第三十三話 災厄の影
一見穏やかに見える初夏の信州に災厄が影を落としはじめた
橘正季は長野方面の野盗追捕から戻った後、上司である中原兼経から、村上郷の源顕清の様子を尋ねられた。村上郷は長野から国府までの途上にある。村上郷に異変はなかった。ただ正季は、兼経が、三十年近く前に流された顕清に、いまさら特別な注意を払っていることが気になった。
国府に京からの客人が来た。藤原一族の者ではあるが、官位はさほど高くはなかった。客人は鳥羽上皇の中宮、待賢門院藤原璋子から、千曲川上流の海尻に地蔵菩薩を置き、供養を行うよう要請されたとのことだった。
白河院が殊のほか目をかけている待賢門院が、京を遠く離れた信濃のさらに山奥に、何故、地蔵菩薩を置きたいのか、誰を供養したいのかが判然としない話であった。
ただ、客人は口が軽い男だった。
藤原璋子は昨年の夏から怨霊に怯えているらしい、人々の噂では、その怨霊はずぶ濡れの少女の姿で、信濃の山奥から京に歩んでいるというような話をした。
客人の接待と地蔵設置の手伝いを託された正季は、目代が動向を気にしていた源顕清のことを尋ねてみた。
客人は、昔のことになるが、と言いながら、源惟清、顕清兄弟は白河院の専横で京を追われたらしいという話をはじめた。
兄、源惟清の妻は人目を引く美人であった。白河院はこの妻を惟清に差し出させた。
源惟清は屈辱に耐えようとしたが、白河院は惟清が近くにいることを嫌った。さらに、白河院は下級貴族の娘を身籠らせた。その始末を弟、源顕清に押しつけた。白河院は、この兄弟に呪詛の罪状を被せ、惟清を伊豆に、顕清を信濃に流した。顕清には妻子があったが、京に残し、その娘と配流地に向かった。
正季は驚いたが同時に胸に落ちるものがあった。この男の話す通りなら、出奔し、盗賊に身を落としたともいわれている源顕清の息子は白河院の落胤ということになる。父、橘広房は京で源兄弟配流の裏側を知っていた。そのうえで、当時の野盗たちを調べ、院の落胤が野盗となっている情報を掴んだために口を封じられた可能性が出てきた。下野国司をして信濃国司の暗殺を命じることができる者がいるとすれば、それはただ一人、白河院しかない。
小満(五月二十日頃)を過ぎた頃、秀柾は郡代の平賀忠景から呼び出し受けた。
郡代屋敷には秀柾のほかに近隣の武者たちが集められていた。さらに御座の右手前に黒っぽい直垂の武者が座っていた。国府の橘正季だった。
平賀忠景が御座に座った。一同が頭を垂れ、直ると忠景が挨拶をした。
「皆の者、ご参集、ご苦労である。本日は、国府より話があるとのことで集まってもらった。では、橘殿、お願いいたす」
橘正季は郡代に小さく頭を下げ、武者たちに向き直った。
「信濃国司目代、中原兼経様よりの下知である」
一同は再び頭を垂れた。
「今般、本国北辺にある飯山ならびに長野の村々が賊に襲われた。調べによると賊は十名ほどで東の上野方面より侵入している模様である。賊は昼の間に下見をして、月明かりのない曇天の日の夜半から未明に襲っている。各々の里では警戒を怠らず賊に備えよ」
一同は静まりかえった。ややあって、一人の壮年の武者が声をあげた。
「恐れながら、申し上げます」
「なんだ」
「我らに、いかにして賊に備えよと仰せなのでしょうか?我らは弓矢を持ち、里を廻って備えはしていますが、十人の賊に夜半に襲われてはどうにもなりません」
正季は発言した者を、じっと見た。そして答えた。
「私もまったく同じ考えだ。私は、今日は、目代殿の言葉を伝えに来た。それだけだ」
一同はざわついたが、正季はそれ以上、何も言わなかった。
平賀忠景が言った。
「これにて散会する」
秀柾は途方に暮れた。壮年の武者が言っていた通り、夜半に佐閑の里が賊に襲われたら、いったい何ができるというのか……里に戻って姉と相談するしかないと考えた。
秀柾が、屋敷の馬留に向かっていると、背後から声をかけられた。
「お主、諏訪の弓比べの望月秀柾殿よのう」
振り返ると、橘正季が懐手で立っていた。
秀柾は、礼をして答えた。
「はい、望月秀柾にございます。弓比べでは橘様の見事な射を拝見させていただきました」
正季は秀柾を弓比べで見た時より幼いと思った。その顔を少し見つめて言った。
「お主、実戦の経験はあるか?」
「鎧を着けての経験はございません。街道で襲ってきた野盗を追い払ったことはあります」
「お主は弓上手だ。しかし、先ほど話したが、賊どもは夜襲ってくる。弓矢は役に立たないと、心得ておけ」
「お言葉、ありがとうございます。心に刻みます。わが父と叔父は十年あまり前に、野盗との斬り合いで傷つき亡くなりました。その轍を踏まぬよう心がけます」
「そうであったか……お主も幼い頃に父を亡くしたか」
秀柾は正季の思いがけない言葉が嬉しかった。
「姉から聞いた話ですが、父と叔父、それに郎党二人で七人の野盗と戦い、ほぼ全員を倒したそうです。ただ父も叔父も傷を負い、そのため亡くなったと聞いています。一名だけ若い賊が逃げたそうで、父はその者の面に一太刀浴びせたそうです」
正季は秀柾の話が気になった。
「もしかして、浅間権現が火を噴いた年か?」
「左様でございます」
正季は先日の長野の襲撃現場で聞き取った話を思い出さずにはいられなかった。
村人は言っていた「首領には顔に大きな傷があり、片目が潰れていたように見え」たと。
さらに、弄ばれ殺された女の額には、血で何かの印のようなものが描かれていた。
それは、はじめは意味をなさぬ赤い線に見えたが、目を凝らすと、脚を広げた蜘蛛の姿にも見えた。
それを見た配下の老武者が、低く呻くように言っていた。
「……大蜘蛛丸の仕業だ」
郡代の平賀忠景は、国府のやり方に腹を立てていた。
野盗に対して国府は実質的には何ら手を打っていない。ただ、郡代屋敷を利用して、現場を預かる者たちに名目上の警告と指導だけを行った。これで、今後、野盗の襲撃があっても、国府は注意喚起をしていたが、現場が対応できなかったと申し開きができる。
自室に戻った忠景に、しばらくして、配下の者が報告に来た。
「国府の橘様も、お集まりいただいた皆様も、帰られました」
「そうか」
「別件ですが、ひとつお知らせしておきたい話があります」
「郡代様がお出ましになる前に、武者の方々が話されていたのですが、今年は、稲の生育が思わしくないようです」
「春先に寒い日が続いたからのう」
「田によっては、苗に白い斑点が現れているとか」
「枯れたわけではあるまい。この後、暑い日がやってくれば勢いも戻るであろう」
「ひとまず、お知らせだけと思いました」
「ご苦労であった」
屋敷のあけ放った縁側から、心地よい初夏の風が吹き込んでいた。
野盗、凶作……




