ACCESS 01-4
かなり遅い更新です。しかも、結構グダグダ……
肌を打つ冷気に身を震わせ、恵子は目を覚ました。
垂れていた頭を上げると、首が痛い。それもそのはず、彼女は椅子に座ったまま眠っていたのだ。
「痛っ……あれ? 動く……」
痛みが走った首筋を無意識に抑えたのは、昨日ウィルスからダメージを受けた右腕だった。
もしやと思い、両の足に力を込めて椅子から体重を乗せ換える。……立てた。
よくわからない違和感が残ってはいるが、普段生活するのに支障はなさそうなので、深く考えなかった。
パイプが次々と伸びるタイプのスクリーンセーバーが走るディスプレイを、恵子は見、そしてその視線を下げ――机の上に乱雑に置かれた『ヘッドセット』を見た。
(あのウィルスは……いったい……)
暫く動かず、それを考えた後、視線を横に流した。
三年前からそこに居座り続ける電子時計は、九時五二分を示したところだった。
途端に、お腹が締め付けられるような気持ち悪さに襲われる。一秒遅れて「グゥ」と腹の虫が鳴く。
「…………とりあえず、何か食べよう」
開きっぱなし――恐らく母親が開けたのだろう――の扉を軽く押し、目を瞑っていても脳裏に映るほど見慣れた廊下を通り、同じく見慣れた階段を下った。
台所にはラップで覆われたおかずと、逆さに伏せられたお椀と茶碗、箸が並べられていた。その近くには、小型電子掲示板による書置きが残されていた。
『疲れているようなので今日は休んでいなさい。ご飯をちゃんと食べること』
パワーボタンを押して電源を落とす。
茶碗を持って炊飯器の蓋を押すと、水蒸気が飛び出し、次いでご飯の匂いが恵子の鼻孔をかすめた。
全自動で温度を一定に保つキッチンヒーターの上に鎮座している鍋の蓋を開け、中にある――何故かなみなみと作られている――味噌汁をお椀に適当に移す。
そうして、恵子の朝ごはんは完成した。
それらを特に味わうでもなく恵子は胃に流し込み、自分の部屋に舞い戻った。
自分の『ヘッドセット』と向き合い、どうすればあのウィルスを削除できるのかを考えたが、数分でその作業を止めて『ヘッドセット』を装着した。
一瞬だけ気が遠くなる。
が、すぐに青い世界が目に飛び込んでくる。
否、恵子が飛び込んだのだ。
「さて……っと。まずは情報収集か」
回線行くハッカーたちから噂でも、ガセネタでも何でもいいから少しでもあのウィルスについての情報を集めることに決めたのだ。
ネットワークへの回線を展開して、その穴に自分の細い体を滑り込ませる。
一瞬、彼女は自分の目を疑った。
あの見慣れた青い回線は無残に破壊され、セキュリティかハッカーのものと思われる赤いデータ片がその隙間に詰まってできた、赤い斑点が無数にあった。
その回線を進んでいくと、時折頭部のみが破壊された骸の胴からデータ片が流れ出、少しずつ崩れていく様が目に入る。
電脳空間には臭いがないのだが、鼻の奥がツンとする感覚を覚えた。
「一晩で、こんな……」
ところどころにあるウィルスの爪痕。
立ち入った場所のいくつかは、もはや空白のフィールドでもウェブページでもなく、ただの屑データとなっていた。銀行などは流石に大丈夫そうだが、おそらく運の悪かったパソコンは何台かが壊されているだろう。
顔見知りのハッカーは、いない。それどころか、必ず見かける名も知らぬハッカーの姿さえ確認できない。視界に入るのは、ウィルスに蹂躙された悲惨な回路ばかり。もしかすると、インターネット上にいる人間は、恵子一人かもしれない。
そんなことを考えた瞬間、背後に現れた気配。
考えるより早く動き出す。――ボコン! という破砕音が、衝撃と共に恵子に届いた。音の正体は、黒く巨大な、ゴツゴツした手。そこから伸びる腕は、手の大きさに相まった巨体。
爬虫類と似た頭、それに埋め込まれたルビーの瞳で、恵子を睨みつけた。
恵子はその姿を確認するや否や、踵を返して逃げようとした。が、
「ルルルルウゥゥウィィィィ!」
その先に、もう一体のウィルスが姿を現した。
慌てて近くのウェブページに入ろうとしたのだが、指定したURLが閉鎖されていて、侵入ができなかった。かといって、新しいウェブページなど作っている余裕はない。更に悪いことを言うと、帰路を展開する時間もない。
正に絶体絶命。恵子はその先を知ろうとも思わず、目を閉じた。ウィルスが飛び掛かってくる感覚が肌で感じられる。
恵子は、諦めた。
ウィルスに襲われる感覚がしてから、どれぐらい経っただろう? 未だに痛みを感じられない。一気に殺された場合は、痛みを感じないのだろうか? 否、ショック死したのかもしれない。
無駄だと思いつつ、恵子は双眸を開いた。その目に映り込んだのは、頭部が吹き飛ばされたウィルスの体であった。
飛び掛かる形のまま、回路の中を漂う。先の無くなった首から溢れ出ているのは、青いデータ片だった。それ以上の驚きは、ウィルスが削除されている点だ。セキュリティでも歯の立たなかった最凶のウィルスを、何者かが削除したのだ。
その姿を探すと、すぐに見つかった。背景など気にさせないような力強い雰囲気を纏った男性だ。その両手では、黒く光る拳銃が握られている。恵子は銃についてよく知らないのだが、恐らくそんなことは関係ないのだろう。恵子はおっかなびっくりその男に近づいた。
体中から発せられる迫力、風など吹くはずがない電脳空間で靡く銀髪、同じく靡く黒いコート、険しい表情をしてはいるが幼さが残る顔――美形の部類に入るだろう――、そして今まで電脳空間で感じたことのない、まるで本当にそこにいるかのような存在感、すべてが圧倒的な存在だった。
「君、大丈夫かい?」
表情の割に優しい声、恵子は拍子抜けして、曖昧な返事しかできなかった。
「よかった。……うん? どうしてそんな顔をしてるんだい?」
自分の顔を触ってみると、口がだらしなく半開きになっていた。赤面してそれを隠しながら、聞く。
「そっちこそ、なんでそんなに怒った顔してるの?」
「あ、マジ? ゴメンな、ここ臭いやばくて……」
「臭い?」
恵子は怪訝な顔をした。それに気付いた男は、「ああ」と顔を解しながら口を開いた。
「そうか。君は一般ハッカーか、それじゃあ臭いも分かんないよな。俺は近碑太智。それで一般ハッカーってのは――」
精神を送り込んだだけのハッカーや、キーボードで古来からの手法でハッキングを行う人のことである。この種のハッカーではあのウィルス――バグウィルスという名称があるらしい――には太刀打ちできないのだという。
そして一般ハッカーでない彼――太智はそのバグウィルスに太刀打ちする術を見つけたのだ。
その術とは、ウェブページのデータを変換、書き換えを行って武器を創りだすことである。太智の両手に握られている双子の拳銃がそうだ。
太智が言うには、バグウィルスも同じ手順を踏んで作りだされた、元はウェブページなのだそうだ。目には目を、同じ方法で作りだされた武器ならば対等に、元のデータ量がバグウィルスより多いのならそれ以上に渡り合えるという。ただし、書き換えられるデータ量が多ければ多いほど電脳世界は歪み、書き換えた内容によっては世界中から追われるようになる。
太智のそれは、もうずっと放置されていた、もうすぐ削除されそうなウェブページを元に創ったものである。そのため威力はやや弱めなのだが、必要な攻撃力は十分に備えている。
「でも、少し疑問点があるんだよね」
自立して行動するワームのようなバグウィルスが、青いデータでできていること。
セキュリティ、ウィルス系統――特にワームと呼ばれる種――、ワクチンプログラム、動画そしてダイブした人間。これらは【動】を表す赤いデータでできている。それに対になる青いデータは【静】を表し、ウェブページや文書ファイル、写真その他諸々動かないものはこれでできている。回路も青いデータである。
だが、バグウィルスは自立しているのに青いデータでできている。元がウェブページであるから当然ではあるのだが、バグウィルスは動いている。そこが解せないと、太智は言うのだ。
「おっと、無駄話が過ぎたな。じゃあ、気をつけて帰れよ。それと、もうネットダイブはやめておきな。でなければ、死ぬかもしれん」
踵を返してどこかにいこうとする太智の袖を、恵子は摘んで引きとめた。
「待って! 私にも戦い方を教えて! 友達の仇を取りたいの!」
「……だが、一歩間違えればそこには死が待っているぞ。俺からすれば、君には無事でいてもらいたいんだが…………そうもいかないみたいだね」
恵子の目は、復讐とそれを実行する希望に輝いていた。もはや、彼女の心を動かすことはかなわない。太智も、説得する気が完全に失せた。溜息をつきながら書き換えの方法を教える。
第一段階、『メイキングセット』の入手。『メイキングセット』とは、『ヘッドセット』と同じ会社が作った商品である。パソコンのマウスを接続する部分に接続するもので、ペンの形をしている。名前の通り、何かを作る為のものである。よく会社の作る商品のイメージ作成に使われる。だが、太智はその『メイキングセット』をそのまま使うのではなく『ヘッドセット』同様改造するのだという。改造に必要なのは回路分離基盤、『メイキングセット』二つ、『ヘッドセット』、半田鏝である。『メイキングセット』と『ヘッドセット』を分解し、映像投影回路や信号送信回路が切れないように回路分基盤に半田付けし、『メイキングセット』の信号送信回路を右手、左手の神経に繋がるように組み立てるのだ。
第二段階、改造をした『ヘッドセット』の衝撃に耐え抜く。『メイキングセット』を無理やり組み込んだ『ヘッドセット』は、普通に改造をした『ヘッドセット』よりも衝撃が大きいのだ。気が遠くなるというよりは、意識が持っていかれるような痛みが体中に走る。今恵子が使っている『ヘッドセット』は体が現実世界にあると感じられるのだが、太智の使っている――『メイキングセット』を組み込んだ――『ヘッドセット』は体の感覚から全てインターネットにダイブするようになるのだ。
それを乗り越えたら、ようやく書き換えに入る。
と、そこまで聞いた恵子は、
「ありがとう。それだけ聞けば充分。またどこかで会えることを願うわ」
と踵を返して自身と繋がるパソコンへと帰ってしまった。
「あ、おい! 書き換えるウェブページには気をつけろよ!」
という太智の忠告は、恵子の耳に僅かに届いた。
それから十日が経った。恵子の『ヘッドセット』は改造が終了した。今日がこの『ヘッドセット』での初ダイブなのだ。
――改造した『ヘッドセット』は今使ってるお前のものより衝撃が大きい。それは想像を絶する不快さだ、気をつけろ。
十日前に太智に言われた言葉が蘇る。一瞬躊躇した恵子だったが、ベッドで倒れている美琴を思い出すと、意を決して『ヘッドセット』を装着し、パソコンの電源を入れた。
と、恵子の目の前に警告板が現れた。
《ログインしますか?》
恵子はよく理解できなかったから、その下にある「OK」ボタンを押した。と、
「あああああああああああああああっ!」
突然体中に痛みが走った。体中が引き裂かれるような、細胞一つ一つが分解されるような苦しみに襲われる。特にダメージがあるのは脳だ。恵子は脳が破壊される痛みと、膨大な量の情報が流れ込む不快感で死ぬような思いをした。そして、分解された体が『ヘッドセット』を通してインターネットに引きずり込まれた。
目を覚ました場所は、鉄臭かった。
青い空間に漂っている。重力が感じられないから、どこが上でどこからが下なのかが感じられない。
――宇宙って、こんな感じなのかな?
宇宙よりあり得ない場所にいながら、恵子は思っていた。その反面、恵子はここがどこなのかを理解していた。当然といえば当然なのだ。なぜなら恵子は、従来の『ヘッドセット』で何度もここに足を踏み入れたからだ。……つまり、ここは恵子のパソコンの中なのだ。その見慣れた場所も、新しい『ヘッドセット』によってダイブすると、随分と違うものに変わった。
まず、臭い。涼しげな青い画面はきっと素晴らしい香りがするのだろう、と昔は思っていたものだが、現実は大きく違い、非常に鉄臭かった。まるで製鉄場やスクラップ置き場のように。
次に……これは今まで見たことがない。青だけの空間に四角い、大きな穴があった。体をそっちに動かそうと思うと、意志の向くままにスーッと空間を滑る。穴の向こう――穴から外には出られないらしい――には、力なく突っ伏した恵子自身の体があった。察するに、この穴はむこう側から見たディスプレイなのだ。
その新しい発見に気付いた彼女は、早速次のことを試したくなった。それは、武器――恵子の考えた名前――の創作。元々、その為の行動なのだ。恵子はいつものようにパソコンから回路へ潜る為、『EXIT』を展開する。と、
「うえっ、臭っ」
鼻の奥に突き刺さるような臭いが、『EXIT』から、正しく言うとその奥から噴き出した。と同時に、初めて太智と出会った時に彼が言っていた言葉を思い出した。
――「あ、マジ? ゴメンな、ここ臭いやばくて……」――
今の恵子なら、その言葉に激しく同意する。
電脳世界の臭いは今、鳥肌が立つほど嫌なものになっている。血の臭い、腐敗臭、ゴムが焼けるような臭い、人が嫌がる臭いがほとんどここに集まっているようだ。
だが、恵子はこの程度で躊躇などしない。まずは手頃なウェブページを探し出し、武器を手に入れるために近くのウェブページへ侵入する。そこの『リンク』を使って転々とウェブページを渡り、丁度いいものを手中に収めようとする。
だが、現実は何処の世界でも厳しかった。ただ単に恵子の引きが悪いだけなのかもしれないが、彼女の渡る先はどれも情報量の大きいものばかりで気軽に手を出せない。
感覚が研ぎ澄まされているかのように、入ったウェブページがどれほどのものなのかがすぐにわかる。これも『ヘッドセット』の機能の一つなのだ。
即ち、バグウィルスの気配も分かる。どのぐらいの範囲まで感じることができるのか不明だが、今感じる気配は三つ、何をするでもなくうろついているだけのようだ。
武器を持たない今、恵子はバグウィルスと接触することを極力避けている。理由は単純に死にたくないからなのだが、心持が前の時と比べて違っていた。前は足を電脳世界で破壊されても現実世界では半日経てば治る程度の麻痺でしかなかったが、今の状態で手足を破壊されたら現実世界の体も同じ部位が動かなくなりそうな感じがするのだ。そのこともあって、恵子はいつもより少し慎重になっている。
警戒しながらリンク先のウェブページに入り込む。と、体が重くなったような気がした。恵子の体がこのページの情報を感じ取っている為、体の動作が遅れているのだ。それほどにこのウェブページは情報量が多い。……そう、すぐ近くに危機が迫っていることも気付けないほどに。
「――!?」
それに気付いたのは、攻撃される寸前だった。
危険を感じ取った体が逸早く動き、それに頭を噛み砕かれることを避けた。
武器を持たない状態の恵子は、単に即死の可能性のある体をした一般ハッカーにすぎない。即座に他のウェブページに渡ろうとしたが、そのリンクがバグウィルスに食べられた。
「嘘!?」
バリバリと噛み砕かれるリンク。バグウィルスの口内で粉々に分解されたリンクは、ゴクン、とバグウィルスの体内に収納された。
すると、そのバグウィルスは突然苦しむような呻き声をあげ、頭を押さえだした。毒でもあったのだろうか、と呑気なことを考えてしまった恵子はこの直後に後悔した。別のリンクを使ってこの場を離れればよかった、と。
バチッ、とバグウィルスに電気が走ったかと思うと、その巨体が更に巨大化した。額からは真紅の角が皮膚を突き破って生え、甲高かった鳴き声は低くなり、腹の底に響くようなものになった。
「グルルルルルゥゥ」
目の前の非現実に目を奪われていた恵子は、我を取り戻した。一層凶暴化したバグウィルスから逃げるべくリンクに足を向けたが、
「グオオオオオッ!」
前の状態など比で無い速さの体当たりによって、残っていたリンクは全て砕かれた。
茫然としている恵子の手を、誰かが突然握った。と感じる前に、彼女の見ている景色が後ろから前に流れ始めていた。振り返ってその人物を見ると、それは偶然にも太智だった。その太智は、自分たちに狙いを定めたバグウィルスに向かって、右手に握った拳銃の引き金を絞った。拳銃から放たれた二つの弾丸は、過たずバグウィルスの双眸を撃ち抜いた。
「あの程度ではすぐに回復する。広告から逃げるぞ!」
恵子に有無も言わせず、太智は彼女の手を引いてこのウェブページに貼られていた広告から他のウェブページへ飛んだ。
残されたバグウィルスが、ウェブページを不安定にさせるほどの大音量で怒り任せに鳴いた。
バグウィルスはどうなったのか? 恵子の武器はどのような形なのか? すべては次回に書こうと思います。