第三十話 信濃国府
信濃国府は統治にいくつもの困難を抱えていた
信濃国府は諏訪大社の北、八里ほどのところにある。
橘広房以降、短い期間に次々と国司は替わり、前年より源重時が国司となっていたが、いずれも遙任であり、源重時の目代(国司の代理人)を源氏の一族である中原兼経が務めていた。
信濃は朝廷からすると、ある意味、統治が難しい国だった。ふたつの理由がある。
ひとつめの理由は諏訪大社の存在である。
朝廷の権威は記紀で語られる建国神話にあり、天皇が最高権威である根拠は天照大神の系譜にあることに依存している。しかしながら、記紀には天照大神とは別の系譜の神々の存在も示されている。その代表が、出雲の大国主神である。
大国主神は出雲で葦原中国を経営していたが、天照大神の高天原から国譲りを要請され争いになった。出雲側で最後まで抵抗したのが建御名方神である。しかし彼は高天原から派遣された建御雷神に敗れて諏訪に逃れた。この時、建御名方神はその地に鎮まり、高天原の支配を受け入れると約したという。
建御名方神を祀ったのが諏訪大社である。諏訪の大祝は建御名方神の直系の子孫で現人神とされ、諏訪では朝廷とは別の権威として存立してきた。
今一つの理由は、信濃の地形の複雑さにあった。
信濃には、飛騨、木曽、赤石、八ヶ岳といった山々が連なり、その間に、人々が住む盆地が点在している。盆地の間の行き来は山々を迂回せざるを得ず、人馬の往来には多くの時間がかかる。変事があっても、国府からすぐさま大人数を差し向けることはできない。このため、それぞれの盆地の治安の維持は、地域に根差した土豪に負うことになるが、その土豪たちが、必ずしも国府の意向に沿うとは限らず、野盗の類を匿うこともあった。
加えて、朝廷は奈良に都があった時代から信濃を配流の地としていた。
国府には流刑となった者が流刑地を離れないか、おかしな動きをしていないかを監視することが求められた。流刑の対象となるのは、主に京で何らかの役職についていた貴族だった。近い所では嘉保元年(一〇九四年) 八月に、白河上皇を呪咀したとのことで、源惟清の一族が罪に問われた。惟清の弟、源顕清の配流先が信濃の村上郷であった。
目代の中原兼経は、野盗対策に苦慮していた。
浅間山の噴火以来、治安は不安定で、野盗の出没はたびたび起きていた。
昨年来、中原一族の勢力圏であるにもかかわらず木曽の方で、旅人が襲われることが何度かあり、さらには村が襲われた。木曽から国府まで、徒歩なら二日、馬でも一日近くかかる。襲撃の連絡を受けて、追捕の兵を差し向けても、賊はとっくに去っている。賊がやってきた方角は隣国の美濃と推測できるが、他領となれば、国衙の武者が行方を追うことすらできない。
兼経は、主人の源重時に書状を送り、隣国美濃における盗賊の捕縛が必要と説いたが、どうやら、美濃国司の藤原顕輔にはものが言いにくいようで、重時の返事はひどく曖昧なものだった。
兼経が、もう一つ、京の主人に尋ねたことがある。配流人の源顕清が、甥、盛清の子である為国を養子と迎えるという話である。源顕清には、京から同伴してきた別の妻がいたが、その妻は出産後すぐに亡くなり、息子が残されていたはずだが、十年ほど前、浅間山が噴火したころに行方不明になっていた。当時の国司、橘広房が経緯を調べていたが、広房は殺された。
この件については、重時からは、あっさり養子縁組は差し支え無いと連絡があった。そのうえで、源顕清の失踪した息子については積極的な調査は無用である、ただ、その者の消息が知れたら連絡するようにとの、指示があった。
その日、長野方面に野盗の追捕に向かっていた武者たちが国府に戻ってきた。率いていた少掾(律令制における地方官「国司」の第三等官)の橘正季が報告した。
「戻りました。追捕の成果はありません。野盗はとうに去っていました」
「そうか……どのような様子だったのか?」
「野盗どもは未明に村を襲ったと村人が言ってます。人数は十人足らずのようです。村人を殺し、食べ物を奪い、女を攫っています。弄ばれたうえで殺されていました」
「賊の顔を見た者はおるか?」
「しかと見た者はおりません。ただ、首領には顔に大きな傷があり、片目が潰れていたように見えたというものはおりました」
「先月、飯山を襲った連中と同じ者たちか……」
「やり方や人数はほぼ同じです。ただ、暗い時間を狙って襲っていること、また、間近で向き合った者は殺されていることから、確かなことは言えません」
「うむ……事が起きた知らせを聞いて駆け付けても、どうしようもないか」
「彼らの本拠地を突き止め捕らえるのが筋です」
「ただ、上野あるいは下野に本拠があるとなあ……」
この時期、上野国は火山災害からの復興期にあったが、それは専ら在郷領主たちの私的な活動によるものだった。結果として上野の大半は私領となり、その権益を守るために中央の貴族に寄進され、荘園となっており、隣国の国司には手が出せない状況になっていた。
下野国のほうは、京では度々国司が任命されるものの、国入りすることはなく、地元の勢力が実権を握っていた。すなわち、北関東には国の力は及ばず、多くの土豪たちがそれぞれの裁量で支配している状況だった。
橘正季は自室に下がった。下僕に手伝わせ、鎧を脱ぎ、一人になった。
文机の前の円座に腰を下ろす。その上には文箱があり、硯と筆が収められている。いずれも父、広房が使っていたものである。
日が暮れて、暗くなってきたが、正季は机の前で考えていた。
ひとつは、野盗を捕える方法である。
国府の武者が知らせを聞いて駆け付ける限り、野盗を捕えることはまずできない。そうなると、諏訪神領の武者がやっているように、巡回をすることが一つの手だが、国府の限られた数の武者では広い信濃を巡り切れるものではない。野盗がどこに現れるか前もって知る方法が無ければ待ち伏せをすることもできない。
もう一つ考えるのは、上野と下野の対応である。
上野や下野の在地勢力には、賊を捕えるつもりはない。彼ら自身が賊の一味とまでは言わなくとも、賊を容認、あるいは利用していることは十分に考えられる。父、広房は、そのあたりのことについて何かを掴んでいた。しかし、それだけでは、下野国司の源明国が自ら乗り込んでくるほどのことでもないように思える。
これらのことを考える一方で、賊を幾人か捕縛しても、上野や下野の者たちが賊を匿っている証を立てても、賊は新たに湧いてくるであろうし、上野や下野の者たちがやり方を変えることもないだろう、とも思う。京は年貢さえ確保できれば、信濃や北関東の実情には興味はない。
正季は父と母、さらに自分を可愛がってくれていた老武者が朱に染まり倒れている光景を、今でも、夢に見ることがある。結局、父母や郎党の死には何の意味もなかったと思う。
正季は、ふと、先日の弓比べのことを思い出した。目代の中原兼経に請われたがゆえに射を見せたが、正季は弓比べのような、仲間内で見栄を競うような催しは好きではなかった。
ただ、あの場には見知らぬ顔が二つあった。一人は、初めに射を見せた望月秀柾である。奇をてらわず、渾身の力と思いを射に込める清々しい振る舞いは、新鮮だった。
もう一つは、主賓席に向かい挨拶をした時に目に入った巫女装束を纏った女であった。その女は、「何故?」と問うような、正季が見たことのない表情と目つきをしていた。
気が付くと、あたりは闇に包まれていた。雨も降りだしたようで、季節の割には、肌寒く感じる夜だった。
先の国府の息子、橘正季は少掾として国府に詰めていたが閉塞感に苛まれていた




