囲気でしゃべろうとしてしまいます。それくらいに、いまの二人の辛気臭い様子は見ていられないのです。

 「ええと、次の交差点を右ね。ちょっと山の方へ入るけど、大丈夫?」

 「あんな山が登れないほど非力な車じゃないですよ」

 行く手にある山は丘と言ったほうが相応しいくらいになだらかで、道もしっかりと整備されている様子です。倒木や崖崩れの不安はありますが、これほど街に近い山ならば整備もしっかりしているでしょう。

 「でも、山の上なんかになにがあるんですか。のどかにハイキングなんて言いませんよね?」

 「言わない言わない。あの山にはあたしたちの別荘があるんだよ」

 あたしたち、という言葉の指すところはもう問いただすまでもありません。はねさんも状況が少しずつわかってきたのか、もう疑問を表情に出すことすらなくなりました。ただ、彼女は覚悟を決めるように深呼吸をして、のぞみさんの甚平のすそを強く握り締めていました。


 その建物の外観は伝統的なログハウスといった雰囲気で、確かに別荘というに相応しい佇まいでした。しかし、どこにも破損や劣化が目立たないのにも関わらず、どこか生きた気配と言うものを完全に失っています。モノとしては生きているのに、建物としては死んでいる。言わばなりそこねの廃虚といったところです。

 別荘の前にはちいさな庭があって、色とりどりの花々が自由に咲き乱れ、その中心では一台の車が草とツタに埋もれていました。

――ロールス・ロイス・コーニッシュ

 一時期はクラシックカーとして世界的な人気を誇った、ロールス・ロイスの名車です。その名はニースとモナコを繋ぐ海岸線を走る道路から取られたもので、同音ですがコーンウォール地方(コーニッシュ)とはなんの関係もありません。イギリス車のくせに。

 フロントノーズが長く、見た目は正統派のリムジンですが、なんと前後の間仕切りがありません。頭にサーの付くようなイギリス紳士が、愛馬よろしくこの車を自ら駆り、海岸線を走り抜けていく。そんなイメージで作られた車なのでしょう、きっと。爽やかなスカイブルーの車体もそんな想像を膨らませます。

 しかし悲しいかな、その名車もいまは緑に包まれ、もはや乗り込むことすらままなりません。

 『彼ら』の到来以降、植物の成長は異常にはやくなっていますから、明確にこの車が放置されてきた時間を断じることはできませんが、それでも車体の錆び付きからは二年や三年のものではない、永い時の重みが感じられます。

 車を停めてすぐ、のぞみさんは軽々と、いつもの調子で口を開きました。

 「ここの庭、しばらく手を入れてないから荒れ放題なんだよね。はねちゃん、頼まれてくれる?」

 「構いませんけれど、どうしたいんですか? 道具だって持ってきていませんし……」

 「大丈夫、好きにすればいいよ。はねちゃんにはわかるはずだから」

 そんな無責任なことを言って、のぞみさんはドアを開いてはねさんから手を離します。具体性のない命令に不満そうな表情を浮かべつつも、はねさんはそれ以上なにも聞かずに庭の方へと飛んでいきました。

 「……それで、わたしの役割は運転手だけですか」

 「まあ、そうなるね。不満かな?」

 「べつにいいですけれど、仕事は勤めたわけですし、報酬をもらう権利くらいはあると思うんです」

 「あー、シルヴァーゴーストの運転だけじゃだめ?」

 車好きとしては率直に言って十分すぎるほどのご褒美でしたが、今回はそういうわけにいかないのです。お仕事に関わることですから。

 「ここまで来たんですから、少しくらい昔話を聞かせてくれたっていいでしょう。あなたたちのことはぜひ歴史書に書きたいと思っているんです」

 「歴史書、ねえ。あたしたちのことなんて書いたってつまらないよ。普通の人間の、普通の話さ」

 「普通のひとを記さなくてなにが歴史ですか。わたしは誇張と誤謬で満ち溢れた偉人の歴史なんてものはまっぴらなんです。こうして目の前にいて、そばに感じられるあなたたちのことだから、書きたいんですよ」

――黄金の国ジパングには夢があるでしょう。ヘロドトスの記述にあるエジプトはさぞ豊かに見えることでしょう。

 しかし、現実は拍子抜けするほど単純で、道端の石ころのようにきらめかないものなのです。手の届かない黄金を書き散らすよりも、石ころをできる限り精密に描くほうが、わたしの性に合っています。

 「……めいちゃんは、なんていうか、自分の仕事にすごく忠実だよね」

 「あなただって、自分の役割を忠実に果たしているじゃないですか」

 「違うんだ。あたしはもらった役割をすこしも果たしてなんかいない。ただのひとつも約束を守れてなんかいないんだよ」

 初夏の風がどこか遠くから車の中へ吹き寄せて、華やいだ香りを届けてきます。昨日の雨を最後に、梅雨はどこかへ行ってしまったようです。コーニッシュの車体のような青空に、むくむくと夏雲が膨らんでいました。


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