第二十七話 田植え
真貴は小さな田の田植えを神事として行った
翌朝は小雨になった。道中は大変になるが、真貴は嬉しかった。佐閑の苗代が水不足になるのではと心配していたからである。
風間家の手厚い見送りを受け、三人は、雨が降る中を佐閑へと向かう。御射山社祭に参加したときは、帰路でユイを狙う刺客に襲われたので、追跡者や行き交う者に厳しく注意を払っていたが、何事もなく海尻の寺に着くことが出来た。
夕餉を済ませたのち、三人は宿坊に入った。ユイが眠った後、秀柾が真貴に話しかけた。
「姉上、ご神事のお手伝い、お疲れさまでした」
「あなたこそ、立派に弓比べをやり遂げました。亡き、父、叔父も喜ぶと思います」
「他の誰よりも、姉上にお認めいただけるのが嬉しいです。この度は、姉上が言われていた修業の意味が分かったように思います」
「私が弓の修業について、何か申したことがありましたでしょうか?」
「弓の話ではなく、狼狩りの時に仰せられた『修業はできるようになること、分かることが楽しい、嬉しい、好きだからこそ身に着く』というお言葉です。今回の弓比べに備えての稽古ほど、楽しかったことはありませんでした」
「それは、良かったです」
「ただ、弓の奥義は遥か遠いことも思い知らされました」
「どうしたのです?」
「三人目の射手、橘様の射です。私は間近で見ました。まるで息をするように気負うことも力むこともなく射られていました。あれこそ、名人の射ではないかと思いました」
真貴は黒い影のような橘正季の射を思い出した。
「私には弓のことは秀柾ほど分かりませんが、橘様の射と秀柾の射は、目指しているところが違うように思えます。私は秀柾の射が好きですよ」
「ありがとうございます」
翌日、昼に三人は佐閑に戻った。
秀柾が、東雲と西風を厩に引き世話をしている間に、真貴とユイは苗代を見に行った。無事だった。苗は田植えに耐える太さ、長さに育っていた。
田植えに際し、真貴には計画があった。真貴は、和尚と村長を訪ねた。用向きは、龍神様への供物としての稲を育てる田植え神事をするので、参加を依頼するというものだった。
真貴の田はわずか三十歩ほどの小さなものなので、村人の手を借りなくとも田植えは行える。しかし、神事ということで田植えを一緒に行えば、田の状態も、苗の育ち具合も村人たちに体感させることが出来る。三日後を田植えと決めた。村長をはじめ、数人の村の主だった者が田植えに参加することになった。真貴は準備を進めた。
田植えの日の朝が来た。曇ってはいたが、雨はまだ落ちていなかった。村人たちと和尚がやってきた。真貴は巫女装束を身につけ、彼らを迎えた。
まず和尚が数珠を手繰りながら経を唱え、八大龍王に雨の恵みと豊作を願う。続いて真貴が、数株の苗を手に取って捧げ持ち、龍神への加護を願う祝詞を奏上し、襷をかけたユイが田に入り、真貴から受け取った最初の苗を植えた。
続いて村長が田に入る。真貴から受け取った苗を手にした瞬間、村長は戸惑った。予期していた苗の感触が、馴染みのものの倍近い、太さと重さのように思える。田の感触も予期していたものとは異なる。張られた水は冷たいが、足首まで埋まる泥には温かみを感じ、苗を植えた手に付いた泥も粘り気があり、強い土の香りがする。
田植えは続く。残りの数名の村人が田に入り半刻あまりで田植えは終わった。最後の苗を真貴が植えた。真貴は、和尚と村人たちに神事への協力の礼を丁寧に行った。
真貴は、田の面積が足らず、植えきれなかった苗をまとめて田の片隅に寄せた。村人たちはすぐには帰らず、真貴が植えきれなかった苗に集まり、手に取って、しばらく話し込んでいた。
翌日の昼、真貴とユイは寺で子どもたちに春の野草の汁を供した。真貴としては、冬の間に不足していたビタミンを子どもたちに摂らせたかった。子どもたちは、温かい汁を口にすることが出来るのは嬉しかったが、春が来て残念なこともあった。寒い時期に数日おきに出されていた干し柿が終わったのである。子どもたちは、来年はもっとたくさん干し柿を食べたいと真貴にせがんだ。
真貴とユイが片づけをしているところに、昨日、田植え神事に参加した村長と数名の村人がやってきた。真貴が田植えの礼を改めて述べると、村長が要件を切り出した。
「巫女様、昨日の田植えで植え残った苗ですが、どうされるのでしょうか?」
「あれは、田植えをした苗に不具合があった時に、代わりに植えるつもりでした。ただ、今朝も田を見ましたが、皆様のおかげで、植えた苗はいずれも大丈夫なようなので、おそらくは不要になるでしょう」
真貴は続けた。
「よろしければ、皆さんの田でお試しください」
その場が、しんと静まった。
「よろしいのですか?」
「はい。せっかく育った苗ですので、どこかの田に植えていただければ幸いです」
村人たちは、互いに視線を交わした。
遠慮と欲と、不安と期待が入り混じった沈黙だった。
やがて、村長が一歩前に出た。
「……では、少し、うちの田にいただこう」
それが合図になった。
「では、うちも」
「一株でもいい」
「様子を見るだけだ」
苗を分けて引き取る話はすぐにまとまり、村人たちは帰って行った。
真貴は、弓比べで橘正季を見て以来、気になりだしたことがあった。彼の父、橘広房が信濃に来て殺されるまでの経緯とその背景である。もしかしたら良真和尚が何かを知っているかもしれないと真貴は思いついた。寺は寺同士の独自の連絡網を持ち、多くの情報を共有しているからである。
真貴は和尚に尋ねてみた。
「和尚様、つかぬ事をおうかがいしますが、先の信濃国司、橘広房様について何かご存じでしょうか?実は諏訪で、ご子息という橘正季様が、秀柾とともに弓比べに出られてまして、その佇まいが、なんとも不思議でしたので、気になっています」
和尚は少し驚き、表情を曇らせた。
「そうよのう、真貴は知らぬ話になるな。橘広房様は殺められたんじゃ。国府でな」
やはり、橘広房は殺されていた。しかも、信濃の民草もそれを知っている。
「真貴、そなたが龍の洞に入った年はやはり凶作になった。わしらは、このままでは潰れが大勢出る、逃散も起きようと、案じていた。ところが、その秋、なんと国司である広房様は、自ら収穫のありのままを見るために村に来られたんじゃ。そして、その年の年貢を免じてくれた。加えて野盗のことも詳しく調べられてな、そなたたちを襲った野盗が上野側から来たこと、さらにその東の下野に本拠がありそうなことを言っておられた」
橘広房は、この時代にはありえないような、現場主義の有能で誠実な官僚だったようである。
和尚は続けた。
「聞くところによると、広房様は浅間権現様が火を噴かれた年に、信濃の守になられたと聞いている。年はじめは京におられたそうだが、噴火の被害が大きいとお知りになり、すぐに国府に来られたとのことだ。その時、わずかな供周りと、身の回りの世話を任す側女とその子をお連れになっていたそうだ。その子が橘正季様になる」
「広房様は国府に来られて、それまで京で聞いていた話と信濃のありさまがあまりに違うとお知りになり、つぶさに国内を自ら廻られていたそうな。そのなかで、上野から逃れてきた人たちがいることを知り、上野のことも調べられているうちに、上野の東の下野が、お国の法に反して、領内に逃れてきた人々を売り買いしたり、上野に分捕りに出かける者を黙認しているらしいとのことお知りになったと、信府に近い寺の者から聞いたことがある」
「広房様が、佐閑に来られた翌年の秋、突然、下野の国司、源明国様が、信府を訪ねてこられた。何やら揉め事があったようで、激高した国明様は太刀を抜いて広房様に切りかかり、止めに入った信府の武者も、騒ぎに駆け付けた側女の方も殺めてしまったそうだ」
本来、安全で規律がもっとも守られるべき国府内での不条理な殺人である。おそらく少年正季は血の海に沈む両親の姿を目の当たりにしたことであろう。
「国明様は、そのまま京に行かれたそうな。公(朝廷のこと)は国明様を佐渡国へ配流とされたのだが、その罪は大祭を控えた京に死穢をまき散らしたということで、広房様やその周りの方々を殺めたことは、私事とされ、罪に問われなかったらしい」
真貴は、橘正季の立場も、その気持ちも推測できた。側女の子であれば、父親という後ろ盾をなくした後、京に戻っても歓迎はされないだろう。真面目で仕事熱心だった父と、その父に信濃まで付き従って来た母を目の前で殺され、犯人は、殺しの罪に問われないと知れば、少年にどれほどの心の傷を残したものかと真貴は思った。
和尚は続けた。
「わしらは広房様が殺されたと聞いて、嘆き悲しんだものよ。信濃の国司になられた方で、国まで来られて民のありさまを自ら御覧になられた方は広房様だけじゃ。広房様がこの里に来られた時、皆、真っ暗闇に陽が昇り始めたと思った。この国司様ならきっと信濃を良い国にしてくれると信じた。ところが、いきなり、その陽が消えてしまったんじゃからな」
真貴は、和尚の話の最後を聞いて、常に闇を見続けているような橘正季の眼差しを思い出さずにはいられなかった。
和尚の話によると、橘広房は現場主義の有能で誠実な官僚だった




