第五話 始動
真貴の佐閑の里での活動がはじまった
農業の改善、衛生管理とやることは無数にある
梅雨明けして三日の好天が続いた後、小太郎の畑は麦の収穫を行った。腰をかがめての刈り取り作業は大変だが、まずまずの収穫を得ることができた。刈り取りの後は、畑をすぐに耕して秋収穫の作物の準備を行う。
真貴は肥料の準備をしていた。子どもらに食べさせた蓬や滑莧の食材にならなかった部分に加え、カニ、蝦の固い甲羅、蛙の骨や可食部以外の部分などに加え、森の腐葉土、さらには竈の灰などを積み置きして分解を進めたものを畑にすき込んだ。
真貴の勧めもあって、小太郎は秋収穫の作物として大豆を選んだ。ただ佐閑の里では秋収穫の大豆は種蒔きの時期が遅くなると、早霜で収穫できないことが度々あった。その話を聞いた真貴は収穫の前倒しを図ることにした。畑の一角であらかじめ種を発芽させて、その苗を、麦の収穫を終えて、肥料を鋤込んだ畑に移植した。二人の丁寧な灌水の努力に応えるかのように、大豆は夏空に向かい力強く成長を始めた。
真貴は村の畑や田んぼを丁寧に見て回った。千年後に広々とした田んぼになるあたりは湖と石だらけの湖岸が広がっていて、稲は少しばかりの水田で育てられていた。十年間毎夏、真貴が見てきた稲と違い、その丈は低く株も小さかった。
真貴は和尚や村長に、村がどのような支配を受け、どのような租税を、どう収めているかを時間をかけて聞き出した。結論から言うと、村はまだ荘園の支配下には入っておらず、国衙領、つまり国の直轄地であり、税として国府に米を納めている、その量は収穫高ではなく田の面積と村の労働人口で決まっている、などのことが分かってきた。ただ、村には稲が耕作できる田んぼは少なく、収穫のすべてを税にしても足らないことがあり、その時には雑役が課せられ、ただでさえ不足している労働力を長い期間奪われることがあるとのことだった。
仁の歴史学の講義や礼司の農業の発展史の講義で知っていたことではあったが、やはり稲穀を安定的に増産することが、村が追い込まれる事態を防ぐための最大の課題であることが確認できた。しかし、すでに梅雨も上がり、今後できることは限られているうえに、真貴が米作りに口を挟むことは、村人との間に緊張関係を生じさせる可能性が高い。真貴は長期戦で臨む覚悟を決めた。
真貴は考えた。来年、小さな田んぼで米作りを行う。そこで成果を出せば、村人は自ずから真貴に指導を求めてくる。ただ、来年、米作りを行うには、少なくとも今年の秋からは田んぼの準備を整えなければ間に合わない。ただ、村人たちを刺激しないで、むしろ協力的にさせる方法が必要だった。行き着いた答えは「巫女が龍神に供える米を自ら育てる」という名目だった。
村では、ときおり主だった者が寺に集まり、情報交換や時々の課題への対処が話し合われる。真貴は会合に出席し話を切り出した。
「来年のことになりますが、龍神様にお供えする米を自ら育てたく、田とお力をお貸しいただけるようお願い申し上げます」
村人たちの顔に緊張が走った。龍神の巫女の要請であれば応えなくてはならない。しかし、国府に収める米を作るだけで精一杯の現状で、条件の良い広い田が必要とされると、困難なことになる。村長がおそるおそる真貴に尋ねた。
「いかほどの田をお望みでしょうか?」
「三十歩(約百平方メートル)ほどあれば十分です」
村長と村の主だった者は顔を見合わせた。真貴の要求があまりに些細なものだったからである。真貴が続けた。
「今、私と小太郎が住んでいる小屋の西にある『荒田』で結構です」
真貴は村内を見て回っているうちに、耕作放棄をされた田がいくつかあることに気が付いていた。それらの田はまともに稲が育たない「荒田」とみなされていた。真貴はあらかじめ荒田のなかで、地味以外の日当たりや水利の問題が少ない田を選んでいた。
村長は村人たちの表情を確認して答えた。
「あの田でしたら、どうぞお使いください。ただ、あの田でしたら収穫は十斤(約六キロ)も望めないかもしれませんがよろしいでしょうか?」
「結構です」
村人たちは喜んで協力を約束した。種籾も一斤(約六百グラム)求めたが、これも問題なく受け入れられた。
真貴の米作りが始まった。
真貴は小太郎とムメの協力を得て、荒田の整備を始めた。まずは全体を掘り起こし、石や木切れなどを丁寧に取り除いた。これと並行して堆肥作りを進めた。田んぼの近くに堆肥壕を掘り、藁葺の屋根をかけた。これに食べ物の残渣、調理屑、森の腐葉土、灰などに加え、刈り取った夏草、さらには自分たちの糞尿も加えた。夏の気温で堆肥は熟成していった。
もうひとつの真貴の取り組みは村人の健康をどう守るかであった。
夏は農繁期である。村民たちは照り付ける太陽の下、作物の間を這いながら作業を続ける。草刈り、虫取り、水やりと果てしない作業が続く。水分を十分に補給しないと熱中症の危険がある。
それに加え、水分不足が慢性化すると血液が濃縮され、血栓ができやすくなり、脳梗塞、心筋梗塞に至る場合がある。真貴は田畑で村民を見かけるたびに、「お疲れ様です。どうか、お水をたくさんお取りください」と声をかけたが、簡単に村民の行動や意識を変えることができずにいた。
辛い労働に耐えるには、食事が重要である。ふつう村人は朝晩の食事に麦、稗、粟などの雑穀の粥を食べる。この粥は食物繊維が豊富に含まれるので、満腹感を得やすい。ビタミンB群、ミネラルも多く取れ、抗酸化物質であるポリフェノールやサポニンなども含まれる。ただ、タンパク質と脂質、さらにビタミンCと脂溶性ビタミン(A, D, E, K)が足らないことは確かだった。
ただ幸いなことに、真貴が昼に寺で子どもに与えている汁を口にする機会があった者は、アミノ酸が溶け出した旨味に惹かれ、川蝦や蛙などを食べる者も出はじめた。
ビタミンCの補給源は思いがけず見つかった。真貴は秋になったら野生の柿を収穫するつもりで山歩きをしていた。干し柿にすれば日持ちする。山里では貴重な糖分であり、冬場に不足するビタミンB群の補充になる。
野生の柿の木を何本か見つけた真貴は、柿の葉を煎じればお茶の代用になること、しかも多くのビタミンCを含むことを思い出した。真貴はとりあえず一抱えほど柿の葉を小屋に持ち帰り陰干しした。煎じて飲んでみると独特の風味が立った。真貴は寺で子どもに与える汁に使えば、冬のビタミンC補給になるのではと考え始めた。
真貴を悩ませたのが、村の人々には衛生という考え方が、まるで無いことである。
二十一世紀では、病気の多くが、食べ物、飲み物あるいは呼吸によって体内に入った病原体によって引き起こされることが知られており、人々は程度の差はあっても、清潔に留意する。しかし平安末期の人々には基本概念がない。
真貴は、まず寺で汁を与える際に、子どもたちの手を一人ずつ洗うようにした。子どもたちには、「すべての食べ物は龍神様の恵みです。何かを食べることは神様に向き合うことになるので、手を清め、祈ります」と教えた。真貴に日々諭された子どもたちは、少しずつ手を洗うようになった。
もう一つの衛生上の課題は排泄物処理である。
村人には決まった場所で用を足すという概念はなかった。住まいの裏や茂みで多くの村民が用を足していた。もちろん排泄後に尻を拭くこともなければ手を洗うこともない。
真貴は、まず小太郎に協力させて、自分たちの住まいのすぐ近くに穴を掘り、その上を囲って厠を作った。近くに蓬を植えて排泄後の拭き取りに役立てることにした。厠のしつらえは、看護学校で習った古代ローマ時代のトイレを参考に、木組みと板で腰かけて用が足せる工夫をした。この工夫によって、用を足しているときの臭気問題も大幅に改善した。そのうえで、堆肥の材料を無駄にすることなく集めることが可能になった。
真貴は、少しずつ改善を重ね、同じような厠を寺の側に作った。子どもたちはなかなか利用しようとしなかったが、真貴は辛抱強く指導を重ねた。
少しずつ進む 道のりは遠い




