第三十五話 縁談
風間国興の娘、孝子に上田の生島足島神社に嫁ぐ縁談が持ち上がった
風間国興の娘、孝子に縁談が持ち上がった。
相手は、上田の生島足島神社の神職の息子である。生島足島神社は諏訪大社とは縁の深い神社で格式も高い。まだ、孝子が幼い時に、ゆくゆくは嫁にという話もあったのだが、国興が、風間本家の外戚の地位を狙っていたために、流れていた話だった。それが、本家嫡男の妻、経子が回復し、子が生まれそうなことから、再び動き出したのである。
孝子は戸惑っていた。つい先ごろまで、父の国興から、本家の経子が亡くなったら正嫡の清光に嫁げと言われ嫌悪感を覚えていたのだが、その風向きが急に変わったからである。その一方で、嬉しくもなければ悲しくもなかった。風間本家に対するアンビバレントな感情が渦巻く家を出られるのはありがたかったが、嫁ぐ相手がどのような人物か、嫁ぐ先がどのような家かは分からず不安だった。
国興から、生島足島神社の息子との縁談の話を進めていると聞かされた日、孝子は侍女のセイに話しかけた。
「セイ、あなた、上田郷がどういう所か知ってる?」
「いいえ、まったく存じません。八の山々の北側とは聞いたことがありますが、私は諏訪を離れたことがございませんので」
「私も諏訪を離れたことはないわ。富士のお山と海というものは一度目にしたいとは思うのよ」
「私は富士のお山は遠くに見たことがございます。父の在所が茅野なので、天気の良い日にはお姿を見ることができます」
「あら、茅野まで行けば見ることができるの?近いうちに見に行こうかしら。上田に嫁げば二度と見る機会はないかもしれないから」
「そのようなお話があるのですか?」
「そうなのよ。いったいどんな方なのやら……」
「お優しい方だといいですね」
「そうねえ」
孝子は、セイが顔を少し頬を染めていることに気付き、セイが望月秀柾を「お優しい方」と言っていたのを思い出した。孝子は「この子は秀柾が心にかかっているのだ」と思った。同時に、自分も秀柾のことが気になっていることに気が付いた。
郡代の奏上を国府に伝えた秀柾は、諏訪に立ち寄り佐閑に戻ることにしていた。姉から、風間家に託物があったからである。
真貴から預かったものは薬草類である。真貴は、妊婦の経子の鉄分摂取や乳腺炎予防に、蓬に清公英や紫蘇などを併せた煎じ薬を調合し、処方を木簡に記して、秀柾に、風間家に届けるよう託していた。
風間家に秀柾が到着したのは申の刻(午後三時)を過ぎていた。
秀柾は、門番に荷物を渡し、そのまま佐閑に向えば、小渕あたりで野宿し、翌日の昼には佐閑に戻れると考えていた。
門番が受け取った包みを屋敷内に運び込んだ。次に、門番が出て来て、主人に渡した旨を聞いたら、すぐに立つつもりでいた。ところが、門前に現れたのは、清光だった。清光は笑顔で秀柾に言った。
「よう来てくれた秀柾殿、巫女様からのお預かりもの、確かに受け取りましたぞ」
「お目にかかれて嬉しゅうございました。では、私はこれで……」
「何を言っておられる。もういくらもせぬうちに酉の刻(午後五時)ではないか。今宵は屋敷にて過ごされよ。秀柾殿とは、ゆっくり弓の話をしたかったので、良い機会じゃ」
清光は秀柾の肩を抱いた。
「おーい、誰かある。秀柾殿の馬を、厩に引け」
秀柾は半ば強引に清光に捕まり、風間屋敷に泊まることになった。
セイはお使いを仰せつかり、風間の屋敷から外出していた。屋敷に戻ろうとすると、門前に、見覚えのある人影があった。やがて、清光も現れて、楽しそうに、大きな声で下働きのものを呼んでいる。清光が、肩を抱くようにしている相手の顔が見えた。望月秀柾であった。セイは秀柾が屋敷に連れ込まれる一部始終を、少し離れたところから見ることになった。
セイは屋敷の膳部にある出入り口から邸内に戻ろうとした。膳部が少し慌ただしかった。邪魔にならないように、そっと抜けて、孝子の部屋の方に向おうとしていると、年かさの女性から声がかかった。
「セイ、孝子様の御用が済んだら、手伝いに来ておくれ。急なお客様なのだが、あいにく、今日はキネとコウがいなくて手が足らないんじゃ」
「わかりました」
セイは孝子の部屋に戻った。
「ただいま戻りました」
「お帰り。表が騒がしいですが、何かあったのですか?」
「はい、お客様がおみえです」
「どなたかしら?」
「佐閑の里の望月秀柾様です」
「え?!」
孝子は思わず声を漏らしたのを恥じたが、セイはそれを気にしてはいないようだった。セイは頭をあげず、俯いたままである。心なしか、耳介が赤くなっているようにも見える。
「姫様、先ほど膳部を通りました時に手伝いを頼まれました。これから行ってもいいでしょうか?」
孝子は一瞬返事をためらったが、すぐに言った。
「行ってらっしゃいな」
セイは小さく頭を下げて、膳部にそそくさと向かった。
孝子は、先ほど答えをためらった理由も心にざわめきが起きた理由もわかっていた。秀柾が邸内にいる、そのうえでセイはもしかすると秀柾に直接会う機会があるかもしれない。気が付けば、孝子は扇を強く握りしめていた。
秀柾は屋敷内の一室に通された。しばらくすると清光が現れ、膳が運ばれてきた。
「秀柾殿、ほんとうに、よう来てくれた。巫女様は、ご息災かな?」
「はい、このところ忙しくしておりましたが、少し落ち着いたところです。稲に病の兆しがあり、その手当てに追われていました」
「この春は、なかなか暖かくならなかったからのう」
「それに加えて、大変な事が起きております」
「それは?」
「野盗でございます。先に清光様が佐閑にお出でになった時に、木曽の方で野盗が出没しているとお話でしたが、このところ長野方面でも野盗が出ております」
「その話は、我らが耳にも入っておる。実は、叔父の娘が上田の方に嫁ぐ話があってな、長野に近いので心配する声も出ておる」
「実は、今日、私は、国府に野盗の対策について話をしに行って参ったところです」
「そうであったか。どのような話か、よかったらお聞かせいただけるか?」
「はい。賊が襲来したときの合図に狼煙を用いようという話です。狼煙の上がった里に近在の武者が駆け付ければ、被害を減らせるのではと考えています」
「狼煙!これまで考えてもみなんだ。うむ……いい手かもしれん」
セイは膳部で皿の用意と盛り付けとを手伝っていた。まず椀に盛り飯を置き、箸,匙をそろえ、塩、酢、酒、醤を入れた小皿を並べる。鰙の干物、手長蝦の焼き物を乗せる。最初の膳が運ばれた。次の膳の用意が続く。椀が用意され、鯉の羹が盛られた。
膳部を仕切る女性から声がかかった。
「セイ、ハナと二人でお客様に二のお膳を持って行って」
セイは返事をし、着物を直し、手で髪を整えた。ハナと二人で、客間へと膳を運ぶ。胸の鼓動が高まった。
客間の前まで来ると、当主の妻、静子がいた。
「あら、セイ、ご苦労様。そのお膳は私が預かりましょう」
セイは、膳を静子に渡した。
「では、そちらの戸を開けて」
セイは跪き「失礼します」と声をかけて戸を開けた。秀柾の姿が垣間見えた。
「秀柾殿、よくお出でくださいました。経子への薬草、ありがとうございました」
閉めた戸の向こうから、静子の声が聞こえた。
セイが膳部に戻ると年かさの女性から声がかかった。
「セイ、ありがとう。もう、私たちだけで大丈夫だから」
セイはちいさくうなずき、膳部から孝子の部屋に戻った。
「ただいま戻りました」
孝子はセイが手伝いに行った後、写経をして時間を過ごしていた。孝子は、部屋に戻ってきたセイが、行ったときの高揚感がなく、がっかりしているように見えた。
「膳部の手伝いは終わりましたか?」
「はい、もういい、とのことです」
「お客様のご様子はいかがでしたか?」
セイは小さくかぶりを振った。
「私は、お部屋に入ることはありませんでしたので、分かりません」
「そうでしたか」
自分が少しほっとしていることに、孝子は気が付いた。そういう気持ちになる自分が、疎ましかった。
望月秀柾をめぐり、二人の少女の心が揺らぐ




