第四十一話 遅滞
橘正季は動き出した 父に、これまでの遅滞を見透かされた気がしていた
橘正季は目代の中原兼経に巡察の報告をした夜、なかなか眠れなかった。
ようやく寝付いたように感じたが、人の気配に体を起こした。
父、橘広房が文机の前に座り、書き物をしている。
正季は尋ねた。
「父上、こんな夜分にお仕事でしょうか?」
父は机に向いたまま、背越しに答えた。
「ああ、起こしたか、すまんな。急ぎ、やらねばならんことがあってな」
「何を……?」
父が振り返った。
「お前も、存じておる事よ」
正季は目が覚めた。夜中ではあったが、すぐに支度を始めて、馬に乗った。先日、巡察した上田を目指す。父に遅滞を見透かされたと強く感じていた。
上田への山道に差し掛かる前に次第に夜が明けてきた。坂を登っていくと、背後の常念岳、槍ヶ岳に朝日が当たり朱鷺色に染まっている。
岩殿寺に未の下刻近くに着いた。山道で馬も人も疲れている。馬に水をもらい労っていると、僧が黍の団子と白湯を持ってきた。半刻ほど過ごし、再度、上田を目指す。
日暮れ近くになって、上田の郡代、手塚信元の屋敷についた。
国府の武者が、あらぬ時間に訪ねてきたので信元は驚いたが、邸内に迎えた。
挨拶を済ますと、正季はただちに要件を切り出した。
「手塚殿、先日、巡回に参ったばかりでの再訪、申し訳ない。しかし、どうしても確かめずにはおれないことがあって参った。お許し下され」
「そのように急かれて、橘様らしくありませんな。何事でございましょう?」
「田の……田の稲に白い斑点が出ておりませんか?稲の育ちが遅れておりませんか?」
「うむ……そのようなことを言っておった者がいたようにも思いますが、天気次第ではあることかと」
「私の思い過ごしなら良いのだが、大凶作の兆しという者もいる。明日、田を見せていただきたい。それと、村の者に直に話を聞きたい。十一年前のことを覚えている者と話したい」
「分かり申した。明日、手配いたそう。まあ、今宵はこの屋敷で、ゆるりと過ごされよ。まずは、ともに夕餉をともにしようではないか」
正季は落ち着かない一夜を過ごし、翌朝、手塚信元とともに田に出向いた。田を見下ろす川の土手に数名の村人が連れてこられた。
手塚信元が村人たちにただした。
「その方たち、稲の育ちが遅れておると思うか?」
村人たちは顔を見合わせた。一人がおずおずと答える。
「いくぶん、遅れているかとは思いますが、春先の寒さと天気の故かと」
信元はうなずいて正季を見た。
正季は、村人は信元が欲するように答えていると感じた。
質問を変えた。
「その方たちの中で、十一年前のことを覚えている者はおらぬか?」
村人たちが顔を伏せた。
「とがめはせぬ。ありていに申せ」
最も年かさの村人が話し出した。
「十一年前はひどい凶作でした。南の佐閑の里よりはましでしたが、作柄は平年作の半分ほどでした」
正季は重ねて尋ねる。
「十一年前に凶作とわかったのはいつ頃だ?なぜわかった?」
「芒種を過ぎてのことです。稲の育ちが止まり、枯れ出したものが現れました」
「前兆は無かったのか?」
「苗に……白い斑点が現れていました」
「今年は、どうだ?斑点は現れてないのか?」
村人は黙り下を向いた。
正季は土手を降り、裸足になって、田に入った。あたりを見渡すと半間ほど先に、その苗があった。抜き取って畔に上がり、泥足のまま、土手の村人たちの前に苗を置いた。
「これはどうなんだ?」
村人は下を向いたまま何も答えなかった。
正季は佐閑に向かうことにした。
上田での話は埒が明かなかった。郡代の手塚信元は、事態を根拠もなく楽観したまま、正季の危機感を杞憂扱いした。村人たちは、先行きに不安を感じてはいるものの、このまま上手くいくことを願うばかりである。
佐閑では、なぜ、事態に対応する動きができたのか、実際に何をやったのかを確かめねばならないと思った。おそらく、その中心にいるのは龍神の巫女であろうとも思った。
先日同様に、千曲川沿いに進み、昼過ぎに、佐閑の里に入った。
どこからともなく呼子のなる音が繰り返し響いた。妙泉寺を目指して進みだすと、いくらもしないうちに秀柾が馬で現れた。弓矢を背負っている。
「これは、橘様、先日お出でになられたばかりですが、いかがされましたでしょうか?」
「確かめたいことがあって参った。その弓矢は……」
「ああ、失礼しました。野盗への備えです。村人たちに、見知らぬ者が村に近づいたら、すぐに知らせるように頼んでいます」
「なるほど……」
「村長に御用でしたら、呼んでまいりましょう」
「いや、今日は、そなたの姉、龍神の巫女殿に話をお聞きしたい」
「姉ですか……では、こちらにお出でください。今、田の手入れをしております」
秀柾に案内された小さな田で、笠をかぶり百姓姿の真貴が、供の少女とともに、竹棒を突き立てては何かを調べている。近くには葦毛の馬が草を食んでいた。
その小さな田の稲は、ここまでの道中で目にしたものとまったく違っていた。株は倍ほどの大きさがあり、背丈が高く、濃い緑色を呈している。
秀柾が声をかけた。
「姉上、国府の橘様が、話をうかがいたいとお出でになっています」
真貴が顔を起こし、会釈した。
「わかりました。ここでは何ですので、お寺に参りましょう」
妙泉寺の本堂で正季に向かい合って真貴が座り、秀柾と良真和尚、さらにユイが控えた。
正季は真貴の眼をまっすぐに見て尋ねた。
「巫女殿、教えていただきたいことがあります」
真貴は少なからず驚いていた。弓比べの時に見た、暗闇を見続ける目ではなかった。目の奥に、暗闇の中に光を探す意思が灯っている。正季の中で何かが変わりつつあると思った。
「私で分かることでしたら、喜んでお答えします」
「では、稲の伸びを損ない穂に実が入らず大凶作をもたらすという、稲に付く白い斑点の正体はなんなのでしょうか?」
「あれは……人に例えるなら流行り病の証です。疱瘡や赤斑瘡に罹った者に現れる発疹のようなものです」
「流行り病……ということは、病は苗から苗へと伝染り、広がっていくということですか?」
「そうです」
「どうすれば、病を癒すことができましょうか?」
「この病を癒す術を私は存じません。この里では斑点が現れた苗をすべて抜き取ることでしか、蔓延を止める術はありませんでした」
正季は震撼した。秀柾が言っていた通り、龍神の巫女は不可思議なことは語らない。胸の中で、冷たい塊が膨らんでいく。
「巫女殿、教えてほしい。この佐閑の里では、何故、苗を抜くという思い切った手を打つことができたのか?私は上田や諸で斑点の現れた苗を見た。村人たちは、それが凶作の兆しと薄々気付いている。しかし、手をこまねき、ただ、祈ることしかできていない!」
堂内に沈黙が落ちた。
和尚が静かに言った。
「病んだ苗を抜くことにできたのは、この里が十一年前に、真貴を龍神に贄として供したからじゃ。贄を供しても、稲は実を付けなかった。祈るだけでは助かることはないことを、村人たちは知った」
「では、その話を、他の村々の者に教えてやれば……」
「人伝の話を聞いただけでは、人は変われまい。人は、自ら血を流した時、ようやく学ぶことができる。ただそれも、年月が過ぎれば忘れてしまう。この度は、真貴が龍神の巫女として戻ってきたがゆえに、十一年前のことを思い出さざるを得なかった」
正季は唇を噛んだ。この里で知った父の姿に導かれ動きだしたのだが、いきなり壁に突き当たった。
「巫女殿、何か良い知恵はござらぬか……。今、手を打てば、いくらかでもよくなろうというものだが……」
真貴は、正季の期待に沿える術を考えたが、答えを見つけることはできなかった。
「橘様、私も何とかしたいとは思うのですが……今、何か無理に手を打てば、それゆえに凶作になったとの、誤った考えにとらわれることと思います」
再び話は途切れた。
正季は父ならどうするだろうと考えた。しばらく考え、できそうなことに思い至った。
「では……私は凶作に備えよう。父のやったことをくまなく調べる。十一年間に父はこの村の人たちを守ったと聞いた。次は私が守ろう。前例があれば国府を動かせよう」
真貴は大きくうなずいた。
「私は、この里が少しでも多く収穫できることに心を砕きます」
真貴は和尚の方に目を転じ、再び正季に直った。
「和尚様は『人は自ら血を流したとき学ぶことができる』とおっしゃいました。私は今一つ、学ぶ気持ちになれるときがあると思います」
正季も和尚も秀柾も、そしてユイも真貴の言葉を待った。
「人が上手くやり遂げるのを目の前で見たときです。私は、この村の人々に分かっていただけるように、今年から、小さな田で米作りを始めました」
正季は先ほど見た緑濃い小さな田を思い出した。
「あの田を見たからこそ、この村の人々は、やり方を工夫することで、得られるもの、避けられるものがあると分かっていただけたと思います。今年、この里の収穫を守り抜けば、近隣の里の方々も、やり方を変える気持ちになれると思います」
正季はうなずかざるを得なかった。
「巫女殿。今日は、巫女殿と話すことができてよかった。私は性急にことを運ぼうと、うろたえていた。大切なのは、日々、遅滞なく、あきらめずに、ことを運ぶことなのだな」
「橘様、私にはそれしかできません。私が龍神様に繰り返し教えられたことは『少しずつでいい、たゆまず、賢く、強くなれ。そして来るべき時に備えよ』です」
「そうか……」
本堂に、気持ちの良い初夏の風が吹きこんできた。向かいの八の山々の裾に広がる森の緑が萌えている。
真貴には、最近考え始めた野盗対策の一つで、国府の協力を仰ぎたいことがあった。
「橘様、恐れながら、お願い申したいことがございます」
「おうかがいしましょう」
「国府では犬を飼われていると思います。できましたら、何匹か、お譲りいただけないでしょうか?」
正季は、国府の犬養が常に十匹程度の犬を飼っていること、その犬たちには春には新たに子犬が産まれることを知っていた。
「諮らなければなりませんが、ご都合することはできようかと思います。何故に犬を所望されるのでしょうか?」
「田畑と村を守るためです。里に犬がいれば、田畑を荒らす猪や鹿を追い払うのに役立つと思います。そして、村に害をなすものが現れたとき、夜中であっても吠えて知らせてもらえると考えています」
狼煙、呼子の次は犬……。正季は、手が打てないと思い込んでいた野盗対策を次々に策を出す真貴の思慮に驚くしかなかった。
正季は佐閑の里で初めて真貴と話をした




