第三十七話 足跡
橘正季は龍神の巫女がいる佐閑の里に向かう
しかし里で彼を待っていたのはそれだけではなかった
正季は、曇り空の下、千曲川沿いに進み、昼頃に、佐閑の里に入った。
里の西側の湖の近くに広がっている田を目にした時、正季は、これまで見て来た田と様相が異なることに気が付いた。稲に勢いがある。ただ、田のところどころに稲が植わっていないところがある。奇妙な感じを覚えながら里に入った。
見慣れない武者がやってきたことに気付いた村人たち数人が、農作業を中断して、村に駆け戻って行った。正季があたりを見渡していると、秀柾が馬に乗って現れた。
「これは橘様、この村に何か御用でしょうか?」
「望月殿、昨日はご苦労であった。今日は国内の巡回として立ち寄った。村長に話を伺いたいので、案内願いたい」
「承知しました」
秀柾は正季を妙泉寺に案内した。正季は小さな本堂で、秀柾が村長を連れてくるのを待つことになった。
「橘様、お待ちいただく間、境内がうるさいかと思いますが、ご容赦ください」
「いっこうにかまわぬ。子どもが集まっておるようだな」
「はい、姉が子どもたちに汁を出しております。子どもらの滋養のためだそうです」
秀柾が村長を呼びに行った後、正季は本堂の縁側から境内を見た。百姓の姿の女性が、少し年かさの少女に手伝わせて、鍋から椀に汁を注いでは、並んで待つ子どもに与えている。女性は微笑みを絶やさず、子どもらには笑顔が溢れている。汁の良い香りが本堂まで漂って来た。
女性は正季に気が付くと丁寧に頭を下げた。先だっての弓比べの時に、御座にいた女性だった。『龍神の巫女……』。正季は心中で呟いた。
女性が手伝いの少女に何か言った。少女がうなずき、新たに汁を注いだ椀を正季の前まで運び、差し出した。
「よかったら、一口、お召し上がりください」
正季は、意外な展開に言葉が遅れた。
「……かたじけない」
正季は、汁を口に含んだ。奥行きのある控えめな塩味で、蓬と甲殻類の香りがした。近頃口にした、いかなる汁より美味だった。一息で飲み干し、器を少女に返すと、女性が楽しそうに微笑んだ。
村長が寺に来た。和尚と秀柾も控えた。
「国府詰めの橘八郎正季である。村長に今年の米の収穫についての見通しをお聞きする」
村長は平伏したまま答えた。
「申し上げます。この里からは三石(四五〇キログラム)の年貢を納める定になっておりますが、三石の収穫は厳しいと思われます」
正季は諸での見通しとの違いに驚いた。
「何故、厳しいと考えるのか?」
「はい。この春、苗に病魔が付きました。すべての苗が病むのを防ぐため、病魔が付いた苗を抜き、焼き捨てました。これで苗の二割ほどが失われました。この故にございます」
正季は先ほど見た田に稲が植えられていなかった場所があることの理由が分かった。
「何故、病魔がついたとわかったのか?」
「苗に灰色や白色の斑点が付いていたからです」
「それだけで、苗を抜いたのか?」
「はい、十一年前の凶作と同じ前兆でした」
和尚が、正季に言った。
「十一年前、夏になって稲穂には実が入りませんでした。田はほぼ全滅でございました」
「苗を抜くように指図したのは誰じゃ?」
「私でございます。巫女様に相談申し上げたところ、そうする他はないと、教えていただきました」
「巫女の知恵……」
「左様でございます」
十一年前は父、広房が国司だった時期である。正季は尋ねずにはおられなかった。
「十一年前のことを、詳しく聞かせよ」
村長が顔を起こした。
「はい、あの年も今年と同様に、日は差さず雨が降る日が続きました。田植えを行いましたが、苗に力が足らないと感じておりました。田植えをしてしばらくすると、灰色や白色の斑点が付き始めました。ここまでは今年と同じでございます」
村長は続けた。
「わしらは、陽射しが戻り、稲が勢い得ることを願っておりました。しかし、芒種の頃にはほとんどの田の稲に斑点が付き、稲の伸びが止まりました。大凶作が見えてまいりました」
今年の芒種までは、あと十日あまりである。正季は他の里の稲には斑点が現れていたことを思い出し、血の気が引くのを覚えた。
「十一年前、わしらは、ただ祈ることしかできませんでした。ついには龍神様に贄を捧げました。しかし、稲に力は戻りませんでした。出穂した株もありましたが、穂には実が入りませんでした」
正季はさらに尋ねた。
「その年、作柄はどうなった?」
「いつもの年の二割にも達しませんでした」
思い描くだけで震える凶作である。
「なんと……多くの者が飢えて亡くなったのか……?」
「いいえ、皆、生き延びることができました。ひとえに、国司だった橘様のおかげです」
正季がまったく知らなかった父の話である。正季は驚いて声を失った。
村長は続けた。
「その年の秋、橘様は、自らこの村にお出でくださいました。村の者の話を聞き、田に入って空の稲穂を手に取られました。そして、その後、村にこの年の年貢を免ずると知らせが来ました。米の代納を雑穀で行うとなれば、二倍、三倍を納めねばなりません。そうなれば、我らは皆、飢えて死んでいたでしょう」
和尚が静かに話しはじめた。
「橘様、お父上は、今、あなた様がお座りのその場所にお座りになり、村長や拙僧の話を聞いてくださいました。お父上ほどご立派な信濃国司を我々は知りません。我らにとって、お父上は、闇に昇ってきた陽の如き方でした。お父上が、無念なことになられたとの知らせがこの里に届いた時、我らは声をあげて泣きました」
思いもよらない父の足跡だった。
正季は傍らの仏壇に置かれている木彫りの粗末な観音菩薩像を見た。父が毎晩必ず仏壇に手を合わせ祈っていた姿を思い出した。
正季は、村長や和尚に向き直った。
「初めて聞く父の話です……お話を聞くと、贄となった者が不憫です」
和尚が答えた。
「お父上が村に来られた時、我らは、きっと、贄となった娘がお連れ申したと囁き合いました。そして、その娘は昨年、龍神様の許から戻り、村の疫病を祓いました」
「もしかして、その娘とは……」
「秀柾の姉、真貴でございます。皆、『龍神の巫女』と呼んでおります」
正季は海尻に向かうため、佐閑の里を発つことにした。
寺の境内に出ると、すでに子どもや真貴の姿はなく、村人たちが集まっていた。境内に現れた正季を見て、村人たちが跪き頭を垂れ、誰からともなく両手を合わせた。
和尚が言った。
「先の国司、橘広房様のご子息がお出でになられたと聞いて集まりました。皆、あなた様のお父上に、命をお救いいただいたことに、礼を申し上げたく、参りました」
正季は村人たちを見渡し、ついで天を仰いだ。一度、目を閉じ、息を整えて言った。
「我が父、橘広房を覚えていてくれたことに礼を申す」
正季は、村人たちに頭を下げた。
寺から、村はずれまで、秀柾が正季に馬で同行した。
「望月殿、お主の姉、龍神の巫女殿は、どのような力をお持ちなのか?」
「私もよくわかりません。ただ、姉の力は、不可思議なものではなく、知恵や観察に基づき、考えを重ねて現れているものだと思います」
「知恵の力か……」
「はい。今、私と姉は、橘様にお教えいただいた策をもとに、野盗への備えを進めております」
「狼煙のほかに?」
「はい。姉は、村を砦のように固めて野盗から守るつもりのようです」
「なんと……」
正季には子どもに汁を配りながら微笑んでいた真貴の美しい横顔と、村を砦にして野盗を迎え撃つという覚悟が、どうにもつながらなかった。
思いがけない父の足跡に触れた正季
龍神の巫女の存在が彼の中で大きくなる




