第三十九話 久丸(くまる)
そのものは、はじめ、久丸と呼ばれていた
「くまるさまー、くまるさまー」
乳母が自分を呼ぶ声がする。屋敷の床下に潜んで、その声が遠ざかるのを待つ。足音を忍ばせて、奥の部屋に向かう。部屋に入ろうとした自分の肩がむんずと掴まれた。振り返ると父がいた。恐ろしい目で自分を睨んでいる。
「はなせー!」
叫び声をあげようとして、目が覚めた。
「ねえ、何かうなされてたわよ」
傍らで半裸の女が座り、自分を見降ろしている。
「大蜘蛛にも怖いものがあるのね」
女が軽口を叩いた。
酷い倦怠感と頭痛がしている。かろうじて立ち上がり、小便をしに小屋の外に出た。
「お頭、飯を喰わないんで?」
配下の一人が自分に問う。こいつは何という名であったか……。考えること自体が辛い。
名……。自分は何という名であったか……。記憶にある最初の名は久丸であった。この名を思い出すと、胃の腑のあたりに鈍い痛みがする。
「飯はいらん」
桶に入った生ぬるい水を柄杓で飲む。
かつて、久丸と呼ばれていた男は、寝床に戻った。寝るのは嫌だったが、何も考えることができず、瞼が重くなった。
父と書見台を挟み向かい合う。父が漢籍を読み下す。
「微子曰く、父子は骨肉有りて、臣主は義を以て属す」
骨肉。我はこの男と骨肉を分かったのか?
「曾子し曰く、……人未だ自ら致す者もの有あらざるなり。必や親の喪かと」
親の喪。我が母の喪はあったのか?
手の指先が切れ、血が滲んでいる。足裏に竹の端切れが刺さっている。足元には引きちぎって踏み壊した父の笙(複数の竹管が連なるハープのような楽器)が散らばっている。
父は呆然と自分を見ている。しかし怒りも無ければ悲しみもない。
男は夜中に目を覚ました。猛烈に咽喉が渇いていた。
小屋の外に出て、水の入った桶を抱え上げて、飲んだ。顔も髪も体も、水を浴びることになった。口元に垂れてきた濡れた髪をかき上げる。頭痛は少し軽くなっていた。
目が覚めたからと言って辛い時間が終わるわけではない。
誰とも口を利かず一人佇んでいると、思い出したくないものほど、思い出す。
久丸は広間中央に一人で座り、元服の式がはじまるのを待っていた。しかし、広間には誰も入ってこず、時間が過ぎていく。あまり広くはない屋敷の別室で、大人たちが何事かでもめているようだ。「あの子か……」という言葉も聞かれた。
一刻ほど過ぎて、ようやく広間の両脇に三人ずつ、正面左に父、右に父と同年代の男が座り、中央に白髪あたまの老人が座った。
「源顕清が一子、久丸。これよりは源の十郎久雅を名乗るべし」
老人が元服名を告げて、右に座った男が立ち上げり、三宝に載せられていた侍烏帽子を久丸改め久雅にかぶせた。
儀式はあっけなく終わった。
白髪あたまの老人がすっくと立ち、父に告げる。
「では、私はこれで」
父が両手をついて頭を下げると、老人に続き、三人が出て行った。
下働きの老婆と中年女が膳を運んできた。
広間に残った父と、三人の武者、それと久雅の前に置かれた。
「粗末なものですが……」
父の小声での挨拶で食事がはじまった。酒も運ばれてきたが、会話は盛り上がることなく、淡々と時間が過ぎていく。
男の耳に狼の遠吠えが聞こえた。そう、遠くないところに居るようだ。男は立ち上がり、月明かりに浮かぶ、上野の山並みを見渡す。
男は右手を懐に差し込み、短刀を抑えた。元は香の匂いがわずかにするきれいな白鞘の短刀だったが、今は、男の垢と汗にまみれ、薄汚い色に変わっている。
懐の短刀が契機となり、記憶の再現が、また始まる。
久雅は食事の途中で尿に立った。大人たちは気にすることなく食事を続けている。夕暮れになり、戸外から雨音がし始めた。
厠から広間に戻ると途上、久雅は気が付いた。
『今なら、父の部屋に入り、母の遺品に触れることができるかもしれない』
廊下から広間の様子をうかがう。大人たちの食事は続いている。
久雅は、屋敷の奥に向かう。母の遺品が収められているであろう場所は分かっている。父の部屋に置かれている行李の中である。
襖障子を開け、薄暗い父の部屋に入る。北の縁側に向いておかれた文机の傍らに、行李があった。
蓋を開ける。上品な香の匂いが漂う。震える手を行李に差し入れる。布に指先が触れた。柔らかく滑やかで温かみを感じる。手で探っていくうちに、布の下に硬いものがあることに気付いた。布をめくり、手で探ると棒のようなものがある。掴み上げると、思いのほか重さがある。『これは短刀……?』
いきなり、背後に物音がした。
振り返ると父がいた。幼い時の記憶通りの恐ろしい目で自分を睨んでいる。
「お前、その短刀は!」
父が声をあげた。これまで聞いたことがない父の昂奮した声である。
久雅は短刀を懐にねじ込んだ。
「出せっ!」
父が迫ってきた。
久雅はあたりを見渡した。すぐ傍らに父の太刀があった。手に取り、抜いた。
「戯け者!」
父が構わず迫って来た。久雅は太刀を振り回した。軽い手ごたえがあった。
父が右手で、左の腕を抑えている。左の手先から、血がしたたり落ち始めた。
久雅は文机を踏み越え、縁側に出た。
「待たんか、久丸!」
父は自分を幼名で呼んだ。怒りとも悲しみとも驚きともいえない感情が自分の中で猛った。
「うぉーっ!」
腹の奥底から勝手に叫びが口を突いて出た。
久雅は縁側から外に飛び出した。雨が降り、日が暮れつつあった。
源顕清の子、久丸は出奔した




