第三十一話 凶兆
佐閑の田植えが終わった
しばらくすると、苗に白い斑点が現れ始めた
秀柾は、この春の麦の出来の良さに驚いていた。真貴の提案に従い、前年の秋に大豆を植えたことと、麦踏みしたことの効果が出ているようだった。上手くすれば、前年の二割増しの収穫が見込めそうだった。麦藁も増えることになるので、二頭の馬の飼い葉に役立つことになる。
ただ、山里では農作物の出来が良いほど心配になるのが獣害である。
春は動物にとっては繁殖期である。行動が活発化し、求餌行動も盛んになる。村にとって脅威となるのはやはり猪だった。猪はいちど侵入に成功し味をしめると、同じ畑に何度も侵入し荒らすようになる。田畑に近づかせないことが大事だった。
春先の猪の活動時間は早朝から昼が多い。秀柾は東雲に跨り、自分の畑だけでなく村人たちの畑も警戒にあたった。前年秋に猪狩りで成果を得て以来、村人たちも、積極的に猪対策を行うようになった。真貴が指導した礫縄を使える者が増えて、猪を仕留めなくても、ダメージを与えることで、田畑への侵入を減らせるようになった。
佐閑の里の田植えは、例年、立夏の頃に行われる。ただ、桜が散る頃から立夏頃までの気温は、年によってかなり異なる。この年、立夏を前にして曇天が続き、村人たちの苗の生育状況は良くなかった。しかし、秋の訪れが早い山里では、田植えを遅らせることはできない。肌寒さを感じながらの田植えが始まった。
真貴は、村人たちの苗が細く色が薄いことが心配だった。かつて礼司に教わったところによれば、田植えから活着期、分蘖期でどの程度丈夫な苗に育てられるかが、収穫に決定的に影響するということだった。
村人たちが、たびたび真貴の小さな田を見に来るようになった。一足早く田植えを終えた真貴の田の苗は、すでに分蘖がはじまっていた。村人の中には、田に手をつけて泥を手に掬い取ってみる者もいた。真貴は黙って見ていた。
田植えが終わり十日ほど経った頃、真貴は、村の田に悪い兆しを見つけた。生育が特に悪い株から出ている葉に、小さな灰色の斑点が現れているものがある。小さな斑点がある株の数が、徐々に増えていきはじめた。さらに、斑点は次第に大きくなり、ひどいものでは菱型になり、その中心の色は灰白色、斑点の縁が赤褐色に変色をはじめるものが現れた。
真貴はもどかしかった。手を打つ時期が早いほど、被害は少なく、回復もそれなりに見込める。しかし、村人たちが、凶兆に自ら気付き、危機意識を持たない段階で介入すると、処置を誤ったがゆえに収穫が減ったという誤解を招きかねない。村の田に病変がじわじわ広がるのを、真貴は、まるで自らが病に侵されていくような辛さで見守っていた。
そのような日が数日続いた小雨の降る午後、真貴は、ユイとともに、二人が管理する小さな田で、葉に付く虫を駆除していた。化学殺虫剤が無い時代の害虫対策は、原則、手作業で行うしかない。二人が作業をしていると、田植え神事に参加した村長と数名の村人が来た。彼らは黙って二人の作業を見ていたが、一段落したところで声をかけてきた。
「巫女様方、御田のお手入れ、お疲れ様でございます」
いつのまにかユイも巫女と呼ばれ、二人が世話をする田は、神の田、御田と呼ばれるようになっていた。
真貴が応えた。
「皆様方、見廻り、お疲れ様でございます」
村長は、一緒に来た村人と一度目を見交わして、言った。
「巫女様、お願いがあって参りました」
村長は、少し言葉を選ぶように沈黙し、思い切ったように口を開いた。
「村の田を、御覧いただけるようお願いします。この御田の稲は美しく伸びつつありますのに、我ら、村の田の稲の葉に斑点が付き、育ちが滞っていることを、先日来、気に病んでおります。どうか、巫女様のお知恵とお力をお示しいただけるようお願いいたします」
真貴は、少し、ほっとした。今から手を打てば、昨年のような良作は望めなくとも、最悪の事態は、まだ、回避できる可能性が残されている。
真貴は答えた。
「わかりました。早速参りましょう」
真貴はユイを連れ、村の田を見て回った。まだ、健全な株もあったが、田のそこかしこで灰色の斑点が現れ、さらには斑点の縁が赤褐色になっている稲の葉を見ることになった。
田の見回りを終えて、一行は、寺に集まった。
村長が、恐る恐る切り出す。
「いかがでございましょうか?」
真貴は微生物による稲の病変をどのように説明するか考えた。
「皆様……赤斑瘡を覚えておられることと思います」
赤斑瘡という言葉を聞いて、びくっとしたユイの肩を真貴は片手で抱いた。
「今、村の稲に広がりつつあるのは、稲の流行り病です。あの白い斑点は、赤斑瘡に罹った人に現れる赤いブツブツのようなものです」
村人たちは、顔を見合わせた。
傍らで聞いていた和尚が言った。
「十一年前、マキが龍の洞に入った年と同じことが、また、起きているのではないか?あの年、斑点が現れた多くの稲が葉を枯らし、夏になって稲穂には実が入らなんだ」
和尚の言葉に、真貴は、十一年前、子どもながらに見た、追い詰められた村の状況をありありと思い出した。村は凶作の脅威に怯えていた。打つ手を知らず、龍神様に贄を捧げるしか道を見いだせなかった。今の状態のまま、手をこまねいて時間が過ぎれば、十一年前の再現、すなわち、ひどい凶作に陥ることになるであろう。
村長が真貴に尋ねた。
「巫女様、田の稲に取り憑く病魔をお祓いいただくことはできましょうか?それと……御田の稲だけは驚くほど健やかです。いかなる故でございましょうか?」
真貴は言葉を選びながら答えた。
「私が世話をしている田の稲は、籾を蒔く前に、塩と湯で清めました。龍神様に教えていただいた秘儀です」
村人たちは身を乗り出した。
「ただ、すでに田に植えられた苗に、この秘儀は施せません」
村人たちは唾を呑み込んだ。村長が尋ねる。
「では、もう手遅れと……」
「いえ、まだ打つ手はあります」
「それは……?」
真貴は村人たちの顔を見渡した。十一年前に、贄に立った自分を見つめていた時と同じ、縋るような眼差しだった。
「まず、病魔に侵された苗を抜きます。小さな斑点のものを含め、抜いて、焼き払います」
村人らが息を呑む。ユイが傍らで目を見開き、真貴の顔を見上げる。
「残りの稲の葉には、病魔を寄せ付けないようにする祓い水をかけます」
村人らが言葉を失った。
少しあって村長が真貴に尋ねる。
「それしか、打つ手はないのでしょうか?」
真貴はゆっくりうなずいた。
「私の知る限り、この方法しかありません。収穫は減りますが、今なら全滅を避けることができる見込みがあります」
村長はしばらく俯いたままでいた。やがて顔を起こし、振り返って村人たちを見渡し、絞り出すように言った。
「すぐに始めよう」
真貴は村長に言った。
「私は祓い水の用意をはじめます」
村長は村人を率いて田に向って行った。
その後ろ姿を見送った真貴は、和尚に硯を借り、小さな布切れに、急ぎ文字をしたためた。
「急要ス胆礬石灰」
その布切れを手に自分の住まいに戻り、鳩小屋に入った。真貴はユイに尋ねた。
「どちらの鳩が長く卵を抱いてますか?」
ユイが示した鳩は、まさに卵を温めていた。真貴はもう一羽をそっと捕まえ、ユイの助けを借りて、足に、先ほどの布切れをしっかり結び付けた。
二人は、その鳩を手にしたまま、鳩小屋を出た。まだ、小糠雨が降っていた。
真貴は鳩を放った。
鳩は、上空を何度か旋回した後、上野の方角へ飛び去った。
稲を伝染病から守るため、村も真貴も動き脱した




