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LLL.

作者: 小楢




 この罰は、私にとって慰めなのだ。





 赤い糸を切ったのは、私だ。

 戸惑う君を無視して鋏で糸を切ったのは、私だ。

 バイバイと言って君に背を向けたのは、私だ。

 君の心に刻まれた傷は、すべて私が残したもの。

 悪いのは私なのだ。だからお願い、私を憎んで。嫌いになって。でも二人の思い出は、そっとしまっておいて。思い出さなくていい。ただそっと、心の棚に並べて置くだけでいいから。


 わがままだとは思う。だけれど私はそうしなければならなかった。私は私の望みのために、最愛の君を傷つけた。最悪な女だと思う。あれだけ勝手なことを言って、君の心をぐさぐさにした。だからもう会うことはないだろうね。

 会えないし、会いたくなんかない。



 もう一度、会って話したい。


 君からのメールが届いたときに、驚きを隠せなかった。もう連絡もないのだからと、メールアドレスを変えていなかったからこんなことになったのだ。私は震える指先で携帯電話を操作して、メールアドレスを変えた。メールが届かなくなったから、君は私に電話をかけてきた。何件も何件も。君からの着信の音楽は、ジムノペディ第一番。君が愛したメロディが、私の心を揺らす。その音色の聞きたさに、私は君の携帯電話の番号を着信拒否に設定することをためらった。けれど電話には出なかった。

 しばらくすると、ジムノペディ第一番を聞くことはなくなった。

 諦めた。諦めてくれた。ありがとう。


 そうだ、それでいいよ。

 君は私の隣にいてはいけない。


 君はきっと悲しむだろうから。

 私があと、数ヶ月しか生きられないと知ったら。

 今の私の姿を見たら。


 私の遺体を見たら、君はきっと泣いてくれる。

 だから優しい君は、私の側にいては駄目。

 私は病室の寝台で一人ひっそりと、終わりを迎える。いいじゃない、お似合いよ。


 この病気は、私への罰だ。今までたくさんの人を傷つけていたのに、気づかぬふりをした私への罰だ。だから私はこの病を受け入れよう。


 君にはたくさんありがとうと言わなければいけない。だけどそれよりも多くの回数、ごめんなさいと言わなくてはいけない。

 私は傷つきたくない。怖い思いをしたくない。だから心をトゲで守るのだ。誰にも私の心を壊されないように。

 私の心に触れた人は、必然的に傷つくの――そう、君のように。


 ごめんね。たくさん傷つけて。

 この青空を君も見ている、そう信じて呟く。病室から見た空は、とてもキレイよ。



 体が動かなくなった。目はかろうじて動いていた。よかった。まだ私は世界を見ることができる。私は一日中、空を見てすごした。まあ空しか見えなかったというのが正しいのだけれど。空の表情をずっと見ていた。空が好きだった君は、もしかしたら空を見上げているかもしれない。君もこの美しい空を見ている? 君はこの悲しいほどに澄んだ青空を見て、何と思っているのかな。


 ごめんね。ごめんね。


 そうずっと呟いていた。空を見ているかもしれない君に、伝わるんじゃないかなと思ったの。

 側にいるお母さんは私が気がふれたと思ったのか、泣いていた。私はお母さんにも、ごめんね、と呟いた。こんな娘でごめんなさい。生まれてしまってごめんね。そう思いながらもお母さん、私は今まで死ねなかった。大好きな人と会ってしまって、死ねなかった。けれど私はもうすぐ、死ぬから許して。もう長くない、そうでしょう? わかっているの。


 いつかきっと、君に謝ることさえできなくなる日がくる。私の体の中の悪魔は、少しずつ私の体の自由を奪う。その日、私はどうすればいいのだろう。君に謝ることさえ、許されなくなったときに、私はどうするだろう? そんな日は近いうちに、私のもとに訪れる。



 空を眺めていると、一日のうちに何度か、涙を流せるほどに美しい景色が見える。それが私が空が好きな理由。君も同じ理由で空を好きだと言ったね。嬉しかった。

 ねえ、今の私は違うの。美しい空を見ているあいだは、きっとどんな恥ずかしい言葉だって言えるのよ。昔は君の前でなんて言えなかったかれど、今ならきっと言えるよ。




 大好きだよ、とか。

 抱き締めて、とか。

 ずっと一緒、とか。

 キスをして、とか。



 誰も聞けないから、今なら言えるの。

 君に言えなかった大好きの思いをたくさん言えるだろうな――もう私の声はだいぶ前に消えてしまったけれど。


 一つ、一つ消えていく。次は何を失くすのだろう。聞こえなくなるのが先か、見えなくなるのが先か。まだ触覚は残っている。嗅覚はだいぶ前に消えた。もう私に残っているものなんて、片手で足りてしまうのだ。


 もう謝ることもできなくなった私は、ひたすらに空を見た。空を見ていたら、伝わるかもしれない。君に伝えられなかったものがすべて、君の心に転がるんじゃないかな。

 空に吸い込まれそうだなあ、と思いながら自分の人生を振り返る。



 きっと私は幸せだった。

 大人にはなれなかったけれど、素敵な一生だった。いいじゃない。だって君に会えたのよ。



 ついに目が見えなくなった。暗闇の世界だ。もう美しい青空も、夕焼けも、朧月も、朝日も、何も見えなかった。目の中の景色しか、私には見えなかった。もう私は新しい世界を知ることができないね。暗闇は私を孤独にする。君の姿を消し去ってしまう。一人は怖い。君の姿を一生懸命に探しても、君は私の瞳の中にいないのだ。



 悪魔は私の体を蝕む。私はただの屍へと近づく。ほら悪魔さん、もう少しよ。



 医師に、この何とも説明しがたい病のことを聞いたときは、怖かった。毎日泣いていた。じわりじわりと自由が消えてゆく。運動ができなくなって走れなくなってしゃがむことができなくなって歩くことができなくなって手に力が入らなくなって――そして今、私は視界を失った。

 しかしゴールラインが見えた今、不思議と恐怖はない。

 ああ、死ぬってこういうことか。きっとそれがわかってしまったから怖さなんてなくなってしまった。何もかも失って、何もなくなってしまうだけ。生まれる前に戻るだけだった。どうしてあんなに怖かったのかわからなくて、すこしおかしい。たぶん私はふふ、と笑ったけれどもよくわからなかった。ねえお母さん、私は笑ったの?



 先ほどまで聞こえていた、お母さんの声が聞こえなくなった。

 ああ、もう、何もわからない。動けない。見えない。聞こえない。もう少しだね、悪魔さん。

 まだ考えることができる。それに触覚だってある。たぶん先に触覚がなくなる。考えることができなくなったら、たぶん私は死ぬのだ。なんとなくそう感じた。



 君に私が人形になっていくところを見られたくなかった。君に誤解されてでも、君の中でだけでも元気で小生意気でいたかった。君の記憶の中だけでも、笑顔でいたかった。君をまだ愛している。嫌いになんかなれるわけがない。愛されたい。けれどそれは駄目だ。

 感情と感情がせめぎ合って、わけがわからなくなりそうだ。

 私が涙を流しているのが、何となくわかった。


 ああ、一人は怖いんだ。もう誰もいない。私は一人で、消えてゆく。この一人部屋の病室で静かに朽ち果ててゆく。

 初めは私の手を握っていたお母さんも、来てくれなくなった。最後に会ったのは一週間前だ。次に会うのは、死んでしまってからだろう。遺体くらいには会ってほしかった。お父さんは一回も病室に来なかった。最後に会ったのはいつだっけ。頭の中のカレンダーをめくっても、よくわからない。来るのは医者と看護師だけだ。医者たちは、私の手のひらに文字をかく。だけど私が答えるすべはなかった。もう好きにしてよ。放っておいてもいいよ。私は一人だもの。そんなふうに側にいてくれても、ただ苦しいだけなの。だって私は一人なの。家族に看取られないのよ。一人なの。見捨てられたの。同情なんていらないから。




 私には友達がいなかった。意地っぱりで、素直じゃなくて、泣き虫で、わがままなのだから当たり前だと思う。私だって、そんな奴を好きになれっこない。一人だった私の側にいつもいたのは君だ。そっと私の手を握ってくれた。

 君の手の感触が、ほしかった。一人じゃないよ、と囁いて。






 一人にしないで。







 そっと、私の手があたたかな何かに握られた。知っている、この素敵な感触。まだ触覚があってよかったと思った。私の瞳から涙がこぼれるのがわかった。私の腕のうえに、何か雫がおちた。誰かも泣いているらしかった。その誰かを、私の手は覚えていた。待ち焦がれた、手だった。


 駄目だよ、どうして来ているのよ。そう言いたかったけれど、もう口は動かない。

 君の顔を一瞬でいいから見たいけれど、もう目は見えない。

 君の声を聞きたいけれど、もう鼓膜は震えない。


 そっと、君が私の手のひらに文字をかく。


 ――“だいすき”。



 消えたものが戻ってきた気がした。

 体の自由が。

 音色のファンファーレが。

 色彩のグラデーションが。

 凍りつきつつある思考回路が。

 すべて、私の手の中に戻ってきたような気がした。君がその手ごしに、私にくれたような気がした。



 君の手を強く握れる。

 君に笑うことができる。

 君の微笑みを見られる。

 君の甘い声が聞ける。



 ありがとう。


 たくさん君にありがとうと、言わなくてはいけない。それ以上に、ごめんなさいと、言わなくてはいけない。



 だけど、最後に。最期は。

 君に伝えたかった。

 言えなかったありがとうを、君にあげたかった。ごめんなさいと言いたいけれど、それはたくさん空に向かって呟いたから。君に届いたから、君はここにいるんでしょう? だから今度はありがとう、そう言おう。


 私に自由が戻ってきたのは錯覚かもしれない。君に私の思いが届いているのか、わからない。

 だけど今は幸せだ。怖くない。愛する人に手を握ってもらっている。私は一人ではない。大好きな君がいる。私を愛してくれる、あなたがいる。


 すぐ側で闇の気配がした。

 だが怖くない。私は一人ではない。


 この罰は、私にとって慰めだ。今まで君を傷つけて、わがままを言った。君をふりまわしてばかり。私のためにしてくれたことはたくさんあるけれど、私が君のためにできたことなんて一つもなかった。



 これ以上、強がる必要はなかった。逃げる必要はなかった。私はトゲの鎧を、そっと脱ぐ。がしゃんという音がして、鎧が落ちた。こんなに重かったのか。軽くなった体。


 誰かがいるような気がして、私はそちらに走る。今なら素直に、話せる。

 私は見えない誰かにむかって微笑んだ。


 君の手の感覚は消える。



 闇の中の一筋の光に向かって、私は歩く。




「ありがとう……だいすき」




 君への最初で最後のラブレターは、届かない気がした。

 君が最後にくれた、だいすき、という言葉がたまらなく愛しくて胸がはりさけそうになって――。








 私の思考はぷつり、と途切れた。



 (LLL./Last Love Letter./Fin..)



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